google☆2.8の「最悪の評判のお店」に、今後も通い続けたいと思っている
ウチの近くに、googleの☆評価が2.8というなかなか厳しい焼き鳥屋さんがある。
点数だけでなく、口コミの方にも辛辣な言葉が多く並ぶ。
「久しぶりに大ハズレ。野菜串、さみしくひとかけら刺さって300円」
「美味しくないのに値段は高い。まずい」
「店員さんは最低な対応。口コミは正しいです」
このお店、2019年のオープン直後に私自身、1度だけ行ったことがあった。
夕方の早い時間だったが、つくねや肝など定番の串まで既に売り切れと言われ、ガッカリしたことを覚えている。
そんなこともあり、それから1度も行っていなかったのだが、だからといってgoogleの評価はあまりにも悲惨だ。
googleの口コミや評価システムにも、大きな問題があるのだろう。
しかしそれを割り引いても、ここまで低評価だとかなり苦労しているのではないだろうか。
なのになぜ、5年も続けることができているのかとそちらのほうが気になってくる。
そんなこともあり、久しぶりにお邪魔させていただくことにした。
そしてそこで、予想もしていなかった驚きと気づきを提供してもらうことになる。
五十歩百歩
話は変わるが、古典や故事などをもとにして生まれた言葉や慣用句を「故事成語」という。
有名なところでは、武器商人が自らの武器を宣伝する際の、以下のようなエピソードだ。
「私のこの矛で貫けぬ盾はない!世界一鋭い矛である。そして私のこの盾を貫けるような矛はない!世界一硬い盾である」
すると口上を聞いた観客の一人が、こんな事を返す。
「その矛でその盾を突いてみせろ」
商人は何も返すことができなかったという、『矛盾』の語源だ。
少し変わったところでは、文章や書類を丁寧に見直すことを指す「推敲」について。
これもよく考えたら、不思議な字面をしている。
「推(お)す」「敲(たた)く」はそれぞれ、文字通り「推す」という字と、太鼓などを棒で「敲く」という意味の字を並べたものである。
なぜ推したり敲いたりすることが、文章を見直すという意味になったのか。
話は中国の唐の時代にまでさかのぼる。
賈島というひとりの男が、ロバに乗ったまま詩を作っていた時のこと。
「僧は推す月下の門」
という美しいフレーズを思いついた。
しかしここで、賈島は大いに悩む。
「僧は敲く月下の門、の方が美しいのではないか。推すか敲くか、どちらにすべきだろう…」
そんなことに夢中になり考え込んで、周囲がみえなくなってしまった。
するとマズイことに、ロバはそのまま地元長安郡の知事が進んでいた行列に突っ込んでしまい、逮捕されてしまう。
たちまちひっ捕らえられ、知事のもとに連行された賈島。
なぜこんな無礼な真似をしたのかと問われ、知事にこう申し開きする。
「推すか敲くかで悩んでいたのです、大変申し訳ございませんでした」
そして何を隠そう、この時の知事こそ詩人として名高く、唐宋八大家としても知られる韓愈であった。
すると韓愈は「そこは敲くの方が美しいのではないか」とアドバイスし、これ以降、賈島と大いに気が合う仲になる。
このエピソードが転じて、文章を見直すことを『推敲』と呼ぶようになった。
もう一つ、日本人にはあまり馴染みがない『鶏肋』という言葉についてだ。
中国では、「大して価値はないが捨てるには惜しいもの」の例えとして用いられる。
鶏がらダシスープの材料になる、あばら骨のことだ。
ではこの鶏肋、なぜそのような意味で用いられるようになったのか。
話は3世紀、三国志の時代にまでさかのぼる。
当時、三国志の雄・魏の曹操は劉備を攻め、中国南方の漢中に兵を進めていた。
しかし抵抗する劉備軍は非常に手強く、戦況は思うように進まない。
そのためこのまま攻め続けて消耗を重ねるのか、それとも兵を退くのかについて曹操以下、幕僚たちも悩み始めた。
そんなある日、食事の席上で曹操はふと、こんなことをつぶやく。
「このスープは鶏肋だな、鶏肋…」
幕僚たちは何を意味するのかわからず、首を傾げる。
そんな中、将来有望と期待され、切れ者であると評判の高かった幕僚・楊修は曹操の意図を理解し、配下の部隊に撤収準備を始めるよう命令を下した。
「殿は間もなく、漢中からの撤兵を決断されるであろう。大して価値はないが捨てるには惜しい鶏肋に、漢中をなぞらえたのだ」
そのように説明したというが、楊修のこの勝手な判断に激怒した曹操はすぐに彼を呼び出すと、軍規違反で処刑してしまう。
加えて、このような経緯からますます撤兵する決断ができなくなり、やがて勢いを増した劉備軍に散々に打ち破られ、潰走してしまった。
「大して価値はないが捨てるには惜しいもの」
にこだわり、多くの兵と優秀な幕僚を失った曹操。
このようなエピソードから、『鶏肋』はその象徴になったということである。
故事成語のおもしろさは、失敗や成功をはじめとした人の営みから生まれた教訓などを短く言いまとめた、言葉の結晶なところにある。
字面だけをみていたら何のことかわからないのだが、その由来を探っていけば意味深い物語に行き当たる。
蛇の絵に足を書き足して、「これは蛇ではない!」と責められ、失敗したとされる『蛇足』。
戦闘の際に、50歩だけ逃げた兵士が100歩逃げた兵士を笑ったことから生まれた『五十歩百歩』。
挙げれば切りが無いが、言葉の裏にはそんな興味深い物語が隠れていることが多い。
ぜひ、気になったら調べてみてはいかがだろうか。
人間万事塞翁が馬
話は冒頭の、焼き鳥屋さんについてだ。
Googleの☆評価2.8のお店に再訪し、どんな驚きと気づきを得たのか。
結論からいうと、再訪はとても満足度の高いものだった。
値段は安いし、提供速度も早いし、オープンから6年近くになるのにお店の清潔感も十分である。
加えて、googleの口コミで徹底的に叩かれていた
「店員の態度が悪い」
「教育が行き届いてない」
「注文しても無愛想で返事がない」
というような事実は一切感じられない。
それどころか、若い店員さんはとても気が利き、オーダーを取る時の笑顔や商品提供時の気遣いなど、爽やかな思いになったほどだ。
ではなぜ、googleの口コミではあれ程に叩かれているのに、実際はそうではないのか。
考えられるのは、こんなところだろうか。
・何らかの目的を持った人が悪意で、お店を叩いている
・コミュニケーション能力の低い店員さん1人が、お店の印象を作ってしまった
・googleのコメントを見た店主が、一生懸命に経営を立て直した
叩くことが目的な人の存在については、googleの欠陥的な仕組みもあり、どうしようもない。
誹謗中傷するヤカラを上回るファンを作ることでしか☆評価を上げることはできないので、割愛する。
印象の悪い店員さんが1人いたのかもしれないが、今の御時世、重労働でキツい居酒屋さんで仕事をしてくれる人もなかなかいなかったのだろう。
しかし口コミもいよいよ辛辣になり、『泣いて馬謖を斬る』思いで、人の入れ替えを決意したのだろうか。
そして何よりも感じたことは、店主が本気で経営再建に乗り出したのだろうか、という思いだ。
普通ここまで低評価で徹底的に叩かれたら、心が折れる。
状況が許すなら、お店をたたむことすら考えたはずだ。
そんな中で、店主は誹謗中傷に近い書き込みにも向き合い、商品やサービスを真剣に見直したのだろう。
値段設定や商品、顧客対応など一つ一つの“クレーム”を参考にして、今の状態までお店を持ち直した痕跡が、さまざまな所に垣間見えた。
実際、私が再訪したのは週半ば、平日夕方の早い時間だったが、決して広くない店内には6組ほど客が入っており、なかなかの盛況だった。
多くの場合、お店や会社の経営が傾いたら、経営者を代えないとよほどのことがない限り、劇的な復活などない。
にもかかわらず、Googleでの悪評を素直に受け入れ、復活を遂げようとしているお店からは、本当にいろいろな気づきを頂いた。
そしてこのような復活を、故事成語からひとつ言葉にするなら、『人間万事塞翁が馬』だろうか。
一時の幸・不幸に一喜一憂せずに、長い目でみて人生を俯瞰することを説いた言葉だ。
その語源は、以下のようなものである。
昔、中国北部の国境に住む翁の駿馬がある日、敵国の領土に逃げてしまった。
周囲の人は慰めるが、翁は意に介さずこう答える。
「これが悪いことだと、なぜ言えるのか」
数カ月後、その駿馬は敵国からさらに優れた駿馬をともなって帰ってくる。
周囲の人は祝意を述べるのだが、この時、翁はこう返す。
「これが良いことだと、なぜ言えるのか」
するとその数カ月後、翁の息子は敵国から逃げてきた駿馬から落馬し、大怪我をする。
周囲の人はやはり慰めるのだが、この時も翁はこう返す。
「これが悪いことだと、なぜ言えるのか」
するとその数カ月後、敵国と戦争になった際に翁の息子は大怪我を理由に兵役が免除され、命が助かった。
そんな故事を元に、人生とは何事も塞翁の馬のごとし、という言葉が生まれた。
簡単なようだがgoogleで☆2.8をつけられ、口コミでもあそこまで叩かれている中での店主の心の強さは相当なものだ。
そんな中でも“クレーム”から学び、復活を遂げようとしているこの「最悪の評判のお店」に、今後も通い続けたいと思っている。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
一番大好きな焼き鳥のネタは、心残り(はつもと)の塩です!X(旧Twitter) :@ momod1997
facebook :桃野泰徳
Photo by:fto mizno