「ANZEN漫才」解散後、39歳で「月収650円」になったあらぽんが挑戦する唯一無二の職業とは?
あらぽん、みやぞんの愛称で親しまれ、テレビ、YouTubeなど幅広く活躍していたお笑いコンビ「ANZEN漫才」。2024年3月に解散を発表し、15年間のコンビ活動に幕を閉じました。
その後、あらぽんさんはピン芸人としての活動を続けながら、ひょうたんアーティストとしての道を歩み始めました。8月に開催した初めての個展『ひょうたん新世界』ではほとんどの作品が完売するほどの盛況ぶり。そして現在は、海外進出も視野に入れながら、制作活動に励んでいます。
あらぽんさんはなぜひょうたんアーティストとしての活動をスタ—トさせたのでしょうか? その道のりには、周囲の支え、見知らぬおじいさんからの突然の手紙、数々の出会いなど、「ひょうたんがつないでくれた」不思議なご縁がありました。
ひょうたんとの出会いは「一発芸のネタになると思って」
——あらぽんさんは10年以上も前から自分でひょうたんを育てられていたそうですね。なぜ、育てようと思ったのですか?
元々は一発芸のネタにならないかなと考えていたんですよ。コンビとしてネタを披露できる場がほとんどなかった2012年ごろ、ぼくが一人でできる「一発芸」を探していたんです。そんな時、ふと劇場の近くで見つけたひょうたん屋さんのことを思い出しました。ひょうたんって形も面白いしキャッチーだし、「なんか良いんじゃない?」って。
それで、いざひょうたんを買おうと思って調べると、1つ6,000円もしたんですよね。貧乏生活を送っていたぼくにはあまりに高すぎる。そこで、100円の種を買って自分で育てることにしたんです。その日からぼくのひょうたん栽培生活が始まりました。
思いのほか育ちが良くて、最初の収穫で大きいひょうたんが8個も採れたんです。それがビギナーズラックだったということは後から知ったのですが、結構すごいことなんですよ。それで調子に乗って、どんどんひょうたんの栽培にはまっていきましたね。
——ひょうたんの育て方はどこで学んだのですか?
いや、まったく知識がない状態で育てていたんです。なので翌年以降は全滅。1つも収穫できない年が続きました。
それでもこりずに育て続けていたので、ある日、テレビの情報番組がぼくのひょうたん栽培の密着企画を組んでくれたんです。でも、やっぱり全部枯らせてしまって(笑)。そこで「ひょうたん師匠にあらぽんが学ぶ」という企画に変わり、ひょうたんを栽培しながらひょうたんライトを制作している方のもとで学ばせてもらうことになったんです。
——栽培だけでなく、ひょうたんライトの制作も学んだんですね。
そうですね。ただ、ひょうたんライトはいろいろな絵柄を描いたひょうたんに穴を開け、ライトにかぶせるという手順で制作していくのですが、全然うまく作れなくって。ぼくが1年半修行して作れたのは、比較的簡単な花火柄のライトだけ。ライトの制作には限界を感じてしまいました。
その後、コロナ禍でさまざまな活動が制限され、師匠がひょうたんライト制作を辞めることになったんです。一発芸のネタになりそうもないし、上達もしないし、ぼくとしても辞めどきを探していたので良いタイミングだなと思っていたんですが、そこで思わぬ出会いがありまして。
見知らぬおじいちゃんからひょうたんのすべてを教わった
——思わぬ出会いとは?
読売新聞の「お笑い芸人の在宅の過ごし方」という企画で、自分で育てたひょうたんのことを取り上げてもらったんです。掲載後、新聞を見たという79歳のおじいちゃんから「千葉県で45年間ひょうたん栽培をやっているものです。あなたのひょうたん、病気ですよ」って手紙が届いて。
——すごい内容の手紙ですね。
見知らぬ人からの連絡だし、嫌がらせかなんかだと思ってスルーしていたんですけど、後日、柄のついた和紙でひょうたんを彩る「和紙貼り」という手法で制作されたひょうたんの作品が送られてきたんです。それを見た時に、「絵が苦手なぼくでもできる!」と、すぐに心を掴まれました。それで、おじいちゃんに急いで電話したら、「一度うちにおいで」と。
——見知らぬ方からの手紙が届いて、あらぽんさんは会いに行ったんですか?
これは何かあるぞと直感がはたらいて、迷わず行きましたね。
おじいちゃんは、種植えや病気になった時の対処法といった育て方から、作品にするための加工方法など、ひょうたんにまつわるさまざまな知識を網羅している本当にすごい人で。おじいちゃん直伝の秘伝書を見せてもらっていたら、「土づくりから全部教えるから、1年間うちに通ってひょうたんのことを学びなさい。ひょうたんの種は誰かがつくり続けないと継承していけなくなるものだから」って言われたんです。
そう言われたら、もうやるしかないですよね。芸人としての仕事が減っていた時期ということもあり、それからは毎日のように通って土作り、収穫などの基本的なことから和紙貼りの加工方法まで教えてもらいました。まだまだ未熟ですが、2年ほどかけて一通りの技術について学ぶことができました。
——なぜおじいちゃんはあらぽんさんにそんなに親切に……?
「よくそれで10何年もやっていたね」と驚かれるほど、ぼくはひょうたんのことが全然分かっていなかったんです。そんな様子を見ておじいちゃんのひょうたん魂に火がついたんじゃないですかね。本当に熱心に教えていただきました。
月給650円を乗り越え開催した個展は大盛況。ひょうたんアートで海外を目指す
——ひょうたんに夢中になっている最中、2024年3月にコンビ解散を発表。その後すぐにひょうたんアーティストとして活動をスタートさせたそうですね。
コンビ結成中も個人で活動することが少しずつ増えてきていて、数年前から解散の話は出ていたんですよ。なので、心の準備はできていましたね。
とはいえ、コンビ解散の話が出てからは、ピンでやっていけるのかなと、不安は絶えなかったですよ。漫才をやりたくてお笑い芸人になったので、ピン芸人としてネタをやっている自分の姿がまったく想像できなくて、「これからどうしていこう?」と悩んでいました。
——すぐにひょうたんアーティストになろうと思わなかったのですか?
当時はひょうたんが仕事になるなんて思えなかったですから。何かしら行動しなきゃと思って、グルメをテーマにTikTokを始めたりもしたんですけど、しっくりこなくて。解散を目前にして、そろそろ方向性を決めなきゃって時に思ったんです。「ひょうたんしかないな」って。
それで、解散した当日の夜に作品を創りはじめました。とはいえ、「アート」と呼べるほどのものとは程遠かったですね。2人の師匠から習ったひょうたんライトと和紙貼りひょうたん作りに用いる手法で加工しているだけで、オリジナリティもなかったですし。
——ひょうたんを軸とした活動に見通しは立っていたのでしょうか?
仕事になる見通しなんて全然ないし、怖かったですよ。そんな状況で、どうしたら良い作品になるのかと試行錯誤する日が続きました。実際、芸人としてもひょうたんアーティストとしても仕事がなくて、月収650円なんて時もありましたし(笑)。一番稼いでいた時期の100,00分の1ですよ。3歳になる娘を寝かしつけた後、これからどうなるんだろう?って考えていました。
——周囲の方々はどのような反応でしたか?
ありがたいことに、応援して、後押ししてくれました。実は、おじいちゃんの元で修行をしてから、人にプレゼントするために和紙貼りひょうたんを創ったりしていたんですよ。そのことを知っていた元放送作家の鈴木おさむさん、事務所の先輩であるビビる大木さん、お世話になっている先輩芸人のナイツさん、フリーのピン芸人として活躍している後輩のひょうろく、事務所の社長などが「本気でやったほうが良いよ」と、解散前から応援してくれていたんです。奥さんも「自分が自信持ってちゃんとやれば良いんだよ」と言ってくれて。めちゃくちゃ頼もしいですよね。
特におさむさんはめちゃくちゃ応援してくれて。僕の創った和紙貼りひょうたんを「アート作品」と認めてくれたのもおさむさんが初めてでしたね。
ある日、ぼくが創った和紙貼りひょうたんを持って行ったら、めちゃくちゃ感動してくれたんです。お世話になっているお礼にとプレゼントするつもりだったのですが、「これはちゃんと商売にしたほうが良いよ」って言ってくれて。自分の作品の価値なんて考えたこともなかったので、おさむさんがそう言ってくれたのが本当にうれしかったんです。記念に、ぼくのひょうたんの値段をつけてもらいました。
その後、おさむさんが放送作家を引退されることになって、「関係者の方々にあらぽんのひょうたんあげたいから創ってくれない?」とお仕事として依頼してくれたんです。数十個という膨大な量に圧倒されて一度断ってしまったんですけど、これはぼくへの挑戦状だと思ってやっぱり引き受けることにしたんです。制作のための道具も新たに買い揃えて、新しい加工にもチャレンジして、1つずつこだわって制作しました。完成して納品した時におさむさんがすごく喜んでくれて、自信になりましたね。胸を張って「作品」と言えるものが創れたのはその時が初めてでした。
——周りの方々の後押しがあらぽんさんをひょうたんアーティストにしたのですね。
ひょうたんって縁起物なんですよ。だから、ひょうたんに本気で向き合っていれば、勝手に良いことが起きると信じているんです(笑)。実際、芸人に加えて「ひょうたんアーティスト」と名乗りはじめてからは新しい出会いやチャンスがどんどん生まれきています。
——新しい出会いとは?
コンビ解散後すぐに、「ひょうたんの町」として知られる神奈川県大井町のひょうたんアドバイザーに就任のお話をいただきました。上大井駅前や中学校の花壇にひょうたんを植えたり、ワークショップやお祭りでひょうたん栽培の出張授業をしたり。数珠繋ぎで活動が広がっていっていますね。
——はじめての個展を開催し、周りの反響はどうでしたか?
人生が変わりましたね。作品は用意していた絵画作品がすべて完売。ありがたいことにひょうたんボトルなどの小さな作品もほとんどが売れていきました。ぼくの作品を購入してくださる方がいるんだと、うれしかったですね。
今回展示した絵画は、ぼくが種から育てたひょうたんをたてに真っ二つに切って、ポーリングと呼ばれる技法で描くものなのですが、その技法でひょうたんの作品を創っている人って世界に1人もいないんです。自分で育てた世界に1個のひょうたんに、唯一無二の技法が作品のオリジナリティになりました。
——ひょうたん作りを一から教えてくれたというおじいちゃんはどんな反応でしたか?
作品を見てもらいたかったのですが「何も手を加えないひょうたんが好き」って2人でよく話していたにも関わらず、ぼくがぶった切って作品にしてしまったので、実はまだ見せられていないんです(笑)。
——隠そうにも、自然と耳に入ってしまいそうな活躍ぶりですね。
本当に、ありがたいことですよね。実は、来年の4月もまた同じ場所で個展を開催することが決まり、信じられないくらいとんとん拍子で進んでいるんですよ。
困った時に、いつもひょうたんに助けられてきた人生でしたが、それどころかぼくをとんでもないところまで連れていってくれるんじゃないかとワクワクしています。まあ、結局ひょうたんを使った一発芸は生まれないままでしたけど(笑)
——最後に今後の目標をお伺いしたいです。
近いうちに海外で個展を開きたいと思っています。「ひょうたんで海外に行きたい!」とずっと言っていたんです。そうしたら、つい最近「カナダで展示をやりませんか_」と声をかけてくれる人が現れて。
まだどうなるか分からないですが、下見がてら近々1人でカナダに行こうと思っています。失敗しても良いからまずは行ってみる。そこでも、ひょうたんがいろいろなものや人をつなげてくれると信じています。
(文・高橋直貴 写真・鈴木渉)