最高視聴率は40%超え!昭和の伝説的な音楽番組「ザ・ベストテン」はなぜ終わったのか?
最高視聴率41.9%、伝説の音楽番組「ザ・ベストテン」
12.2%――。
これは、あの『ザ・ベストテン』(TBS系)の最終回の視聴率である。回にして、第603回。時に1989年9月28日―― そう、36年前の今日、伝説の音楽番組は、その12年間の歴史に幕を閉じたのである。ちなみに、最終回の1位は工藤静香の「黄砂に吹かれて」(作詞:中島みゆき、作曲:後藤次利)で、初ランクインの宮沢りえは欠席し、番組最後の言葉は黒柳徹子サンの “ハイ、ポーズ!” だった。
それにしても―― 最高視聴率41.9%(1981年9月17日 *関東地区)を誇った伝説の番組の最終回にしては、少々淋しい気もする。さもあらん、俗に “ドラマの最終回はハッピーエンドだが、バラエティの最終回はバッドエンド” と言われる通り、ドラマが最終回に向けて盛り上がるように作られるのに対し、バラエティ(音楽番組含む)の最終回は、事実上の打ち切りである。ゆえに視聴率は望めない。
―― とはいえ、視聴率が落ちたとはいえ、ラストイヤーの1989年でも年間平均視聴率11.1%(関東地区)と2桁をキープ。絶望的に悪いというほどでもない。実際、もはや忘れてる人が大半だろうけど、ベストテンの事実上の後継番組の『音楽派トゥギャザー』(*1時間遅い木曜22時スタート。司会・黒柳徹子とプロデューサー・山田修爾の座組は同じ)は平均一桁と低迷。わずか10回で打ち切られた。
記憶に残る番組「ザ・ベストテン」
その山田修爾サンの著書『ザ・ベストテン』(ソニー・マガジンズ)によると、後年、山田サンはベストテン時代の後輩の阿部龍二郎サン(現:TBSホールディングス社長、過去に『うたばん』、『中居正広の金曜日のスマたちへ』、『ぴったんこカン・カン』などをプロデュース)と会話した際、独断でベストテンの終了を決めた自身に対して、後輩から浴びせられた辛辣なコトバを紹介している。
「僕は止めるべきじゃなかったと思ってます。僕なら番組タイトルと司会者を残して、中をその時その時に支持される内容に変えて何とか生き延びて、また時代が戻ったら元のベストテンに戻します」
まぁ、今のバラエティの作り方に従えば、阿部サンの指摘は概ね正しい。現在、ヒットしているバラエティで、立ち上げ時のフォーマットを守り続けている番組などない。多くは試行錯誤を繰り返した末に鉱脈を掘り当て、タイトルと似ても似つかぬ内容になりながらも、番組を続けている。山田サンはそんな後輩のコトバに耳を傾けつつも、自身の偽らざる心情を本書で吐露している。
「しかし、それでみんなが感じてる、あの “胸キュン感 ” “清々しさ” “仲間意識” など、はたして残っただろうか」
「『ザ・ベストテン』の記録はデータとして残っていますが、記憶に残る番組でもあった――」
―― そう、記憶に残る番組。ある意味、ベストテンはキレイな顔のまま “安楽死” したコトで、今も人々の間に記憶として語り継がれるのではないか。先の著書で、山田サンは番組にハガキを書いてくれたファンや出場歌手、そしてスタッフらに向けて、番組を終了させるに至った当時の思いの丈を綴っている。
「12年間やってくれた黒柳さんに惨めな思いをさせたくないし、12年の偉業に泥を塗ることは絶対にしたくないのです。いい思い出を残して終わりにしようと思います」
「ザ・ベストテン」はなぜ終わったのか
少々前置きが長くなったが、今回のテーマは “『ザ・ベストテン』はなぜ終わったのか?” である。より正確に言えば、先の通り、山田修爾サンが同番組の “安楽死” を選ぶに至った最大の原因は何か?―― というコト。
ここで、ベストテンの年間平均視聴率(関東地区)の推移を掲載する。ウィキペディアにもあるが、あれは一部間違っていて、こちらが正解である。拙著『黄金の6年間 1978-1983 素晴らしきエンタメ青春時代』(日経BP)の校閲の際に担当編集者がビデオリサーチ社で調べた数字を引用させてもらう。
1978年 23.7%
1979年 30.3%
1980年 29.1%
1981年 33.6%
1982年 28.0%
1983年 26.2%
1984年 25.0%
1985年 21.7%
1986年 20.7%
1987年 20.2%
1988年 17.4%
1989年 11.1%
―― これを見ると、番組2年目で早くも年間平均30%(!)を超えているのも驚くが、概ね1984年までは堅調さを保っている。そして1985年以降、やや勢いを落としているのが分かる(それでも十分高い数字だが)。更にラストイヤーの1989年に急落するが、コレには理由があって、後述する。
では、1985年以降、ベストテンで何が起きたのか。先の著書で山田修爾サンは、番組人気を支えた三位一体の構図―― 見る側(視聴者)、出る側(歌手)、作る側(スタッフ)それぞれの “番組を面白くしよう” という共通目的が、“1980年代後半になると崩れてきた” と指摘する。そして、遠回しながら “主にロックバンドが番組出演を自曲のプロモーションにすぎないと考えるようになった” とも。また、別の関係者はこう指摘する。“1980年代後半、アイドルの出演が増え、顔ぶれがマンネリ化してしまった” ――。
「ザ・ベストテン」バラエティの形を借りたニュース番組
―― なるほど。となれば、やはり “1985年” という起点の年が1つのキーになりそうだ。その年、ベストテンで何が起きたのか。―― そう、初代男性司会者、久米宏サンの降板である。
もちろん、同年10月からテレビ朝日系の『ニュースステーション』を始めるためなんだけど、思うに、ここで番組コンセプトが(意図したのかは分からないが)大きく転換したのではないだろうか。久米サンの有名なコトバ に “『ニュースステーション』はニュースの形を借りたバラエティで、『ザ・ベストテン』はバラエティの形を借りたニュース番組でした“ というのがある。
つまり―― 久米サンの降板で、ベストテンは、それまでの “ニュース=ドキュメンタリー” 的演出から、純粋なバラエティショーに変貌したと。事実、彼の後を継いだ2代目男性司会者は、欽ちゃんファミリーのタレント、小西博之サンだった。
“事件” をリアルタイムで伝え続けた
思えば、久米サン司会の時代、ベストテンは時代を映す鏡だった。“歌番組には出ない” と公言した松山千春サンがファンのリクエストハガキに答えて番組出演して8分間も独白したり、初登場のサザンオールスターズが新宿ロフトからの中継で上半身裸になって “目立ちたがりの芸人でーす!” と叫んだり、松田聖子サンが初ランクインで、到着した飛行機からタラップを降りてすぐ、羽田空港の駐機スポットで歌ったり――。
もっと言えば、番組がスタートした1970年代後半は、ニューミュージック全盛期。世良公則&ツイストを始め、アリス、渡辺真知子、原田真二、庄野真代、サーカス、八神純子、ゴダイゴ、甲斐バンド、さだまさし、チューリップ、久保田早紀、クリスタルキング、オフコース、竹内まりや―― 等々が週替わりのように登場した。チャートも出演者も目まぐるしく変わり、音楽番組に彼らが出演すること自体、“ある種の事件” だった。
1980年代に入ると、今度は、キャンディーズやピンクレディー、山口百恵ら1970年代アイドルの抜けた穴を埋めるように、“新しいアイドル” たちがカンブリア紀の大爆発のごとく登場した。松田聖子を筆頭に、河合奈保子、柏原よしえ(現:芳恵)、石川ひとみ、薬師丸ひろ子、伊藤つかさ、中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、早見優、石川秀美、原田知世、わらべ、菊池桃子、岡田有希子―― 男性陣では、たのきんトリオに、沖田浩之、渡辺徹、シブがき隊、吉川晃司、そしてチェッカーズ――。
そう、1970年代後半から1980年代前半の音楽界は、次々とニューミュージックやアイドルの新陳代謝が進み、ベストテンはそんな “事件” をリアルタイムで伝え続けた。あのころ、『ザ・ベストテン』は “ニュースにあふれていた” 。
1985年4月25日、久米宏降板
“流行歌” というコトバがある。歌謡曲を始め、アイドルソングやニューミュージック、果ては演歌まで幅広く包括する便利なコトバだが、要はその時々で流行ってる楽曲全般を指す。大事なのは、その顔触れは刻々と入れ替わり、それと呼応するようにランキングも目まぐるしく変わったコト。そう、あの時代、“チャートは上がるもの” だった。ファンはレコードを買うだけじゃなく、ベストテンにハガキを書き、ラジオにリクエストを送り、有線に電話をした。そして久米宏サンは毎週、番組冒頭でそれらのランキングを早口で紹介した。まさに、ソレは生きたニュースだった。
1985年4月25日、久米宏サンが番組を降板した。奇しくも、その頃から “流行歌” というコトバが聞かれなくなった。アイドルは飽和状態となり、ニューミュージック勢に代わり、新たに台頭したロック勢は、もはやバラエティ番組と化したベストテンにプロモーション以外の興味を持たなくなっていた。ランキングも、多くの楽曲が初登場時が最高位となり、あとは下がるばかりだった。
1988年10月13日、フジテレビ系で新番組『とんねるずのみなさんのおかげです。』が始まる。木曜21時―― ベストテンの真裏だった。当時、人気絶頂のとんねるずの初の冠番組で、彼らは宮沢りえら旬のアイドルと絡み、新しい笑いの世界を提供した。
―― そう、もはや同じ “バラエティ番組” という土俵の上では、『ザ・ベストテン』に勝ち目はなかったのである。