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#4 『ハムレット』は、哲学である――河合祥一郎さんが読む、シェイクスピア『ハムレット』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#4 『ハムレット』は、哲学である――河合祥一郎さんが読む、シェイクスピア『ハムレット』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

東京大学大学院教授・河合祥一郎さんによる


シェイクスピア『ハムレット』読み解き #4

「優柔不断」な青年は、ある答えにたどり着く――。

父を殺された青年ハムレットは、なぜ復讐を先延ばしにするのか。「理性」と「感情」に引き裂かれる近代人の苦悩を描き出した、シェイクスピア悲劇の最高峰、『ハムレット』。

『NHK「100分de名著」ブックス シェイクスピア ハムレット』では、『ハムレット』を単なる「復讐劇」ではなく、存在の問題を追求する哲学的な作品として、シェイクスピア研究の第一人者・河合祥一郎さんが解説します。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします
(第4回/全6回)

『ハムレット』は哲学である

 芝居の冒頭、第一幕第一場は、二人の歩哨による次の台詞で幕を開けます。

バナードー: 誰だ。

フランシスコ: なに、貴様こそ。動くな、名を名乗れ。

 真夜中の十二時、先に城壁の歩哨に立っていたフランシスコが、あとから来たバナードーに逆に誰何されてしまいます。このアイデンティティの問いかけは、作品全体のモチーフを予告するものです。

 一見すると何気ない、幕開けの「誰だ」(Who's there?)という台詞は、誰何するべき相手に先に誰何されるという関係性の転倒によって、「ここにいる私とは誰か?」という問いと呼応しています。ひいてはこの最初の台詞は作品を通して、そもそも人間が存在するとはどういうことなのか、人間とはそもそも何なのか、という問いにまでつながっていくのです。「人間とは何だ」(What is a man)という台詞もあとでそのまま出てきますが(第四幕第四場・Qのみ)、この作品は存在の問題を追求するもの、いわば“存在の研究”(study of being)である、というのが私の持論なのです。

 つまり『ハムレット』という作品は単なる復讐劇ではなく、人はなぜ生きるのか、いかに生きていくべきなのか、という哲学を描いたものだということです。

 ただし、これはロマン派が考える近代以降の哲学とは違います。ここで問われているアイデンティティは、私たちのような近代的自我のアイデンティティとはいささか異なるものだということに、注意しておかなくてはなりません。『ハムレット』が書かれた一六〇〇年頃はルネサンスの時代であり、ちょうど中世と近代のはざまの時代です。

 哲学者ニコラウス・クザーヌスの「神の照覧あるが故に我在るなり」(神様が私をご覧になっているから、私は存在する)という言葉に象徴されるように、中世における自我は、自分ひとりで存在することはできず、常に神とともに受動的に世界に在るというものでした。それに対して、ルネ・デカルトの「我思う故に我在り」(コギト・エルゴ・スム、英語では I think therefore I am)になると、神よりも理性を信じる時代となり、自分ひとりで考え、それによって主体が自立的・能動的に世界に存在することができる。それが近代的自我のはじまりです。『ハムレット』は、中世を引きずりながらも、まさに近代へと羽ばたこうとする時代に書かれました。デカルトの〈コギト〉は一六三七年の『方法序説』に登場するのですが、それはちょうどシェイクスピアの一世代あとなのです。

 逆に言えば、シェイクスピアの『ハムレット』は、デカルトに先んじて、近代的自我の原型のような主体を提示しているとも言えます。ただ、神とともにある中世から近代へと移り変わってゆくなかで、作者であるシェイクスピア自身も揺れ動いていて、熱情(passion)のなかで生きるという中世的な生き方と、理性(reason)で考えて生きるという近代的な生き方のはざまで揺れているのです。結論から言ってしまうと、ハムレットは近代的自我に引き寄せられていくけれども、けっきょく近代的自我では解決せず、最後はやはり「神の摂理」に委ねる──俺がひとりで悩んでいてもしょうがないのだ、という大きな悟りに至ります。そこが哲学的に、とても深いところだろうと私は思います。

 近代的自我には弱点があります。たとえば私たちはいま、スマートフォンや携帯電話やソーシャル・ネットワークでお互いにつながっているかのように見えているけれど、それで本当にコミュニケーションがとれているのかというと、非常に不安があると思うのです。逆にそういったものなしではコミュニケーションがとれない弱い生き方になっていないでしょうか。それなしでは他者とのつながりがどこにあるのかわからなくなり、底無しの不安に陥ってしまう。そこにあるのは孤立した自我であり、それが行き場をなくしてしまうと、自殺や、突発的な無差別殺人のような暴力も起こる。

 ところが中世的な自我のあり方では、神や自然といった絶対的な他者とつながることで、自分が存在しています。神に見守られているだけでなく、シェイクスピアの喜劇『夏の夜の夢』で言えば妖精のような、自然のなかの何ものかが常に自分とともに在るのです。

 ルネサンスの時代には新プラトン主義という哲学があって、そこでは人間は小宇宙(ミクロコスモス)であり、大宇宙(マクロコスモス)と呼応しているのだという発想がありました。だから『リア王』で、娘から裏切られたリアが怒るときに、「風よ吹け、嵐よ起これ!」と叫ぶわけです。これを近代的自我の発想だけで考えてしまえば、「おじいちゃん、いくらあなたが怒っても、天気は関係ないのよ」となるのでしょうが、私たちは『リア王』を見ても、そうは思わない。なんとなくいつのまにか新プラトン主義的な大宇宙と小宇宙の呼応を感じて、リアの怒りが嵐となって表象されていることを受け入れてしまいます。単なる演劇的手法ではなく、当時の哲学からくる感受性が呼び起こされるからです。

 これは人間のありようとして、“気”とか“精”(spirits)と呼ばれるものと常に呼応しているという発想でもあります。現代でも「雨が降っているから、なんとなく気が滅入る」ということはあるでしょう。でも、当時は「私は気が滅入っている。だから雨が降っている」となるのです。自分が悲しいから、天も涙を流すのだ、という感覚が普通にあった。それは近代的な理性で考えればありえないことですが、そんなふうに合理的には割り切れない、理屈を超えた感覚的なことが、シェイクスピアが生きたエリザベス朝の世界では当たり前だったはずです。つまり私たちが近代的な視点から、すべて理屈で切っていってしまうと、いろいろなことを取りこぼしてしまうというわけです。

著者

河合祥一郎(かわい・しょういちろう)
東京大学大学院教授。専門はシェイクスピア、英米文学・演劇。東京大学文学部英文科卒業後、同大学院にて博士号、英ケンブリッジ大学にてPh.D.を取得。おもな著書に『ハムレットは太っていた!』(サントリー学芸賞、白水社)、『シェイクスピアの正体』(新潮文庫)ほか多数。シェイクスピア戯曲の新訳のほか、ルイス・キャロル、C・S・ルイスなどの作品を翻訳。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス シェイクスピア ハムレット 悩みを乗り越えて悟りへ』(河合祥一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。

*本書における『ハムレット』引用部分の日本語訳は、著者訳『新訳ハムレット』(角川文庫)によります。

*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年12月に放送された「ハムレット」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「ハムレットの哲学」、読書案内などを収載したものです。

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