熊本の猫寺「生善院」に伝わる恐怖の伝説とは ~無実の僧の死が招いた祟り
熊本県球磨郡水上村にある寺院「生善院(しょうぜんいん)」は、山門脇に狛犬ならぬ「狛猫」がいる寺として知られている。
2匹の狛猫が守る山門をくぐれば、本堂や観音堂周辺にも猫の置物が配置されており、同寺は「熊本の猫寺」と呼ばれ、地元熊本だけでなく全国の愛猫家に親しまれている。
日本では、猫と寺院はネズミ駆除や縁起担ぎの縁で古くから結びつきが強く、全国各地に「猫寺」は存在しているが、生善院と猫の関係はその中でも一際異彩を放っている。
何を隠そうこの生善院は、猫を使った恐ろしい呪詛を鎮めるために建立された寺院とされているのだ。
今回は、熊本の猫寺「生善院」の建立にまつわる”呪いの伝説”について掘り下げていきたい。
肥後人吉で起きた相良の後継者騒動
生善院の開基である相良頼房/長毎(さがら よりふさ/ながつね)は、肥後の戦国武将・相良義陽(さがら よしひ)の次男として、室町幕府が滅亡した翌年の1574年に生まれた人物である。
頼房の父である義陽は、長らく島津氏と対立して争っていたが、1581年には島津氏に降伏し、相良家はその支配下に置かれた。
その当時幼かった頼房は、2歳上の兄・忠房とともに人質として島津氏に差し出された。
また、父・義陽は同年に島津義弘の命で出陣した「響野原の戦い」で、かつての盟友・甲斐宗運の家臣に討ち取られて戦死している。
当主・義陽の死後、家督は長男・忠房(当時10歳)が継ぐことになった。
しかし、かねてより気性の荒さを理由に一門から遠ざけられていた義陽の弟・相良頼貞が、これを好機とみて家督相続を狙い、挙兵に踏み切った。
頼貞の謀反とも言える挙兵によって生じた相良家の後継争いは、名臣として知られる家老・深水長智たちの尽力により鎮められた。
だがその後、頼貞の挙兵に加担していたとされる2人の名が、忠房の耳に入ることとなる。
その2人こそが、相良氏家臣にして肥後国湯山地頭・湯山城主であった湯山宗昌(ゆやま むねまさ)と、その実弟である僧・盛誉(せいよ)であった。
無実の僧侶が冤罪で殺される
謀反に失敗した頼貞が日向国へ逃れた翌年の1582年、湯山宗昌とその弟・盛誉が謀反に加担していたという報告が、当主の忠房のもとに届けられた。
だが実際には宗昌と盛誉は、義陽の死後に多良木を訪れた頼貞を弔問し、世間話をしただけだったという。
しかしこの事実が捻じ曲げられ、宗昌を良く思っていなかった人物に利用されたのだ。
身に覚えのない宗昌と盛誉は、盛誉が院主を務めていた岩野の普門寺に籠もって謹慎していた。
ところが、忠房の姉が重臣たちと協議のうえで2人の処罰を決断し、米良地方の武将・黒木千右衛門を総大将として、討伐隊を普門寺へと差し向けてしまった。
この動きを知った相良家の家老・深水長智は、「僧侶である盛誉を殺してしまっては取り返しがつかぬ」と懸念し、討伐を中止させるべく、家臣の犬童九介を伝令として急ぎ普門寺へと差し向けた。
しかしこの犬童九介は、道中で立ち寄った築地村(現在の球磨郡あさぎり町)で、反宗昌派の者による策略にはまり、水と偽って酒を飲まされて酩酊し、そのまま眠り込んでしまった。
そのため、討伐中止の命は黒木らに届かず、討伐隊はそのまま普門寺に到着してしまったのである。
1582年4月18日(旧暦3月16日)、黒木は宗昌と盛誉がこもる普門寺に夜襲をかけた。
武将であった宗昌は、辛うじて日向国への逃亡に成功した。
しかし寺に残った盛誉の弟子たちは徹底的に討たれ、盛誉自身は道場で読経していたところを背後から斬首された挙句、普門寺には火が放たれた。
盛誉が無残に殺されてしまったことで、宗昌と盛誉の実母である玖月善女(くげつぜんにょ)は、相良家を深く恨んだ。
愛しい息子を無実の罪で殺された母の恨みたるや、生半可なものではなかった。
伝令役の犬童九介は、自らの責任をとって切腹したものの、それで玖月善女の怨念が晴れることはなかった。
彼女はやがて、相良家への復讐の念を胸に秘め、球磨・米良の霊峰・市房山に籠もることとなる。
息子を殺した相良家に呪詛をかけた玖月善女
古くから霊山として崇められていた市房山には、玖月善女(くげつぜんにょ)が籠る以前からすでに、市房神社(市房山神宮)が鎮座していた。
盛誉が院主であった普門寺も、もともとは市房神社の別当寺だった。
玖月善女は、市房神社に愛猫の「玉垂(たまたれ)」を伴って籠もり、21日間にわたる断食を敢行した。
やがて自らの指を噛み切って流した血を神像に塗りつけ、さらにその血を玉垂にも舐めさせたうえで、自らと共に黒木千右衛門や相良家を祟るよう猫に言い含めたという。
そして最後は、玉垂を抱いたまま、湯山の茂間が淵(もまがふち)に身を投げ、命を絶ったと伝えられている。
それからまもなく玖月善女の怨念が実を結んだのか、相良家やその周辺で数々の異変が起こり始めた。
盛誉を殺害した黒木千右衛門は、毎晩のように猫の霊にうなされながら狂死したばかりか、相良家当主の忠房の夢にも「化け猫」が現れるようになったとされる。
また、詳細は不明だが、忠房の腹違いの長姉・虎満は、事件から半年後の1582年9月に17歳で死没している。
そして忠房も、満12歳の頃に疱瘡を患い、祈祷の甲斐なく急逝してしまった。
こうして兄・忠房の跡を継いだ頼房は、忠房の死から12年後の1597年、朝鮮出兵から帰国したのち、球磨郡の総社と定めた青井阿蘇神社に祠を建立し、呪詛を鎮めるために慈悲権現を祀った。
しかし、それでも相良家の不運は途絶えなかった。
頼房の弟・長誠は病に伏し、長い療養の末に1610年に死去。さらに、病弱だった三姉妹のうち三番目の千代菊も1615年に世を去り、今度は次姉・千満が原因不明の体調不良に悩まされるようになった。
そこで頼房は、1625年、かつて普門寺があった跡地に「千光山生善院」を建立し、阿弥陀如来と千手観音を祀った。
さらに、盛誉に「権大僧都法院」の号を贈り、その命日には当主自らが領民とともに同寺を参詣することを定めた。
このような頼房の苦心の策により、ようやく玖月善女と玉垂の呪いは鎮まったという。
時を経て怨念の地から聖地となった人吉・球磨地域
肥後人吉の大名・相良家を巡って起きたこの「化け猫騒動」は、頼房が供養を行った生善院や青井阿蘇神社のみならず、人吉周辺の数多くの寺社にもその痕跡を残している。
玖月善女が玉垂とともに籠った「市房山神宮」、玖月善女が玉垂と入水した茂間が淵近くに鎮座する「茂間ヶ嵜水神社(もまがさきすいじんじゃ)」、盛誉と玖月善女の板碑が祀られた「吉祥院」なども、相良の化け猫騒動と所縁のある寺社だ。
生善院がある水上村含む熊本の人吉・球磨地域はもともと名高い温泉郷であったが、人気アニメ『夏目友人帳』の聖地となり、さらに注目を集めている。
このアニメの登場人物に、猫の姿をしたキャラクターがいることも非常に興味深い。
飼い主の怨念の道連れとなった哀れな猫・玉垂は、今や人の願いを叶えてくれるありがたい猫として崇められ、愛されている。
人吉・球磨を訪れる機会があれば、生善院に立ち寄ってみてはいかがだろうか。
参考文献
八岩まどか (著) 『猫神様の散歩道』
千光山生善院公式HP
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部