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刻をかけていく”G”の魂。やっぱりガンダムは伊達じゃない!!

Dig-it[ディグ・イット]

今や国民的アニメと言っても過言ではない『機動戦士ガンダム』。ガンダムの映像作品を取り仕切る小形尚弘プロデューサーに、話題の新作から、富野由悠季監督から学んだこと、ガンダムが目指すものについてまで、たっぷり語ってもらった。

新しい世代にガンダムを観てもらいたかった

小形尚弘/おがたなおひろ|昭和49年、神奈川県出身。1997年にサンライズ(現・バンダイナムコフィルムワークス)入社。『機動戦士ガンダム UC』をはじめ、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』など近年のガンダム作品のほとんどでプロデュ―サーを務め、劇場作品『閃光のハサウェイ』『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』、最新テレビシリーズ『機動戦士ガンダム 水星の魔女』ではエグゼクティブプロデューサーを務める

1979年に富野由悠季(当時・富野喜幸)監督によって生み出されたアニメ『機動戦士ガンダム』。それまでのロボットアニメとは一線を画したリアルな設定、個性的なキャラクターたちが織りなす人間ドラマ、そしてカッコいいモビルスーツの活躍に、多くの少年少女たちが熱狂した。その後、爆発的なガンプラブームによって、ガンダムは日本を代表するアニメに成長。その初作から40年以上経った現在でも新作が制作され続けているという、世界でも稀有なアニメシリーズとなった。

現在、バンダイナムコフィルムワークスでガンダムシリーズの映像作品全体のプロデュースを行っているのが、小形尚弘プロデューサーだ。昭和49年生まれの昭和50年男世代である小形プロデューサーに、大いに語ってもらった。

『水星の魔女』には口を出さない

まずは、放送される度にSNSのトレンドをにぎわせるほど人気を集めている最新テレビシリーズ『機動戦士ガンダム 水星の魔女』について。本作はこれまでのガンダムとは異なる企画意図をもって誕生したという。

「ずっと続いてきたガンダムの(テレビで放送する)最新作ということで、我々の世代というよりは若い世代に観てもらいたい。そのことを意識して作ってもらっています。今のところ、よいリアクションをいただいているのでよかったな、と。SNSの力も感じています」

これまでガンダムの人気は、いわばガンプラ直撃世代である70年代生まれを中心に支えられてきた。小形プロデューサーもその一人である。

「僕たちは原体験としてガンダムがあった世代です。ちょうどガンプラブームが起こっていた時に小学生でした。リアルタイムの放送は観ていませんが、この頃は再放送がすごく潤沢にあった時代で、『機動戦士ガンダム』も『宇宙戦艦ヤマト』も『仮面ライダー』も全部再放送で観ていました」

ガンプラ直撃世代である74年前後生まれは、第二次ベビーブーマー、団塊ジュニア世代と呼ばれている。ガンダム人気は日本のなかでも人口が多いボリュームゾーンに支えられていた。

「僕はプロデューサーとして『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』や『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』、他にも『劇場版シティー ハンター 新宿プライベート・アイズ』なども携わりましたが、基本的には”僕らがうれしいもの”を作ればいいという部分がありました。僕たちの世代は、人口も多くて、金銭的にも少し余裕があって、趣味に使うことができる。僕らの世代で興味をもつようなものを作れば、ある程度の見込みは立つんです」

しかし、そこを狙ってばかりいてはいけない。

「当たり前ですが、僕たちも年をとっていきます。『ガンダム』は先代が作ってきたものが、40年経って、今は 50周年に向かっている。どんどん世代を広げていかないといけないと思ったわけです。そうでなければ、コンテンツとして、IP(知的財産)として続いていかない。『水星の魔女』はそこを意識して作ることが基本コンセプトだったんです」

『水星の魔女』には、エグゼクティブプロデューサーとしてクレジットされている小形プロデューサー。役割をたずねると「何もしない人」という答えが返ってきた。それにはガンダムを作り続けてきたスタジオ、サンライズに脈打っている伝統が大きく関わっている。

「今はバンダイナムコフィルムワークスという会社名ですが、サンライズというスタジオは、プロデューサー主義の会社なんです。僕は今、『ガンダム』に関わる映像全体のプロデュースをしているので、『今回はこういう方向性で作ってほしい』ということだけをプロデューサーと監督に伝えます。でも、そこからはプロデューサーと監督が一対一でどういう作品を作るか決めていく。それがサンライズのやり方なんです」

プロデューサーに任せるから、個性豊かなオリジナル作品ができ上がる。これがサンライズの伝統だ。『水星の魔女』も「我々のような上の世代は、口を出さないようにしています」という。たとえば、昨今のアニメではお馴染みとなったエンドカードもガンダムとしては初めてのチャレンジだった。

「『ガンダムは、こういうことはやらないよ』という声が上がってもおかしくありませんでした。深夜アニメで盛んなカルチャーですからね。でも、そこは今の世代の人たちがいちばんいいと思うことをやってもらいたかったので、口を出しませんでした。その方が自分も楽ですしね(笑)」

『逆シャア』のおかげでガンダムを作りたくなった

小形プロデューサーはガンダムと本格的に出会う前に、サンライズのアニメに関する思い出があるという。
「最初の接点は、小学校低学年の頃に脱腸で手術した時のことです。叔母が『タイムボカン』シリーズのおもちゃを買ってきてくれたのですが、僕はそれを拒否して『ザブングルのおもちゃに変えてくれ』と言って取り替えてもらったんですよ。いまでも鮮明に覚えています。僕はタツノコプロじゃなくてサンライズに入る運命だったんだな、って(笑)」

『機動戦士ガンダム』との出会いは、夕方の再放送だった。

「『ガンダム』は再放送の時にガンプラブームがあったので、学校のみんなが『ガンダム』を観ているから自分も『観なきゃ!』という感じでした。で、『水星の魔女』の『やめなさい!』じゃないけど、ミハルが出てくる『大西洋、血に染めて』(28話)を観て、めちゃくちゃ気分が落ち込んだりして(笑)」

もちろん、ガンプラにも夢中になった。当時はガンプラブームが過熱して入手困難になっていた時代だ。

「学校の帰りに模型屋さんに並んで、初めて買えたガンプラが水陸両用モビルスーツのゾック。それしか残っていなかったんです。正直、水泳部のMSは人気がありませんでしたが、とにかくガンプラが欲しかったんです。2回目でガンキャノンが買えたので、僕はまだよかった方でしたね」

再放送の『機動戦士ガンダム』と並行して『銀河漂流バイファム』や『超時空要塞マクロス』などのアニメを観まくっていた小形少年に転機が訪れる。小学校高学年のことだ。

「中学受験のため、塾に通うようになったんです。塾が夕方5時半からだから、ちょうど『機動戦士Zガンダム』が観られなかった。まだビデオも家にはありませんでした。学校では友達が『アムロがフラウ・ボゥと結婚してないんだよ』なんて言ってて『そんなことになってるの!?』と驚いたりしていましたね(笑)」

ビデオといえば、こんな思い出もあるという。

「小学校の頃、仲の良い友達の家にはビデオデッキがあったんです。しかも、当時高価だった『長軸要塞マクロス愛おぼえていますか』のビデオソフトをもっていたんですよ。で、学校が終わってから友人の家に行って、4時頃から観始めるんですけど、5時には家に帰らなきゃいけない。すると、必ずフォッカーが死ぬところで終わっちゃうんです(笑)。また次の機会でも必ず最初から観るから、しばらくはフォッカーが死ぬところから先の部分を観られませんでした。

『逆シャア』がきれいに終わればガンダムを卒業してた

アニメが観たい。でも、なかなか観られない。飢餓状態のまま、小形少年は中学に進学する。

「僕の親は失敗したと思います。あの時、ガンダムをたっぷり観させておけば、僕はこの業界に入ってなかったでしょう(笑)」

中学2年生の時、小形少年の運命を変える衝撃的な作品が公開される。『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』だ。

「『Z』も『機動戦士ガンダムZZ』も観ていないけど、シャアとアムロの最後の対決なら観なくちゃいけない! と思って、友達と一緒に横浜の今はなき(初代)相鉄ムービルに行きました。そうしたら、わけがわからなかった。なんでシャアは最後にラファのことをお母さんて言うんだ? あの二人は死んだのかどうかもわからないし、謎の光の正体もわからない。首をひねりながら映画館から出てきて、とりあえずTM NETWORKの『BEYOND THE TIME〜メビウスの宇宙を越えて〜』のCDだけ買って帰りました」

ガンダムとのショッキングな出会いは続く。

「ある日、駅前の書店に行ったら『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の小説を見つけました。『逆シャア』の続きの話だ! と思って読んだら、シャアもアムロもほとんど出てこない。しかも、あんな終わり方でショックを受けるわけです。そこで一回、僕のガンダム体験は終わりました」

ガンダムとの再会を果たしたのは大学生になってから。友人の家に集まってビデオで『機動戦士ガンダム』劇場版三部作などを観ていたが、その後、思わぬ場所でも観ることになる。

「ちょうど就職活動をする直前にコンビニで深夜バイトをしていたら、その店が潰れることになって最後の週がすごく暇だったんですよ。そしたら友達が防犯ビデオ用のビデオデッキでビデオでも観ようって、近所のレンタルビデオ屋で借りてきたのが『Zガンダム』でした。『これ、サンライズが作ってるんだ』と意識して、就職ガイドを見たらサンライズが載っていたので、受けてみたら入社できたんです」

小形プロデューサーによると採用の決め手は「野球の経験」だったという(サンライズでは草野球が盛んだった)。とにもかくにも「ガンダムを作りたい」という思いのきっかけは『逆襲 のシャア』である。

「あの時、『逆シャア』がきれいに終わっていたら、みんなガンダムを卒業していたんじゃないでしょうか。『なんだかよくわからない』という気持ちを抱えたまま大人になったので、まだ続きがあるに違いないと思うようになったんです。僕たちは富野さんの術中にハマったのかもしれませんね」

では、小形プロデューサーはガンダムのどのようなところに惹かれたのだろうか。

「視点の多様なところでしょうか。ガンダムって、観ている時の年齢によって、見え方が変わりますよね。小学生の頃、テレビで『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』を観たのですが、ララァのくだりがめっちゃつまんないんです(笑)。白鳥とか飛んでてわけがわかんない。『早くリック・ドムを出せ!』って思ってました。でも、大学生の時に観たら、ぜんぜん見え方が変わったんです。社会人になると、また見え方が変わる。いろいろな角度、いろいろな視点で見られるようなストーリーがガンダムのすごさです。あと業界に入ってよくわかったのは、『めぐりあい宇宙(そら)』は完璧な作品だということです」

いちばん好きなガンダム作品は? とたずねると、ショックを受けた作品の名を挙げた。

「『逆シャア』ですね。ν(ニュー)ガンダムはいちばんカッコいいガンダムだと思いますし、アムロとシャアもすごくカッコよかった。登場人物の髪型が変わっていたり、恋人がいたりと、大人な感じが見れたのも自分のなかでは大きかったです。中学2年の時に観ているので、中2病だったのかも(笑)」

富野監督の貪欲さに驚かされた

サンライズ入社後、いきなりガンダムの制作現場に飛び込んだ。最初の現場はOVA『新機動戦記ガンダムW Endless Waltz』(97年)、初めて一人で制作進行を務めたのは『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』の第9話(98年)だった。その後、『ブレンパワード』(98年)と『∀(ターンエー)ガンダム』(99〜00年)の制作進行を担当することになり、ついに富野由悠季監督と出会う。その出会いは衝撃的なものだった。

「いきなり電話の応対をものすごく怒られました。『この業界に入ったら一度は富野さんに怒られたい』という方が結構いるんですが、だいたい怒られるとみんないなくなってしまいます(笑)」

当時、富野監督は60歳一歩手前だったが、すさまじいエネルギーを発しながら作品づくりに取り組んでいた。印象に残ったのは、その貪欲さだったという。

「富野さんって、とにかくいろいろなものを吸収しようとするんです。制作進行の机に置いてある若者向けの雑誌なんかも手に取ってみる。何が流行っているのか知りたいんでしょうね。テレビのワイドショーも好き。『もっとチヤホヤされたい、自分もワイドショーに出たい』って言ってました(笑)。そういう貪欲さが作品を作るうえですごく重要なんだな、と富野さんの近くにいて強く感じました」

富野監督から学んだことは数限りない。とりわけ、ガンダムなどの作品づくりにとって重要だと感じた手法がある。

「前に作った自分の作品を一回叩き潰すんです。80年代の富野さんは1年続くシリーズの新作を毎年作っていました。きっと、そういう手法じゃないと作れなかったのでしょう。『ガンダム』を一回壊して『Z』にして、悲劇的な終わり方だった『Z』を壊してコメディタッチの『ZZ』にする。何かを作り上げるには、自分の中にある固定概念を一度壊さなければいけないんです」

成功した前例は踏襲したくなるものだし、成功体験にはとらわれがちだ。しかし、富野監督はそういうことは全くなかったという。

「富野さんって、以前自分がやったことを結構忘れてるんですよ。同時に、前を見ながらどんどんアップデートしている。それはすごく重要なことだと思うんです」

富野由悠季監督は30年後の未来から来た人だ

作品づくりの姿勢だけではない。作品の中身もどんどんアップデートされている。富野監督は20年後、30年後の世界を見据えて作品を作っていた。

「僕はいつも『富野さんは未来から来た人だ』って言ってるんです。30年先を生きている人。30年経ってから、『ああ、あの時に富野さんはこういうことを考えていたんだ』って理解できるんです。プロデューサーとして『ガンダム Gのレコンギスタ』 (14〜15年)を一緒にやらせていただきましたが、僕も理解が追いつかないところがいっぱいありました。でも、きっと30年経てばめちゃくちゃおもしろいんだろうな、と思います」

富野監督が執筆した『閃光のハサウェイ』は89年に刊行された小説だが、古びるどころか、現在の世界情勢とリンクしている部分が少なくない。

「富野監督はいつもアンテナを張って、現代の世界情勢や若者の動向などを頭に入れたうえで未来のフィクションを考えているんです。『閃光のハサウェイ』を執筆していた頃は、イラン・イラク戦争やソ連のアフガニスタン侵攻が起こっていましたが、後のテロリスト組織を国家が支援していたことなどを見ながら書かれているので、2000年代のテロリズムにつながって見えるのは当然なんです」

『機動戦士ガンダム』では人口問題が扱われ、『機動戦士Zガンダム』では環境問題が語られている。だが、それだけがテーマになっているわけではないと小形プロデューサーは指摘する。

「ガンダムって人口問題や環境問題だけをテーマとして扱っているのではなく、物語のベースとして取り込んでいますよね。社会問題がベースにあって、地球連邦とジオンの間に格差が生まれて争いになる。社会問題をアニメに取り込むことは、70年代からアニメを作っていた人たちにとっては当たり前のことだったんだと思います」

ガンダムが取り込むことができるのは、社会問題や時事問題だけではない。

「ガンダムはいろいろなことが取り込めるんです。『マクロス』がヒットして『Z』でモビルスーツの変形を取り入れたり。ガンダムという偉大な”器”を富野さんが作り上げたわけですね」

小形Pの”使命”と富野監督への”恩返し”

小形プロデューサーが初めてガンダムのプロデュースを手がけたのが、福井晴敏の小説をアニメ化した『機動戦士ガンダム UC』だった。

「あの時は『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』か『ガンダムUC』のどっちかをやれと言われていたんです。『THE ORIGIN』は安彦良和さんのマンガがすばらしすぎてハードルが高いけど、『UC』は元が小説だからなんとかなるんじゃないかと思って選びました。実際はものすごく大変でしたが…(笑)」

『ガンダムUC』は宇宙世紀を舞台にした作品で、OVAとして制作されたが、全国映画館 でのイベント上映やインターネットでの有料配信なども同時に 行われ、大きな盛り上がりをみせた。特に、過去にガンダムを 観ていた世代が『ガンダムUC』をきっかけにガンダムに戻ってきた、という声も多かった。

「福井さんの狙いどおりでした。『ガンダムUC』の企画のテーマは、僕らみたいにガンダムを小学生の頃に観ていたのに、大人になってアニメやガンダムから離れてしまった人たちを呼び戻す、というものだったんです。大人が映画館に行って、他の洋画と観比べても恥ずかしくないような映像とストーリーにしたいと思っていました。話数が進むほど、皆さんがガンダムに帰ってきてくれている手応えを感じていましたね」

小形プロデューサーは、富野監督の『Gのレコンギスタ』をプロデュースしつつ、宇宙世紀を舞台にしたガンダムであるナラティブ『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』を制作。特に『閃光のハサ ウェイ』は念願の企画だった。

「サンライズに入った時から『閃光のハサウェイ』を作りたいと思っていました。ただ、当時は『あれは作れないから』ということになっていたんです。そこで富野さんに『作っちゃダメなんですか?』と聞いたら『いいよ、別に』と言われたんで、いつかやってやろうと(笑)」

『閃光のハサウェイ』三部作とともに始動したのが、新プロジェクト「UCNexT0100」。宇宙世紀を題材としたガ ンダムシリーズの拡大を目指したものだ。

「これは『水星の魔女』とは方向が違って、今までガンダムを応援してくれた人に対しての感謝と、ガンダムの世界観をより深掘りしていくプロジェクトです。僕がやるかどうかはわからないのですが、やっぱり宇宙世紀のお終いまで見てから死にたいじゃないですか(笑)」

ガンダムはクリエイターの思いを大切にしている

『ガンダムUC』や『ガンダム NT』『閃光のハサウェイ』などは宇宙世紀を舞台にしており、いろいろな設定や登場人物、モビルスーツを含めた世界観を共有している。どこかマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)を観ている感覚になると伝えたところ、小形プロデューサーはガンダムとMCUの根本的な違いを教えてくれた。

「ガンダムの場合、あくまでもクリエイターの『こういうものをやりたい』という思いの方が強いんです。商売上の整合性をつけているからそう見えるだけであって、マーベル的な展開がしたいというわけではありません。監督、脚本家、メカデザイナー、それぞれの色が出ちゃっていいんです。『作品によって絵柄がぜんぜん違うじゃないか』とか『話が続いていないじゃないか』みたいなことは、あまり気にしていません」

クリエイターの思いを大切にする。これは小形プロデューサーがガンダムをプロデュースする際に重視していることだ。

「ガンダムをプロデュースするうえでいちばん気をつけていることは、『自分の好みはこうだから、こうしてください』と言わないことです。僕はたまたま富野さんの下についてずっとやっていたので、自分がプロデュースをしたとしても『ガンダムは自分のもの』とは絶対に言えないんですよ。ガンダムは皆のものなんです。ここ最近作られているガンダムは、クリエイターの皆さんの『こういうガンダムをやりたいな』という思いが全部詰まったもので、僕はそれをまとめているぐらいの感覚です」

そもそもガンダムの世界がここまで広がったのは、富野監督が他人の監督したガンダムを認めたことが大きい。

「富野さんが『機動武闘伝Gガンダム』の今川(泰宏)さんを認めなかったり、(富野監督以外が初めて監督したガンダム作品である)『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』の監督を自分でやると言っていたりしたら、ガンダムの世界はここまで広がっていなかったでしょう。ガンダムの強いところは、富野さんがガンダムを違うクリ エイターに委ねたことなんです。『自分が作った作品以外はすべて気に食わない』とも言うんですけどね(笑)。ただ、『俺は怒るけど、邪魔はしない』とも言ってくれます」

小形プロデューサーは今後、富野監督から受け継いだガンダムをどんな風に伝えていきたいのだろうか。

「僕たちは富野さんが作ってきたものを、まだ観ていない人がいるなら全世界の隅々まで観てもらいたいし、『こんなにおもしろいものがあるのか』と感じてほしいと思っています。今は日本国内とアジアが強いのですが、北米と欧州の認知度はまだまだなんです。ただ、北米では近年ガンプラがすごく好調で、配信もダイレクトにつながってきているので、土壌はでき始めていると思います。僕らが小さい頃、模型屋に並んでガンプラを買ったように、いろいろな国の子供たちがそうなるといいな、と思いますね」

グローバルに、そして次の若い世代にガンダムを伝えていく。それが、小形プロデューサーが自らに課した”使命”であり、ガンダムを作り上げた富野監督への”恩返し”でもある。

「親が観ているものを子供が観るようになるのは理想的だと思います。『ガンダムUC』の裏テーマは『お父さんのガンプラを息子が受け継ぐ』なんですよ(作中で主人公が父親からユニコーンガンダムを受け継ぐ場面がある)。そうやって世代を超えてガンダムを広げていきたいですね」

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