モナリザが消えた日──世界一有名な絵画をめぐる世紀の盗難事件
ルーヴル美術館の至宝《モナリザ》。誰もがその名を知る、世界でもっとも有名な絵画のひとつだ。だが、その名声の裏には意外な事実がある──。かつてこの絵は、いまのように“特別な存在”ではなかった。名作ではあるが、美術館の中に埋もれていた一枚にすぎなかったのだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503〜1519年頃 ルーヴル美術館
1911年にパリで起きた盗難事件。この大胆な犯行こそが、《モナリザ》を“伝説”へと押し上げたのである。
盗まれる前の《モナリザ》──静かに展示されていた肖像画
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた《モナリザ》(1503–1506頃)は、19世紀末にはすでにルーヴル美術館の所蔵品だった。しかし当時の館内には、ダ・ヴィンチの他の作品やラファエロ、ドラクロワ、さらにはダヴィッドやアングルの大型歴史画など、より目を引く名画が数多く並んでいた。
《モナリザ》は、横幅77cmの小ぶりな肖像画で、当初からガラスケースにも入れられていなかった。芸術家や美術史家の間では高く評価されていたが、一般市民にとっては、特別な関心を集める存在ではなかった。
つまり、「誰もが知る世界的名画」という地位は、この事件をきっかけに築かれたものだったのだ。
1911年8月21日、モナリザが姿を消した
1911年8月21日、月曜日の朝。ルーヴル美術館は定休日だった。いつもなら静まり返っているはずの館内で、異変が起きていた。
翌日、館内を巡回していた画家ルイ・ベローが、《モナリザ》が展示されていた壁にぽっかり空いた空間を見つける。そこにあるはずの名画が、ない。壁には額縁だけが取り残されていた。
『モナリザ』が盗まれた展示場所(サロン・カレ)
最初は修復か写真撮影のために移動されたのでは、と誰もが思った。しかしどの部署に確認しても、絵の所在は不明。やがて“本当に盗まれた”ことが明らかとなり、警察が出動。ルーヴルは全面閉鎖された。
国家の至宝が消えた──このニュースはフランス全土を震撼させ、世界中で報じられた。
容疑者に浮上したのは、若き日のピカソ
事件の報道を受けて、ルーヴルには絵を見に来るのではなく、“空っぽの壁”を見に人々が詰めかけるという異常事態が起きた。メディアは連日、犯人像をあおり、社会は騒然となった。やがて警察は、美術界にも捜査の手を伸ばす。
そして思わぬ人物が容疑者として名を挙げられる──若き日のパブロ・ピカソである。
発端は、ピカソの友人で詩人のギョーム・アポリネールが、過去に盗難品の所持疑惑で逮捕されたことだった。取り調べの中でアポリネールはピカソの名前を口にしてしまい、警察はピカソを取り調べた。
当時のピカソは“外国人”であり、前衛的な作風も“怪しい人物”という印象を与えやすかった。だが証拠不十分により、すぐに無罪放免となった。とはいえ、この事件が後の巨匠ピカソの履歴に残るスキャンダルであったことは間違いない。
犯人の正体と、驚くべき手口
事件は迷宮入りかと思われたが、1913年、ついに新展開が訪れる。イタリア・フィレンツェの美術商アルフレード・ジェーリのもとに、「ダ・ヴィンチの作品をイタリアに返還したい」という謎の手紙が届く。
約束の場所で現れたのは、ボローニャ出身の小柄な男。その手には、丁寧に梱包された木箱。中には、紛れもなく《モナリザ》の本物が収められていた。
犯人はヴィンチェンツォ・ペルージャ。事件当時、ルーヴル美術館で展示ケースのガラスを取り付ける仕事をしていた職人だった。彼は閉館間際に館内に潜伏し、翌朝、清掃員に変装してモナリザのケースを外し、作業室で絵をコートに隠し、正面玄関から堂々と持ち出したのだった。
モナ・リザを盗むヴィンチェンツォ・ペルージャ(想像図)
その後、《モナリザ》は2年間、パリ郊外の下宿の床板の裏に隠されていた。ペルージャは密かに“国家の至宝”を手元に置いたまま、祖国に持ち帰る機会をうかがっていた。
「奪還者」としての英雄視──イタリア世論の反応
ペルージャは逮捕後、「ナポレオンが持ち出したイタリアの芸術品を取り戻しただけだ」と供述した。彼の中には、“モナリザは本来イタリアにあるべき”という信念があったという。
ヴィンチェンツォ・ペルージャの逮捕時写真
この言い分は、イタリア国内で一定の共感を呼んだ。当時はナショナリズムの機運が高まっており、新聞は彼を「美術品の救済者」と報じた。裁判でも比較的軽い刑が下され、彼を英雄視する声も一部では上がった。
一部の国民は彼を英雄視し、彼の行動を「正義」と捉えたのである。
贋作で荒稼ぎ? もうひとつの“真相”
しかし、この事件には別の顔があった。1932年、アメリカの雑誌『Saturday Evening Post』に掲載された記事で、美術史家カール・デッカーは、驚くべき“真相”を告発した。ペルージャは単独犯ではなく、美術商エドゥアルド・シャウディと共謀し、“贋作ビジネス”を画策していたというのだ。
計画はこうだ。モナリザが盗まれれば世界中が騒ぎ、その間にシャウディが仕込んでおいた贋作を「本物かもしれない」として複数の富豪に売る。“本物の可能性”があるだけで、誰もが高額を支払うはず──という計画だった。
実際、事件後には複数の精巧な贋作が流通し、高値で売買された記録もある。ペルージャがモナリザを売ろうとしたのも、詐欺計画の一環だった可能性がある。ただしこの説には決定的な証拠はなく、真偽は今も謎のままだ。
フランスに戻る前に──“凱旋展示”されたモナリザ
事件の発覚後、《モナリザ》はただちにフランスへ返還されると思われた。しかしイタリア政府は、これを国家的な祝賀イベントへと転じた。
《モナリザ》はウフィツィ美術館を皮切りに、ローマやミラノなどで一般公開され、人々はこぞって“奪還された名画”を一目見ようと押しかけた。イタリア国民の多くは、ダ・ヴィンチの名画が一時的にでも祖国の地に戻ってきたことに誇りを感じていたという。
ルーヴル美術館でのモナリザ返還後の様子(1914年)
その後、正式にフランスへ返還され、ルーヴルの展示室に再びモナリザの微笑みが戻ることとなる。
盗まれたことで、《モナリザ》は伝説となった
この事件をきっかけに、《モナリザ》は単なる名画ではなく“物語を持つ存在”となった。芸術作品の価値は、技巧や作者の名声だけでは決まらない。「どんな物語を背負っているか」が、絵の意味を変えるのだ。
終わりに──モナリザの微笑みの奥にあるもの
いまルーヴル美術館で《モナリザ》と目を合わせる多くの人は、彼女がかつて盗まれていたことさえ知らないかもしれない。けれど、その静かな微笑みの奥には、間違いなく“歴史の影”が宿っている。
一枚の絵画が、国家の威信と美術史、犯罪と愛国心、そして真贋をめぐる謎を抱えて歩んだ数奇な運命──。それこそが、《モナリザ》が世界で最も知られる芸術作品となった理由なのである。
参考URL)
The man who stole the Mona Lisa
https://www.theguardian.com/artanddesign/2011/aug/05/mona-lisa-theft-louvre-leonardo
Vincenzo Peruggia – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Vincenzo_Peruggia
Yves Chaudron
https://en.wikipedia.org/wiki/Yves_Chaudron