「ダ・ヴィンチに肖像画を拒まれた」ルネサンスのカリスマ貴婦人イザベラ・デステとは
長年に渡りイタリアの文化・芸術の偉大な庇護者であった名門貴族エステ家。
ルネサンス文化の隆盛に大きく寄与したことでも知られるこの一族に、政治手腕と芸術的センス、そして美しさで知られた最強レディが存在していました。
彼女の名はイザベラ・デステ。
今回は、彼女の生涯をたどりながら、ルネサンスを代表する巨匠たちとの関わりについてご紹介します。
英才教育を施される
イザベラ・デステは、1474年にフェラーラ公エルコレ1世・デステと、ナポリ王女エレオノーラ・ディ・ナポリの娘として誕生しました。
幼い頃より聡明で活発であったイザベラは、6人の子宝に恵まれた両親からも特に目をかけられて成長します。
父エルコレ1世は、子どもたちに優れた教育を施すことに非常に熱心でした。イザベラは様々な学問を学び、芸術や文化にも深い関心を示しました。
特に音楽と絵画には強い興味を持ち、後の宮廷での文化活動にもその影響が見られます。
また、母エレオノーラと共に度々ナポリ王国を訪問する経験を通じて、多様な教養と外交的センスを身に着けていくことになります。
妹の結婚式の芸術監督に垂涎
1490年2月、16歳になったイザベラは、かねてよりの婚約者であった8歳年上のマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと結婚します。
ちなみにイザベラの妹ベアトリーチェは、翌1491年にミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァと結婚するのですが、実は新郎ルドヴィーコが元々プロポーズした相手はイザベラだったという説があります。
しかし、イザベラは既にフランチェスコ2世と婚約していたため、代わりに白羽の矢が立てられたのがベアトリーチェであったとされています。
イザベラの婚姻はエステ家の長女にふさわしく、盛大で華やかなものでした。
しかし、翌年に執り行われた妹ベアトリーチェの婚姻には、目を見張るものがありました。
というのも、ベアトリーチェの夫ルドヴィーコが、レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンであったため、2人の結婚にまつわる祝祭の芸術監督はレオナルドが務めたのです。
芸術・文化をこよなく愛するイザベラにとって、当時既に巨匠と名高かったレオナルドが取り仕切る妹の結婚式は、誇らしさとともに強い対抗心を抱かせる出来事だったことでしょう。
敏腕政治家としての側面
結婚後のイザベラは、単なる宮廷の婦人としての役割にとどまりませんでした。
夫フランチェスコ2世は、ヴェネツィア共和国軍の司令としても多忙であり不在がちであったため、彼女はしばしば夫を凌ぐ統治能力を発揮し、国内外の政治や外交に積極的に関与しました。
特に多々の摩擦を生じていたフランスとは、ルイ12世との交渉を通じて友好関係を築くことに成功し、関係改善を大きく進めました。
またフランチェスコ2世が捕虜として幽閉された際には、夫に代わり3年ものあいだ国内で実質上の統治を行い、マントヴァを守り抜いたのです。
一方で、イザベラは自身の教養や文化的素養を高めることにも熱心でした。
彼女のもとには多くの学者や芸術家が招かれ、ゴンザーガ家の宮廷は文化の中心地として発展していきます。
また、審美眼に優れたイザベラは、美術品の収集にも力を注ぎ、彼女のコレクションは次第に充実していきました。
イザベラと巨匠の関係
しかし、嫁ぎ先のゴンザーガ家の財政の実情は、決して豊かではありませんでした
そのため、イザベラの芸術への高い関心とは裏腹に、彼女は芸術家にとって理想的な「惜しみなく支援を行うパトロン」にはなり得なかったのです。
1500年、スーパースターであったレオナルド・ダ・ヴィンチが、旅の道中にマントヴァに立ち寄ることがありました。
イザベラは彼を歓待し、肖像画を描くよう依頼しました。
レオナルドは礼儀として、チョークを用いて彼女の素描を描きましたが、それはあくまで下絵の域を出るものではなく、正式な肖像画として仕上げられることはありませんでした。
これは、夫がパトロンであった妹ベアトリーチェの肖像画と大きく異なる点でした。
イザベラはレオナルドがマントヴァを去った後も、何度も完成を催促しましたが、彼がこの依頼に応じることはありませんでした。
なぜなら、巨匠レオナルドにとってイザベラは、庇護を望むべくもない小国マントヴァの侯妃に過ぎなかったからです。
また、イザベラの方も当代きっての一流芸術家を意のままに動かすほどの財力はありませんでした。
高い身分にあり、政治的には敏腕をふるった一国の妃であっても、天才芸術家を自由に動かすことは意外なほどに難しかったのです。
盛れる肖像画でないと
イザベラは、自らを「芸術家の庇護者たる優雅な貴婦人」として印象づけることを重視していました。
彼女自身のプライドもあったでしょうが、これは単なる自己満足ではなく、政治的な戦略としても重要な役割を果たしていたのです。フランス王ルイ12世との外交においても、彼女の知性と文化的な教養が交渉における強みとなり、影響力を発揮していました。
その証拠に、ルイ12世の妃アンヌ・ド・ブルターニュは、イザベラの洗練された装いに感銘を受け、彼女のファッションを取り入れるほどでした。
そんなイザベラは、当然セルフプロデュースにも長けていました。
当時、マントヴァ侯のお抱えとして知られた芸術家の一人に、画家マンテーニャがいました。冷徹したリアリズムで知られるマンテーニャの才能をイザベラは高くかっていたものの、自身の肖像画を描かせることは決してしませんでした。
肖像画において、年齢と容姿をリアルに描き出す画家を、彼女は採用しなかったのです。
代わりにイザベラが求めたのは、ヴェネツィアを代表する画家ティツィアーノの肖像画でした。
ティツィアーノは、肖像画においてモデルの社会的地位にふさわしい威厳と美しさを強調し、理想化することを心得ていました。
今でいうところの「盛れる」ビジュアルを描く手法に長けていたのです。
レオナルドによる肖像画は叶うことはありませんでしたが、ティツィアーノが描いたイザベラの肖像は、華やかな衣装に身を包み、毅然とした気品あふれる姿を今に伝えています。
最期まで建設的に合理的に
イザベラのこうした才覚と自信に満ちた振る舞いに、夫フランチェスコ2世は複雑な感情を抱いていたのかもしれません。
後年、彼はイザベラの義妹であるルクレツィア・ボルジアと不倫関係にあったとされています。
しかし、イザベラはこの出来事に動揺することなく、悲劇のヒロインに甘んじることはありませんでした。
マントヴァでの政治の第一線を退いた後、彼女はローマへと移り、そこで各界の名士たちから大いに歓迎されたのです。
その後、ロマーニャ地方のソラローロという小さな地域を治めることになりましたが、ここでも見事な統治能力を発揮し、その手腕を存分に発揮しました。
晩年のイザベラは、美術品や書籍のコレクションに囲まれながら、穏やかで充実した日々を送りました。
1539年65歳で生涯の幕を閉じたイザベラは、芸術を愛し、建設的で合理的な「ルネサンスの精神」を体現した女性であったと言えるでしょう。
参考文献:『美女たちの西洋美術史~肖像画は語る~』/木村 泰司(著)
文 / 草の実堂編集部