シュガー・ベイブ「SONGS」50周年!シティポップの元祖はむしろパンクバンド?
活動期間が極めて短かったシュガー・ベイブ
1975年4月25日、シュガー・ベイブのアルバム『SONGS』が発売された。そしてその50周年にあたる2025年4月23日には『SONGS 50th Anniversary Edition』がリリースされる。
シュガー・ベイブは今でこそ、日本のロック史において重要な役割を果たしたバンドと評価されているが、その活動期間は1973年〜1976年ときわめて短かったし、リアルタイムで脚光を浴びたバンドでもなかった。活動中に発表したレコードもアルバム1枚とシングル1枚(DOWN TOWN / いつも通り)のみという、客観的にみればマイナーバンドだった。
彼らが当時、脚光を浴びることができなかった理由のひとつには、シュガー・ベイブが当時の日本のロックシーンではほとんど誰も手掛けていないサウンドにアプローチしていたことが挙げられる。さらに、彼らの音楽に対するリスナーの評価の基準も無く、その音楽をどう聴いていいかわからなかったという側面もあった。
100枚しかプレスされなかった「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」
シュガー・ベイブの前身は、山下達郎が組んでいたアマチュアバンドだ。このバンドには正式名は無かったが、メンバーにはシュガー・ベイブのベーシストとなる鰐川己久男がおり、さらにバンドの解散記念に自主制作されたアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』(1972年)にはギタリストの村松邦男も参加していた。
『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』はビーチ・ボーイズのカバーが6曲の他、マンフレッド・マン、ムーングロウズ、バディ・ホリー、エヴァリー・ブラザーズなどのカバーが納められており、100枚しかプレスされなかったにも関わらず、ほとんど売れなかったという。しかし、このアルバムが思いがけない役割を果たすことになる。
同じ頃、東京・四谷にあったロック喫茶『ディスクチャート』で、3人組フォークグループのメンバーだった大貫妙子をソロデビューさせるためにデモテープを作ろうという動きがあった。そこに『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』がきっかけで山下達郎も参加するようになり、いつしか山下と大貫を中心としたロックバンドが結成されることになる。
こうして、1973年に山下達郎(ボーカル / ギター)、大貫妙子(ボーカル / キーボード)、村松邦男(ボーカル、ギター)、鰐川己久雄(ベース)、野口明彦(ドラムス)をメンバーにシュガー・ベイブが結成された。
日本の音楽的常識にはなかった山下達郎のコーラスワーク
シュガー・ベイブが活動をスタートさせた頃、東京・高円寺のロック喫茶『ムーヴィン』のスタッフが『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を手に入れて、お店で流していた。これを、大滝詠一のもとに身を寄せていたココナツ・バンクの伊藤銀次が聞いて、クオリティの高さに驚き、大滝に報告した。これがきっかけで、大滝詠一は同年9月21日に東京・文京公会堂で行われるはっぴいえんど解散コンサートのココナツ・バンクのステージにコーラスとして山下、大貫、村松を起用する。
『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』のグループとシュガー・ベイブはまったく別物なのだけれど、この時、大滝詠一はシュガー・ベイブをバンドではなくコーラスグループだと思っていたのではないか、という説もあった。それほど、山下達郎を中心としたコーラスワークは印象的だったのだろう。
実際、ビーチ・ボーイズやフォー・シーズンズなどのアメリカンポップスを消化した山下達郎のコーラスワークは、日本の音楽的常識にはなかったもので、シュガー・ベイブはバンドとして以上に、コーラスチームとして荒井由実をはじめ多くのレコーディング・セッションに起用されていく。
強いビートと美しいメロディ
一方、バンドとしてのシュガー・ベイブはなかなか受け入れられなかった。当時、ロックといえばハードロック、プログレッシブロックの影響が強く、さらに関西を中心としたブルースバンドが台頭していた。そうした風潮のなか、シュガー・ベイブが打ち出したのは“タイトなビートにドリーミィでキャッチーなサウンドを乗せたコンテンポラリーなロック” だった。
当時のリスナーはそんなシュガー・ベイブのサウンドを “軟弱” だと受け取った。それは、彼らの音楽に、一見してわかるロック的反抗のポーズが感じられなかったからだろう。メンバーに女性がいるということも、その印象を強めたかもしれない。山下達郎は自分の目指す音楽スタイルを “強いビートと美しいメロディ” と言っていたが、それは彼が愛してやまないラスカルズやビーチ・ボーイズをはじめとするバンドサウンドの本質であり、まさに彼がシュガー・ベイブで表現しようとしたものだった。
シュガー・ベイブの音楽は、若い世代のうっ憤や不満ではなく、自分たちの日常のリアルをテーマにしているだけで、決して “軟弱” ではないし、いわゆるソフトロックの流れで見るのも違うと思う。実際、数少ないシュガー・ベイブの演奏の映像を見ると、その雰囲気はむしろパンクバンドに近いものがある。
大滝詠一のプロデューサーとしての矜持
また、シュガー・ベイブが『SONGS』を発表した背景にも大滝詠一の存在があった。大滝は、はっぴいえんど解散後にプロデューサーとしての活動をスタートさせ、自分のプロデュースレーベル、ナイアガラ・レコードを発足させた。レーベルはエレックレコードを発売元として1975年4月にリリースを開始したが、この時点でリリース可能なアーティストはシュガー・ベイブと大滝詠一自身しかなかったこともあり、シュガー・ベイブがファーストカタログとなった。そこには、自分の作品を最初に出すと個人レーベルの色がついてしまい、ナイアガラのコンセプトが崩れる、という大滝詠一のプロデューサーとしての矜持があった。
『SONGS』のオリジナルバージョンに収められている11曲を改めて聴くと、どれも古さを感じないどころか新鮮な魅力がある。バンドサウンドでありながら、アレンジセンスが秀逸で、しかもワンパターンではない。ビートロック、R&B、アダルティなスタンダードからコンテンポラリーポップスのエッセンスが効果的にちりばめられ、カラフルでオリジナリティあふれるサウンドになっている。
日本のポップス史における名盤のひとつ「SONGS」
シュガー・ベイブは1976年に解散したが、山下達郎や大貫妙子がソロアーティストとしてブレイクしたこともあって、『SONGS』は次第に評価を高めていき、今では日本のポップス史における名盤のひとつと認められている。
収録曲の「DOWN TOWN」が1980年にEPOによってカバーされ、フジテレビ系お笑いバラエティ『オレたちひようきん族』のエンディングテーマ曲で使われたり、1991年にスタートした日本テレビ系深夜バラエティ『DAISUKI』では「SHOW」「今日はなんだか」がテーマ曲になったりしたことで、『SONGS』の楽曲が新しい世代にも親しまれていった。こうしたエピソードも、シュガー・ベイブの楽曲が時代を超えるポップミュージックの本質的な力をもっていたことを裏付けている。
もうひとつ、『SONGS』のレコーディングがシュガー・ベイブのメンバーチェンジのきっかけになったことも指摘しておいていいだろう。このアルバム発表のタイミングで野口明彦(ドラムス)と鰐川己久雄(ベース)が、上原裕(ドラムス)と寺尾次郎(ベース)に代わっている。ちなみに『SONGS』のレコーディングには上原裕も参加している。
最後に少しだけ自慢させていただくと、『SONGS』のクレジットには僕の名前も入っている。これは当時シュガー・ベイブの事務所スタッフとして、僕も少しだけレコーディングもお手伝いしていたからだ。