光に当たろう 風や光とともに ゆったりと生きていこう/自給自足を夢見て脱サラ農家40年(68)【千葉県八街市】
自給自足を夢見て脱サラ農家40年 第68回
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光に当たろう
立派でありたい 正しくありたい
それはひとまず置いといて
田舎暮らし・・・
風や光とともに
ゆったりと生きていこう
森永卓郎さんの「トカイナカ」論と田舎暮らしの愉しみ
今回は話があちこち飛ぶかも知れないがお許し願う。
ここ1か月、テレビや新聞で目にしたこと、並行して読み進めている何冊かの本・・・ その話題がどれも捨てがたい、ちょっと欲張ってみようと思うのだ。
「トカイナカ」という発見
1月に亡くなった経済アナリスト森永卓郎さんが前から好き。世間では大問題であるはずの事柄をサラッと言う。その森永さんの言葉「トカイナカ」に初めて出合ったとき、ふふっ、うまいことを言うなあと思わず僕は微笑んだ。
大都会でなく、荒涼広大な田舎でもない。都会と田舎を混ぜ合わせたような・・・そんな場所として森永さんは埼玉県所沢市を選んだ。
僕は上京して数年、西武線沿線のアパートで暮らしたので、今でも所沢は身近に感じる街。
そこで森永さんは野菜作りに取り組む。そして言う。農業は人間的な喜びが得られると。作物を雨、風、病気が襲い、虫や動物の被害もある。それらと闘うために作戦を練り、作物を守る。それをもって森永さんは、農業は「知的な作業である」とも言う。
→数回に分けてまく人参。第一回目は年明け早々だった。発芽に水を必要とするゆえ、明日は雨という日にまく。しかし激しい降りだと発芽は逆に……。
森永流「カネのかからないエンタテイメント」
さらに森永説が面白いのは、東京などの大都市ではグルメ、ショッピング、音楽、舞台、カネさえ払えば多くの楽しみが享受できる。対して、大都市以外にはカネのかからないエンタテイメントがいくらでもある。例えば・・・と森永さん。「草原に寝転がって空を眺めていれば雲が流れる、鳥のさえずりが聞こえる、さまざまな植物が芽を出し花を咲かせている……」。この後がもっと面白い。森永さんらしい。
ただし、それらを楽しめるかどうかは、本人の教養レベルに依存する。逆に言えば、教養レベルを上げればエンタテイメントを楽しむためにわざわざ無理して働く必要はなくなるということだ……。
知らない花の名前がけっこうある。だから僕の教養レベルには疑問符が付く。でも、おおむね森永説はあたっていると思う。森永さんは野菜だけでなく、田舎では“エンタテイメントも自給できる”と言うのだが、田舎暮らし通算46年の僕が今も飽きることなく、ハードな日々なれど楽しくやれるのは何もかもがエンタテイメントであるからだろうか。
命の営みは最高のエンタメ
一例としてこんなエンタテイメント。
思いがけない雪と寒さで苦しめられた翌日、3月下旬のこと。空気は冷たいが光の春が戻って来た。荷造りにあわただしい僕のそばでグワグワ、コポコポといった鳴き声がする。チャボかと思ったが違う。蛙だった。交尾の最中、声の主はオス。毎年、雨の季節、ランニングの途中で道路に佇む蛙に出合う。「そのままじゃ車に轢かれるぞ」。何度も抱いて帰り、ナマズやウナギのいる、初夏に睡蓮の花がいっぱい咲くプールに入れてやったのだ。
→富士には○○が、睡蓮には雨が・・・よく似合う。この睡蓮の花の下では何匹かの蛙が暮らしている。
冬の間は姿が見えなかったが、やっと春が来たんだな。恋の季節を迎えたんだな。カップルは1組と思っていたが、もう1組いることがわかった。背後からしっかり抱くオス、抱かれるメス、両者真剣なまなざし。そして感心、笑う。この姿勢のまま、実に器用に庭を移動して行くのだ。交尾の翌々日、蛙たちの姿はなく、代わりに卵の詰まったふんわり帯がいっぱいあった。
忘れられない人々、筑紫哲也さんと小倉弘子さん。そして「光」を浴びる田舎暮らし
楽天的な生き方を
さて、もうひとり、僕には好きだった人がいる。2008年に亡くなった筑紫哲也さん。
朝日新聞の「一語一会」。そこに登場したのは、かつてその筑紫さんを上司として働いていた小倉弘子さん。50歳でTBSを辞めて目下のところ仕事なし。「何もせず家にいる。イコール収入ゼロ。忘れられそうで怖いです……」。そう言って笑わせる。筑紫さんはそんな小倉さんを「どんな時でも楽天的に渡っていく人」と評したそうだ。
筑紫さんは彼女の結婚式で、吉野弘さんの『祝婚歌』を朗読する。
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい
僕の仕事ぶりをそばで見たら「ゆったり」の言葉は当たらない、ビンボー暇なし。あくせく働いていると思うはず。午前の作業をすませ、泥だらけの作業着のまま部屋に入ってランチする。パソコンを開く。野菜のお客さんや業務上の連絡を確認し、ランチの皿を左手で持ちながら先方にすぐメール返信する。
加藤登紀子さんの言葉「光に向かって立つ」
→田舎暮らしの10月の23
そして再び畑。しかし本人の心は「ゆったりゆたか」である。毎夏、裸になって光を浴びる。わざわざ裸……。バカじゃないか、そんな声もあるが、田舎暮らしの適正判断。ひとつは光が好きかどうか、光に貪欲であるかに関わる。我が心がガンガンの光に浮き立つのは島生まれ、夏休み40日を海で泳ぎ続けたせいか。日焼けやシミを心配する人に真夏の光は「ゆったり」を超え「酷」かもしれない。でも・・・。加藤登紀子さんは「ひらり一言」で書いている。
「光に向かって立つ。光を背負わない」。大きな後ろ盾に頼ると、あなた自身が影になってしまう。光に向かって行こうとするからこそ、あなた自身が輝く。
男性にもある更年期障害
光は心を明るくするのみならず、強い骨も作ってくれる。骨粗鬆症が増えている。「患者の9割が女性」という新聞の報道があった。閉経によって、骨が壊れるのを防ぐエストロゲンが急激に減る。骨密度が低下、骨がもろくなる。その対策は、食事からのカルシウム摂取、そして運動と日光浴。
ジョギングなど重力のかかる運動で刺激を受けることで骨は強くなる。カルシウムの吸収を促すビタミンDは日光を浴びることで生成される。世間ではいかに光を遮断するかというテーマには熱心、いかに多く光に当たるかを述べることはない。運動せず室内に籠ることが多く、外出の際も完全防備で光を遮る……。これでは骨の折れる老後だけが待っている。
一方、わりあい最近、男にも更年期障害があると知って驚いたが、こちらもやはりホルモンの影響。テストステロンの減少で疲労感、倦怠感、イライラ、性欲減退などを招く。引き金は職場でのストレス。テストステロンは「社会性ホルモン」とも呼ばれる。他人から評価されると増える、逆に職場での人間関係や配置転換などで減る。
40何年か前。どうにも相性の良くない上司との日々。きっと僕のテストステロンは減少していたはず。しかし、幸い逃げ場を作った。ひとつは1回目の田舎暮らし、もうひとつはマラソン。サブスリーを目標に走り続けた。更年期障害の打開策は運動、筋トレ、リラックスできる時間だというから、偶然ながら、我が「逃げ場」である田舎暮らしとマラソンは効果絶大だったということになる。
「トカイナカ」に生きる男の緊張とエンタメ
相性の悪い上司との関係をどうにか耐えた6年間。会社を辞めて10年後、創業者が亡くなり、都内のホテルで開かれるお別れ会に招かれた。
ホテルのロビーで椅子に座っている僕にあの上司が歩み寄る。そして言った。あなたには悪いことをした……。
小さな笑顔とともに真心が感じられる言葉だった。今の僕には疲労も倦怠も性欲減退も当てはまらない。他人からの評価に遠い百姓生活。ストレスフリーということか。人間の体の多くはホルモンに支配されている。長く医学雑誌に携わっていた僕はホルモン名を覚えるのに難儀した。だから現在も多くが記憶に残っている。
筑紫哲也さんが朗読した詩の言葉……。「トカイナカ」に、ひきこもる男には、まさしく世間では、立派でありたい、正しくありたいとの思い、そして無理な緊張が溢れているようにも思える。その緊張をあつらえモノのエンタテイメントで相殺する。
山小屋の自給生活と畑を歩む哲学
「お日様万歳!」山暮らしで細胞が目覚める歓び
フレデリック・グロ著『歩くという哲学』(山と渓谷社)、小川糸著『今夜はジビエ』(幻冬舎)。2冊を今、並行して読んでいる。小川糸さんは愛犬との、標高1600メートルでの山小屋暮らし。庭を歩くときは裸足。その庭にハーブや野菜を植え、夜は薪ストーブのそばでワインを飲みながら、大音量で音楽を聴く(近所に気兼ねする必要がない)。味噌、梅干しを作る、石鹸を作る、スキンクリームを作る。まさしくエンタテイメントまで含めた自給。すごい人だ。
僕がそうだなあと頷いたのは、「空にお日様があるだけで気持ちが明るくなる」という表現。小川さんは東京では時間割で働く生活だったが、山ではすべてがお日様の動向に左右される、朝の光は何よりのご馳走で、身体の中のすべての細胞が喜びに満たされる、そうも言う。僕も同じ。田舎暮らしという選択は間違いじゃなかった。それは林間をすり抜けたオレンジ色の朝陽が東の窓に進入する瞬間。猫は幸せ。その洗顔の姿を目にする人間も幸せ。
思索をする者は、ひとりで歩くのを好む場合が多い。歩くということは、自分のもっとも深いところにあるリズムを見いだし、それを守ることだから。
フレデリック・グロは上のように言う。歩くことは体によい。1日1万歩をめざそう。世間では以前からそう言われている。僕は・・・毎朝のランニングのほかに、野菜を収穫し、ビニールハウスやビニールトンネルを組み立てたり補修したりで、10時間労働のうち少なくとも5時間、畑を移動する。歩数でいうと3万くらいだろうか。
土の上を歩むリズム、それこそが魂の哲学
ただし思索という言葉からは遠い。日々なすべき作業ノルマは15くらい。日暮れまでにそれをやり終えねば。歩きながら現場に向かう、頭には目前の作業を素早く終え、次のノルマに移動することだけがある。でも、思索には遠いのだけれど、心がギユッと凝縮され、目的地だけを見つめる視界の中に鮮明沈着な心理空間が広がる。足がもたらしてくれるのだ。
田舎暮らし、百姓暮らしという「自分のもっとも深いところにあるリズム」、それが畑土の上を歩き続けることで具体化されるらしい。そしてフレデリック・グロが言うように、僕も独りで歩くことが好き。思索からそもそも遠いが、日暮れ時となるともっと遠くなる。畑仕事がすべて終わり、ヒヨコも寝かせつけた。それからヘッドランプで夕刊を読み、腹筋をやるのだが、35度の角度の腹筋台から体を起こしつつ、「よっし、これがすんだら風呂だぜ、酒だぜ……」。思索とはまるで違う卑近な欲望が頭の中を駆けめぐる。
猫と分かち合う、ささやかな幸福
『今夜はジビエの』の小川糸さんは、動物福祉についても書いている。僕も前回触れたが、狭いケージでのニワトリ、狭いストールでのブタに小川さんは心を寄せている。ドイツでは、卵を産まず食肉にもならないオスのヒヨコを年間4500万羽、生後すぐに殺していたが、殺処分禁止の法律ができた。それによって卵の値段が上がったらしい。でもかまわないと(かつてドイツで暮らしていた)小川さんは言う。平飼いの卵を10個500円で買っているとのことだが、日本のスーパーで売られている卵は安すぎる。ゆったり暮らしているニワトリたちの卵は、この値段が妥当であろう、そう書いている。
動物福祉で思い出すのは天声人語で紹介された静岡県焼津の齋藤洋孝さんだ。齋藤さんは、やたら噛みつく、吠える、唸る、あるいは虐待され、心を病んで人に懐かない、そんな犬ばかり40匹を育てながら暮らしている。
そこに至るエピソードが面白い。かつてフェラーリに乗るほどだった斎藤さんが会社の経営に行き詰る。「もう死のう」と決めて自宅を出ようとしたとき、飼っていた70キロの大型犬がドアの前に立ちふさがり、動かない。
すべてをわかっていて、止めているな・・・そう気づくと死ぬ気が失せた。助けられた命だ。自分以外のために使おう。人に噛みつく犬を保護するという珍しい活動を始めた。
コロナ禍が終息した頃、犬猫などペットの放棄が増えたというニュースは我が心を痛めた。急に家にいる時間が長くなり、ペットを飼う人が増えた。しかし、在宅勤務の終了とともにペット飼育が煩わしくなり捨てる、そんな人が多かったというのだ。
安直なエンタテイメントにすぐ手を出す、しかし飽きっぽい・・・僕の嫌いな都市型思考の産物ではないかという気もするが、どうなのか。うちの猫、退屈なのか、それともジイチャン、ちゃんと働いているかと監視のつもりか、仕事現場にやって来ることがある。僕のそばでゴロゴロをして見せる。僕も一緒にゴロゴロをやり、最後に抱きしめる。
→チビくろを抱く
→連作障害を避けるため毎年トマト作りには苦心する。今年最初の植え付け場所に選んだ所は日当たりは十分だがかなり狭い。のべ4日で完成。
土の叫び、在宅の迷宮、そして桜の下の 哲学
土だって、さんざん苦しめられたからね。(ハリーナ・ドミトリヴナ)
腰の痛みをこらえてトマト用の腐葉土を運びながら思い出したのは、読売新聞「四季」で目にしたこの言葉だった。ウクライナやガザ、毎日のように炎と黒煙が上がり、瓦礫の山ができる。戦争で傷つく人間が悲しいのは言うまでもないが、家畜も草花も傷つき、大地はもっと傷つく。百姓だからなのか、もともとの性格か、破裂した砲弾や重油の炎を浴びてなお、静かにもの言わぬ土が僕には切ない。
平和とは、耕し、実り、それを食べ、明るい太陽の下でしばし野鳥のさえずりに耳を傾けること・・・ではあるまいか。トマトの苗を植える準備をしながらそんなことを思った。気温が20度に達すると同時にウグイスの声が途切れなく耳に届く。満開のプラムの枝をメジロたちが楽しそうに渡っている。我が暮らしはささやかに平和である。
家だと人は怠ける?
今回のしめくくりはこの話としよう。コロナ禍で定着した在宅勤務。それを当初は勧めたアマゾンだが、2年前に週3日出社と変更し、今回さらに週5日のフル出社を義務付けたという。EV大手のテスラも週40時間以上オフィスで働くよう命じているらしい。
企業側が在宅勤務に背を向けるのはなぜか。自宅では働いているフリをする、家だと人は怠ける、そんな考えが根底にあるからだという。僕は初めて知って驚いたのだが、パソコンのキーボードやマウスが一定時間内に入力がないと警告を出す、数分ごとの撮影で社員がパソコンの前にいるかどうかを確認する、そんなサボリ監視ツールを導入する企業もあるという。いやはや。
完全在宅40年の百姓が斬る! 「仕事の真価は畑が知っている」
在宅勤務ってどうなのよ。かつて残業と休日出勤が月に70時間。在宅勤務なんて夢にも考えなかったサラリーマン時代から転じて40年。完全在宅勤務であるこの百姓はアマゾンやテスラの問題をどう考えるか……。簡略にいうと、百姓仕事はフリなんかできっこない、やってやれないことはないが、結果は歴然、畑の上に現れる。人参、キャベツ、ソラマメ、大根、それらがきちんと出来て収穫してナンボ。仕事をしたかしないかは作物を見れば分かる。
米が高い。備蓄米が放出されても昨年までの倍。「高いじゃないか!」と農家を責める人もいるらしい。そんななか、東京都心にトラクターを連ね、米農家や酪農家による「令和の百姓一揆」と称するデモ行進が行われた。その実行委員会の代表者は「農業の衰退は多くの国民が知らない所で進んでいる。このまま生産者が減れば食糧危機がいつ起きてもおかしくない」と言う。農業者は1960年に1175万人、2000年に240万人、2020年にはなんと136万人にまで減った。平均年齢67。8歳、49歳以下は全体の1割しかいないという。
「暇ではないのに退屈」満開の桜の下で我思う
高齢化と収入不安
収入は安定しない、だから若い農家は増えず、高齢化で生産者は減るばかリ……。僕の月収は26万円。年金と農業収入が半々。まあ何とか生活できている。労働時間は日照の少ない冬が8時間、真夏が11時間。日曜祭日とは無縁で365日働く。荷物1つ仕上げるだけでも3時間を要し、時給は1000円に満たず。それでも百姓生活を捨てない。日々の作業どれもが自分の体質にマッチ、退屈しないからだろう。
僕は食べ物を自分の手で作れる、家賃も不要だからいいが、頼れるのは年金だけという人は辛い。75歳男性の例。年金月額12万円(手取り10万5000円)。家賃光熱費通信費が7万円。医療費が1万円。食費に回せるのは1日500円だという。「このまま食料品が値上がりし続けたら、1日1食も覚悟せねば」という。きびしい現実だ。
今の僕はどこにも出かけない。何か美味い物を食べに行こうという気もない。会社勤めの頃は短い休みをフルに使い、北海道、黒部、山陰、九州、せっせと旅した。あれは本当に楽しむ旅だったか。毎日の緊張と鬱屈をなんとか帳消しにしたい、一種の逃げだったのではないか。梨の授粉作業をしながら思う。
我が家の桜は開花が4月1日、満開は8日。開花から数日は寒の戻りなんて言葉が生易しいほどの寒さと雨。日中の気温6度。全身畑で硬直した。最後は荷造りのガムテープが切れなかった。しかしいま春爛漫。ポットまきのエダマメを定植しながら苗木を植えて35年の桜を仰ぎ見る。
この写真。夜間照明を浴びて美しい都会の桜・・・あれに似ている。だが違う。落日間際の西の空から水平の光を受けているシーンだ。直前に通り雨があった。人間でいうなら風呂上がり。雨に埃を洗われた桜は美しさを増した。そんな桜の木の下で頭に浮かぶ。「暇ではないのに退屈」という哲学めいた命題。
「暇ではないのに退屈」の矛盾
朝日新聞編集委員が『暇と退屈の倫理学』を著した哲学者、國分功一郎氏にインタビューした記事。暇とは自由な時間、退屈とは暇を持て余す気持ち。その関係が現代ではある種の矛盾となり「暇ではないのに退屈」という形で現れる。上に書いたように僕は日曜祭日なく、日々10時間働く。明らかに暇じゃない。しかし「退屈」でもない。それゆえこの問題への興味が募る。
暇ではないのに退屈で、「激しい情念」に駆られがちな人々はどうすればいいのかとの問いに國分功一郎氏は答える。
次々と消費を迫られる娯楽にではなく、暮らしを豊かにする芸術や食といった「贅沢」に触れ、人間らしく生きる楽しみを見いだす。そんな楽しみがわかる教養を身につける。
「教養」という言葉にハッとする。冒頭に引いた森永卓郎さんの言葉と重なったからだ。芸術はともあれ、我が暮らしに食は間違いなく「贅沢」である。レタス、カリフラワー、ソラマメは順調に育ち、昨年不作だった果物も不作を挽回するかのようにウメ、アンズ、プラムが豊かに結実している。これを追ってイチゴ、ブルーベリー、ラズベリー、桑の実、イチジクが実る。
人間がどんなに愚かであっても、いかに自分らの都合で自然に手を加えようとしても、それでも春はやっぱり春であった。
天声人語はトルストイ『復活』の一節を引く。これに続き、数々の大学の学長が入学式で新入生たちに語り掛けた言葉を引く。僕の心を捉えたのは同志社大学長のこの言葉。
いま大切なのは、機械に刻まれ、管理される時間<クロノス>ではなく、自然のなか、ゆっくりと時を満たす感覚<カイロス>ではないか……。
せわしない日々とゆったりとした感覚
ギリシャ語には時間を表す言葉がふたつあるのだという。先に書いたアマゾンやテスラ、そしてサボり監視装置、あれはもしかしたらクロノスか。対して田舎暮らし、百姓暮らしはもしかしたらカイロスか・・・すでに書いたように、この百姓の暮らしは日々バタバタでせわしない。体の動きを止めるのは荷造りを終える午後4時過ぎ、珈琲と草取りついでにつまみ取ったイチゴを口に運ぶときだけだ。それでいて、ゆっくりと時を満たすカイロスの感覚が頭の中、手足の先に存在する。
自然は偉大……よく耳にするこの讃辞ではかえってわかりにくいかも。すぐそばに空があり光があり、季節の花々があり、蛙や鶏や猫や蜜蜂や狸や蛇や……そしてゴキブリやネズミやスズメバチだっている。多士済々orごちゃごちゃ。僕にとっての自然とはこういうものであり、それらとの接点が、外見、せわしないくせ、ゆったりとした時の感覚を満たしてくれるらしいのである。
→桑の実とイチゴ
果樹がくれる恵みと心の平静
生きるにおいて、大事なこと、それはともかく食うことだ。
40年前、二度目の田舎暮らしとしてこの地に入ったとき、ひたすら果樹を植えた。欲張りすぎたという反省も後で生じたが、基本、間違ってはいなかった。光は心と骨を強くする、それに対し、果樹は来年、再来年というドリームをくれる、胃腸を喜ばせる。果物の楽しみはまず花だ。花は(悪い意味ではなく)、世の中の出来事なんかどうでもいいさという平静孤立の心をくれる。
花からしばしの間を置いて果物は腹を満たす。それを買うためのカネは必要なし。必要なのは暮らしのなかでの工夫と根気、その工夫と根気を楽しむココロ、それが大切。今日は気温28度。昨日からテレビは熱中症に注意をと呼び掛けているが、僕は快適である。背中にドッサリ光を浴びる。人参の草取りをする。今季4回目にまいた人参。指先だけ見つめて1センチか2センチの草をひたすら抜く。
ぜんぜん暇じゃない、しかし人生ぜんぜん退屈でもない。だって、明るい太陽と青い空、食べる物だっていっぱいあるんだもの・・・それが、近々、アナタも手に入れるであろう「田舎暮らし」なのである。