木ノ下裕一 × 須賀健太 × 藤野涼子 スペシャルトーク【後編】 江戸時代から現代に届くレクイエムでありエールのような作品を
後編は、東京芸術祭 2024の上演作品である木ノ下歌舞伎『三人吉三廓初買』の内容をさらに深掘り。上演時間5時間という通し上演で見える世界について、それぞれの役柄への思いを伺います。
【前編】はこちら(https://spice.eplus.jp/articles/331676)
疫病と地震を経験したことで立ち上がる物語
ーー初演では、商人と花魁の恋をめぐる廓の物語など、歌舞伎の現行上演ではカットされるエピソードが盛り込まれました。約160年前の初演でしか上演されていないと言われる「地獄の場」の復活も話題でしたね。そして今回、タイトルが『三人吉三』から、『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』と、本外題に改められます。
木ノ下:改めて「私たちはこの作品を、原作通りのボリュームでやります」という決意表明みたいなものですね。
ーー木ノ下さんが考える、「2024年に再演される意味」を教えてください。
木ノ下:この作品の初演は安政7年で、2年前の安政5年は、コレラが大流行し、江戸だけで数万人死んだと言われる年です。さらにその前の安政2年は安政の江戸大地震が起きた年。これは首都直下型地震で、多くの人々が被災しました。つまり、日常がいかにもろいものか露呈した時代に上演されたんですね。作品の中にも閉塞感が漂い、登場人物たちは皆、苦悩を抱えて生きていますが、これはおそらく当時の観客にとってすごくリアリティがあったのでしょう。「死んだ人も悲しいけど、生きているのも辛いよね」という、作者・河竹黙阿弥のメッセージも感じられる気がします。
ーー経済状況などを含め、われわれは未だ世界的なパンデミックの影響下にありますし、今年頭には能登半島地震もありました。登場人物たちが抱える「生きづらさ」は、より親近感あるものとして映るかもしれません。
木ノ下:さらに言えば、僕には苦しい人たちへのエールのようにも感じられるんです。「地獄の場」にはコロリ(コレラ)で死んだ人も登場しますし、閻魔大王に紫式部に地蔵菩薩がどんちゃん騒ぎをしていたりと、荒唐無稽でわけのわからない場面なんですよ(笑)。あれもやはり、「皆さん身内の方を亡くしたでしょうけど、もしかすると地獄はこんなにも楽しい世界かもしれないですよ〜」というメッセージだと感じられる。ある種のレクイエム(鎮魂曲)としても響くと考えています。
夢と現実、合わせ鏡のような構造
ーー続いて、物語の内容と、須賀さんと藤野さんの演じる役柄についてもお伺いできれば。『三人吉三廓初買』は、数奇な運命に翻弄されながら疾走する、和尚、お坊、お嬢という“三人の吉三郎”の物語と、商人・文里と花魁・一重の恋をめぐる廓の物語が交錯する群像劇。須賀さんは血気盛んなお坊吉三、藤野さんはその妹一重を演じます。
須賀:お坊は仲間である和尚やお嬢との関係性が大事になってくると思うので、稽古場でお二人と組み立てていく過程も大切にしていきたいです。お坊が表に出さない葛藤や苦悩みたいなものを、表情や仕草や台詞で形にできればと考えていて。普通に台本通りに演じると、おそらく情けない役なんですが、歌舞伎での上演を考えると、お坊の“かっこよさ”は外せないポイントだと思うんです。ここを、現代化した時の説得力と両立させるのが肝だろうと考えています。
藤野:私は一重の背景を理解するために、先日、吉原の跡地に行ってみました。遊廓の鎮守の神として信仰されてきた吉原神社には、今でもお供え物やお線香が絶えないそうで……私も一重のこと思いながらお供えさせていただきました。
木ノ下:勉強熱心! 足を運んでみると、想像よりも「吉原って狭かったんだな」と感じませんでしたか?
藤野:確かにあっという間に回れるサイズで、あそこにずっと閉じ込められていたら逃げ出したくなるだろうな、外の世界が見たくなるだろうなと思いました。
須賀:このきちんと下調べする感じ、まさに一重さながら“よくできた頼れる妹感満載”で、安心感がわいてきました!
(一同笑)
木ノ下:人が死んだり、別れた家族と再会したりと、まさに疫病と震災後のリアルな世界に3人のヒーローが登場する「吉三郎パート」と、幻想空間である吉原という廊に恋人や夫婦といったリアルな人間関係を描く「廓のパート」。いずれも夢と現実が合わさった合わせ鏡のような構造ですが、二つの世界を繋げているのは、この兄妹だけなんです。あとの登場人物はほとんど交わらないですから。そういう意味でこの二人は、キーパーソンでもあるんです。両パートがあることでより作品の深みが増しますし、対比的な面白さも出てくる。「どっちもある」ことが上演の大きな魅力になると考えています。
ーー構造的にも、両方の筋が交互に展開する仕組みになっていますし、また、物語の中で金百両と庚申丸という刀が因果の糸を紡ぐように移動していくので、通しだとその展開もよく見えてきますね。
木ノ下:この作品を考える上で、「因果」は大事なポイントですね。一つの事件が起こったら、それが全然関係ないところまで波及していく……全ては繋がっているんです。そして登場人物には、侍も、町人も、遊女もいる。色々な属性、全ての階層が出てくる群像劇になっています。「社会全体は繋がっている」ということを“因果”という表現を通して、黙阿弥は言いたかったのかもしれません。ここでもう一度、初演された時代のことを考えてみると、地震は起きる、病は流行る、全ては不条理ですよね。災害は理由なく起こる。人間って自分たちではコントロールできない「不条理な現実」が押し寄せてくるときが一番不安で悲しい。僕には「そんな状況を、因果という価値観によって捉え直し、打破してみよう」という、黙阿弥の情熱も感じられるんです。こうしたことを考えるのが、人間の想像力なわけですから。「因果応報」は、黙阿弥自身が座右の銘にしていた言葉らしいですよ。
ーー通しで上演することで、黙阿弥の意図がより明確に見えるかもしれない。親の因果が子に報い……3人の吉三郎たちも選択肢が少ない人生によって、仕方なく盗賊になったことも見えてきます。
木ノ下:さらに言うと、芝居の中で一重が生み落とす子どもが安政7年生まれだと仮定すれば、日清、日露戦争の時期に3〜40代前半なんですよ。だから日清戦争ではぎりぎり出兵している可能性もある。太平洋戦争まで生きていれば、終戦の年に85歳なんです。江戸から明治へその後の日本が歩む近代の戦争の歴史を、この登場人物たちのさらに若い世代が背負う……そこまで想像力の翼を広げると、やはりこれは今上演しておくべき作品、意味を持つ作品だと考えています。
ーーなるほど、地震があり、疫病があり、世界的混乱があり、戦争……5時間の上演で体感するさまざまな事柄の中には、歴史や現代社会への眼差しも生まれそうです。複数の演目と一緒に観劇し、この世界を複眼的に捉えていくことも東京芸術祭の醍醐味ですが、須賀さんと藤野さんから、東京芸術祭で上演されることへの意気込みや思いを教えていただけますか?
須賀:いろいろな演目が集まって、全体で一つのお祭りをつくる企画に参加できること自体がとても嬉しいです。「舞台芸術」と言うとちょっとかたくなりますが、「お祭り」だと思えば、一挙に気楽な感じになりますし。特に若い方は、舞台を一本観ること自体に敷居の高さを感じると思うんです。初心者の方の入り口にもぴったりですし、「祭」という文字がつくだけでテンションが上がりませんか?
藤野:本当に! 親子で参加できる 「かぞくアートクラブ」、アジア各地で活動する舞台人がディスカッションをする「Asian Performing Arts Camp」なんて企画もあったりと、この幅広さも素晴らしいですし。須賀さんがおっしゃるように、初心者の方々のスタートの場になったらステキですよね。
ーーでは最後に木ノ下さんから、改めて皆さんへのメッセージをいただけますか。
木ノ下:いろいろと小難しいこともお話いたしましたが、この作品はシリアスな面だけではなく、3人のヒーローが活躍するロードムービーでもありますし、エンターテインメントとしても非常に良くできています。5時間という長い上演時間の中に、「これって本当に160年前の作品?」と思える、あらゆる物語の種のような要素がいっぱい詰まっているんです。歌舞伎に興味がなくても、歴史が苦手な方でも大丈夫! ぜひ多くの方に足をお運びいただければと思っております。
取材・執筆:川添史子 写真:増永彩子 編集:船寄洋之 取材時期:2024年7月