【倉敷市】倉敷川畔伝統的建造物群保存地区 〜 全国でもいち早く保存に取り組んできた歴史的町並み。倉敷格子・倉敷窓などの意匠にも魅力が詰まる
倉敷川畔 伝統的建造物群保存地区(くらしきがわはん でんとうてきけんぞうぶつぐん ほぞんちく、以下「倉敷川畔」と記載)は、倉敷市の中心部にあるエリアです。
倉敷川沿いとその周辺の地域に、歴史的な建造物が多く建ち並んでいます。
倉敷川畔では、倉敷市によって「伝統美観保存地区(伝美地区)」が定められ、早くから町並み保存の取組がおこなわれてきました。
約20.7haの伝統美観保存地区のうち、約15haが「倉敷川畔伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
「倉敷美観地区」は、伝統美観保存地区と重伝建地区を総称したものです。
国内外から大勢の人が訪れる倉敷川畔の町並みについて、歴史や町並み保存活動の歩み、町の魅力などについて深掘っていきます。
倉敷川畔の成り立ち・歴史
倉敷川畔は、倉敷川の上流沿岸を中心にし、その周辺に広がるエリアです。歴史的な建造物が多く残り、町並み保存の取組がされています。
倉敷川畔の町並みの成り立ちや、歴史について紹介しましょう。
かつては海だった倉敷川畔周辺
倉敷川畔の町並みがある一帯は、かつて海でした。高梁川の河口沖にあたり、現在の倉敷川畔は島の一部だったのです。室町時代に、現在の鶴形山の周辺に集落が生まれたといわれています。
現在の倉敷川畔の町並みとその周辺は、いつしか倉敷と呼ばれるようになりました。
倉敷の周辺は、高梁川の運んだ土砂が長年にわたって積もっていき、「阿知の潟(かた)」と呼ばれる遠浅の海になっていました。安土桃山時代に、当時の岡山城主・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)による干拓により、倉敷は陸続きになったのです。
なお倉敷という地名は、中世に「倉敷地」であったことが由来だという説があります。倉敷地とは、集めた年貢を移送するために、一時的に保管しておく場所のことです。
倉敷地は現在の倉敷市だけでなく、各地にありました。
江戸時代に幕府の直轄地に
江戸時代初期になると、倉敷は江戸幕府直轄地になります。
備中松山城を拠点にした備中国奉行(ぶぎょう)の小堀正次(こぼり まさつぐ)や小堀政一(こぼり まさかず/小堀遠州)が治めました。
1642年(寛永19年)には米倉平太夫(よねくら へいだゆう)が倉敷代官として倉敷に赴任し、支配したのです。
その後、倉敷の支配は備中松山藩〜幕府直轄〜庭瀬藩〜丹波亀山藩(京都府亀岡市)〜幕府直轄〜駿河田中藩(静岡県藤枝市)と変遷。そして、江戸時代中頃の1721年(享保6年)に幕府直轄となり、そのまま幕末まで支配が続いたのです。
1746年(延享3年)には、倉敷代官所(現在 倉敷アイビースクエアの敷地)が置かれました。
倉敷川の水運を使った商いで栄え、倉敷川畔の町が生まれる
倉敷は高梁川の河口近くにあったため、物資の集散地として繁栄しました。
江戸時代前期から、少しずつ倉敷の周囲の海が干拓されて陸地化されます。
干拓により生まれた倉敷周辺の新田は、海水の塩分が含まれていたため、塩分に強い綿花が盛んに栽培されました。
一方、倉敷は干拓地の拡大により、内陸の地になってしまったのです。そこで、海から倉敷までを運河でつなぎました。これが倉敷川です。
商人が多く集まり、干拓地で収穫された綿、周辺の村で収穫された米・イグサなど、さまざまな取引が活発にされます。
倉敷川は荷物の積み出し・積み上げの場所となり、倉敷川沿いには蔵が建ち並びます。商人たちは倉敷川の水運を利用して商いを盛んにおこないました。
倉敷には商取引で財を成した豪商が多く生まれ、町はにぎわいました。元禄時代(1688〜1704年)ごろが最盛期で、このころに倉敷川畔の町の骨格ができたといわれています。
現在の鶴形山の南を東西に通る「本町通り」が当時の倉敷のメインストリートで、町家が多く建ち並んでいたのです。
また本町通りの阿智神社南参道あたりは、職人の町でもありました。
現在、倉敷を象徴する景観となっている倉敷川沿いは蔵が建ち並び、荷役作業がおこなわれていた場所。現代風にいえば倉庫街で、いわば裏通りだったのです。
その後、明治時代中頃になると鉄道が開通し、倉敷駅が開業します。物や人の流れは、倉敷川の水運から鉄道を使った陸上輸送へと移りました。
倉敷川の船の運航は、明治以降衰退します。しかし旅客運航は、昭和前期ごろまで細々と続いていたそうです。
倉敷川畔の町並み保存の歩み
江戸時代に繁栄した倉敷川畔の町。
現代でも当時の町並みが多く残り、観光地としてにぎわっています。倉敷川畔の町並み保存がどのようにおこなわれてきたのでしょうか。
町並み保存の活動の歩みについて、倉敷市伝統的建造物群等保存審議会の会長を務める、澁谷俊彦(しぶや としひこ)さんに聞きました。
歴史的町並みの保存のきっかけは民藝運動
──倉敷川畔の町並み保存は、いつごろから始まった?
澁谷(敬称略)──
具体的な町並み保存の施策が実行され始めたのは、昭和40年代(1965年〜1974年)からでした。しかしその前から、倉敷の町並みを残すべきだという声はあったのです。
もともと倉敷の地は、民藝運動(みんげいうんどう)が活発な地域でした。
民藝運動が続いていくうちに、倉敷川畔周辺に残る歴史的な町並みを保存すべきだという考えが生まれたと考えられます。
民藝は「実際の生活で使われる実用的な道具にこそ、美しさがある」という考え方です。
その考えと、地元の生活・文化や風土とともにある倉敷川畔の歴史的な町並みが、合致したのではないでしょうか。
そして戦後、文化人らによって、倉敷の町並み保存が盛んに叫ばれるようになりました。
倉敷民藝館を設立した実業家の大原總一郎(おおはら そういちろう)さんや、倉敷における民藝運動の中心人物の一人だった染織家・外村吉之介(とのむら きちのすけ)さんたちです。
ヨーロッパなどの海外では歴史的な建造物を生かしたまちづくりがされており、大原さんはその影響を受けたようです。
倉敷川畔をドイツのローテンブルクのような地域にしたいという思いのもと、町並み保存の必要性を説いたといいます。
また外村さんらは「倉敷都市美協会」を設立し、倉敷の町並み保存を広く訴え続けました。
昭和40年代から行政による町並み保存の取組が始まる
──本格的な町並み保存が始まった経緯を知りたい。
澁谷──
地元の有志らによる町並み保存の思いは、やがて地元住民の心も動かし、保存に向けた声が大きくなっていきました。
大原さんは地元の大地主でもあり、影響力の大きな人物。外村さんら文化人は民藝の考えのもと、倉敷を地盤にして創作活動をする地元に根付いた人たちです。
そして地元に住む人たちが彼らに共感し、町並み保存の声が広がりました。やがてその声は行政に届き、行政・住民が主体となった町並み保存活動へ発展していくのです。
日本にまだ町並み保存の制度がない時代だったので、倉敷市は独自の条例と計画をつくりました。
1968年(昭和43年)、倉敷市は倉敷川畔や本町などの約20.7haを対象に「倉敷市伝統美観保存条例」を公布。翌1969年(昭和44年)には、「倉敷市伝統美観保存計画」を告示したのです。
これによって倉敷川畔美観地区・倉敷川畔特別美観地区・倉敷川畔保存記念物が指定されました。このエリアを「伝統美観保存地区」としたのです。
地区内では、外観を変更する際は必ず届け出るという決まりができました。これが、倉敷川畔における町並み保存の本格的な取組の始まりになったのです。
1975年(昭和50年)には、重要伝統的建造物群保存制度が発足しました。ようやく国の制度が追い付いてきたのです。
これを受けて、1978年(昭和53年)に倉敷市が「倉敷市伝統的建造物群保存地区保存条例」を制定します。外観を変更する際は、申請・許可を得てからでないと着工できなくなりました。また条件を満たした場合は、補助金が出る仕組みも整備。
倉敷市では1979年(昭和54年)に、市が指定した美観地区のうちの13.5haが、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました(1998年〔平成10年〕には、15haに拡大)。
1990年(平成2年)、倉敷川畔から見える景観の重要性にも着目し「倉敷市倉敷川畔伝統的建造物群保存地区背景保全条例」を制定して、背景地区の景観を保護します。これは全国に先駆けてのことでした。
2000年(平成12年)には建築基準法に基づいた「景観条例」、2005年(平成17年)には景観法に基づいた「倉敷市美観地区景観条例」として改正されています。
景観を守る制度として、より堅牢なものになりました。
倉敷市は状況に合わせ、条例や制度を改めたり、新設したりして保存に取り組んでいるのです。このような倉敷市の取組によって倉敷川畔の町並みが保存・維持され、多くの人が魅了されて訪れています。
倉敷川畔は2010年(平成22年)に「都市景観大賞『美しいまちなみ大賞』」、2012年(平成24年)に「アジア都市景観賞『大賞』」を受賞。
さらに2017年(平成29年)には、日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語 ~和と洋が織りなす繊維のまち~」の構成文化財の一つになりました。
市や住民が一丸となって、長年にわたり町並み保存に取り組んできた成果の一つではないでしょうか。
倉敷は町並み保存の先駆者的地域の一つ
──倉敷川畔の町並み保存の取組は、全国的にも早いほうだった?
澁谷──
倉敷川畔の町並み保存は、全国でも早かったといえるでしょう。
重要なのは、「町並み保存」という概念です。京都や奈良など、建造物単体での保存の取組はずっとおこなわれていました。
戦後の倉敷では単体ではなく、「建造物群」という町並みを対象にしていたのが画期的だったと思います。
エリアを定め、そのエリア内にある歴史的建造物を保存していくというものです。いわば”点”での保存活動ではなく、”面”での保存活動でしょうか。
建造物群としての保存の重要性を早くから意識していたのは、全国的に見ても倉敷と金沢(石川県)など、わずかな地域でした。
しかも倉敷や金沢の町並み保存の取組は、1975年(昭和50年)に創設された国の重要伝統的建造物群保存地区制度よりも早くおこなわれています。
倉敷は町並み保存の先駆者的地域の一つといえるのではないでしょうか。
昭和40年代は、ちょうど高度経済成長期でした。各地で都市開発が実施され、歴史的な建造物が失われつつあった時勢です。
倉敷・金沢以降、高山(岐阜県)・妻籠(つまご、長野県)・萩(山口県)・松江・津和野(いずれも島根県)・京都など、多数の地域で町並み保存の動きが始まりました。
いずれの地域も、現在は歴史的な町並みが残る観光地になっていて、国内外から大勢の人が訪れていますよね。倉敷の町並み保存の取組は、日本にとって大きな意味があったと思います。
その後、全国での動きを受け、国の制度として重要伝統的建造物群保存地区が生まれました。当時の文部省は、重要伝統的建造物群保存地区の制定の際に倉敷・高山・萩の3地区をモデル地区にしたといいます。
また倉敷の町並み保存は行政主導ではなく、民間から町並み保存の訴えが生まれて行政を動かしたということも非常に重要な点です。
町並み保存活動の詳細な年表は、以下を参照。
美観地区の保存の歩み|倉敷市公式ホームページ(生涯学習部 文化財保護課)
倉敷川畔の見どころ
倉敷川畔に残る歴史ある建物で、着目すべきポイント、見どころになる点は何でしょうか。
さまざまな特徴的な部分があるうちから、澁谷俊彦さんは「倉敷格子(くらしきごうし)」「倉敷窓」「土蔵造(どぞうづくり)」「海鼠壁(なまこかべ)」の4点を挙げます。
また、澁谷さんは倉敷川畔の町並みの最東部に位置する「東町」も、ぜひ見学してほしいと言います。
倉敷格子
──「倉敷格子」とは、どのようなもの?
澁谷──
倉敷格子は旧大原家住宅(国指定重要文化財)など、倉敷の町家に多く見られるものです。
倉敷格子は一般に「親通切子格子(おやどおし きりこごうし)」といって、倉敷独自のものではありません。
しかし倉敷川畔の町に多く取り入れられており、倉敷を代表する建築物の意匠といえるでしょう。
町家のおもに1階に部分に見られ、太い竪子(たてご。縦長の棒状の部材)の間に、長さが短く細い竪子を数本並べているのが特徴です。
太いのを親竪子、細く短いのを子竪子と呼びます。
短い子竪子は、外側から内部を見えにくくするもの。子竪子は短いため、上部が空きます。ここから日光が入り、室内が明るくなるのです。
倉敷格子はプライバシー保護と室内の採光を両立させた、実に機能的な工夫ではないでしょうか。
子竪子の数は家によって異なり、3本の場合が多いです。家によっては5本などの場合もありますね。また竪子の厚みにも違いがあります。
竪子は、釘で打ちつけたものが多いです。一部の家では竪子に貫(横棒)を通して固定させたものも見られます。
私は、親竪子と数本の子竪子が連続する倉敷格子が生み出す独特の”リズム感”に、非常に快感を覚えます。また、倉敷格子には一種の芸術性のようなものも感じており、見ていると圧倒されるんです。
倉敷格子は家によって微妙に特徴が異なっているのも、主(あるじ)のこだわりや生活環境などが垣間見えて面白いですね。
倉敷川畔を散策する際は、ぜひ倉敷格子に着目してみてください。
倉敷窓
──「倉敷窓」の特徴は?
澁谷──
倉敷窓は倉敷川畔の町家の2階部分に見られる、倉敷ならではの意匠です。
窓枠の隅の木が壁側に少し突出しているのが特徴で、さらに木地のままの竪子が3〜5本あります。
壁は漆喰(しっくい)で塗り固められており、本来ならば窓枠や竪子も漆喰で塗ってしまうのが通常です。しかし倉敷窓は窓枠を塗らないんですね。
これは火災が影響していると思われます。漆喰で塗り固めるのは、耐火の意味がありました。しかし倉敷の町には、大きな火災が発生しなかったという歴史があるんです。
そのため防火に対する意識が、ほかの地域と異なっていたのではないでしょうか。それが倉敷窓に現れているいわれています。
なお、本町通りにある、倉敷川畔で現存最古の町家である井上家住宅(国指定重要文化財)には、扉付きの倉敷窓があります。火災への警戒が強かった時代の窓です。
ぜひ注目してみてください。
土蔵造
──土蔵造について教えてほしい。
澁谷──
土蔵造は、建物の全体を土塗り白漆喰仕上げにより、木造の本体部分を覆ったものです。
土蔵造は全国各地に見られるものですが、「倉敷美観地区」と聞いて多くの人がパッと思い浮かべるイメージは土蔵造の建物かもしれませんね。
倉敷川畔では、大部分の蔵に見られます。土壁と漆喰を塗るのは、耐火性能を向上させるのが目的です。
壁が厚いので、火災が発生しても壁の外面近くは被害がありますが、内部は守られやすくなっています。
海鼠壁(なまこかべ)
──海鼠壁の特徴とは。
澁谷──
海鼠壁(なまこかべ)は外壁仕上げの一種です。正式には「海鼠目地瓦張(なまこめじかわらばり)」といいます。
壁に正方形の瓦を張りつけ、瓦同士の隙間の目地に、漆喰を盛り上がるようにして塗っているのが特徴です。この漆喰の盛り上がりが、ナマコを連想させるのが名前の由来とされています。
ナマコ状の漆喰を上手に施工するには、かなりの腕が必要です。海鼠壁のできる左官(さかん/しゃかん)は、かなり少なくなりました。
倉敷の海鼠壁には、漆喰部分が縦横十字型に交差するタイプの「芋張り」と、縦ラインをずらした「馬張り」、斜めに交差するタイプの「四半張り」などがあります。
倉敷では、特に馬張りと四半張りが多く見られます。
なお海鼠壁も全国的に見られますが、倉敷美観地区と聞いてパッとイメージされるものでしょう。
東町の町並み
──澁谷さんが推す、東町の魅力とは?
澁谷──
東町は、鶴形山の南側を東西に通る本町通りから東方面に続く町です。このエリアは、1998年に重伝建地区に追加選定されました。
かつての豪商の住まいが多く、重厚感のある趣(おもむき)が印象的です。市指定重要文化財である楠戸家住宅(はしまや)もあります。
あまり商業化されておらず、昔ながらの暮らしの雰囲気が残った静かな通りで、私の好きな場所です。
かつての倉敷らしさを今に残し、とても価値があり、魅力を感じます。
江戸時代からの歴史を感じる倉敷川畔の町並み
倉敷川畔の町並みは倉敷を代表する景観で、多くの人が訪れる人気の観光地です。散策して景観を楽しんだり、店や施設を訪れたりするのも魅力的だと思います。
加えて、倉敷格子や倉敷窓・海鼠壁などにも着目してみると、違った面白さがあるのではないでしょうか。
建物それぞれの個性を探しながら、倉敷川畔の町を歩んでみるのもおすすめです。