なぜゴッホは死後に高く評価されたのか? 2人のゴッホを支えた女性の功績
フィンセント・ファン・ゴッホの義妹で、弟テオの妻ヨー。兄弟が相次いで亡くなった後、膨大なゴッホ作品を受け継いだヨーは、専門的知識も経験もないなか、作品の普及に生涯を捧げました。彼女によって、ゴッホは死後に「同世代でもっとも優れた芸術家の一人」という評価を得られたのです。
類いまれなる女性の人生と知られざる家族の物語を描いた『ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性』(ハンス・ライテン/川副智子訳、NHK出版)より一部を特別公開!
*本記事は、本書から一部抜粋・再構成したものです。
画家ゴッホのために
「テオが婚約して、近々アムステルダムで結婚すると知っていたかい?」。1889年1月、フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ北東部ウィンスホーテンに住む画家仲間のアルノルト・コーニングに手紙を書き、最近の弟がいつもの弟らしくない理由はそこにあったのだとほのめかした。「テオに送られた(とわたしは信じている)きみのスケッチをじつはまだ1枚も見ていないんだ。わたしのほうからスケッチを交換しようときみをせき立てたのに。これはテオの頭がほかのことでいっぱいだからなのか? それとも、弟とのあいだに埋めがたい距離ができてしまったのか?」
フィンセントがヨーに会うのはもっとあとのことだが、テオはすでに1888年12月末、アルルの病院にいるフィンセントを訪ねたときにヨーの話をたっぷりしていた。兄弟は北ブラバント州で暮らした子供のころによくしたように、ベッドに並んで寝転がって話をした。テオがそのことを母に報告すると、すぐに愛情のこもった返事が来た。「ズンデルトのころを思い出すと胸が熱くなります。ふたりでひとつの枕に頭を並べて寝ていましたね」
その数日後、テオはヨーにもフィンセントの状態を知らせた。それが兄の運命にヨーを巻きこんだ最初の手紙だった。心が励まされる内容ではない。兄は、テオがヨーと結婚することに大賛成したが、現実問題として正常な精神状態にない兄がふたりの結婚に関わることはありえなかった。
兄は去年、きみと結婚できるように努力しろとしきりに言っていたから、もっとちがう状況でいまのぼくたちがどうなっているかを知っていれば、諸手を挙げて賛成してくれただろう。
兄がぼくにとってどれほど大きな存在か、そして、なんであれぼくのなかに善があるなら、それを育ててくれたのは兄だということは、きみも知っているだろう。ぼくたちが一緒に暮らしはじめたとしても、やっぱりぼくは、兄がそばにいようと遠くにいようといままでと同じように、言葉どおりの意味でぼくたちのどちらにとっても助言者であり兄でいてくれることを望んだだろう。いまはその望みが消えてしまったから、ぼくたちはその点ではまえより哀れなふたりになっている。
深い悲しみのなかにあっても、テオは、フィンセントが後世の人々から精神を病んだ人間だと思われてはならないという使命感に駆られていた。彼はヨーも同じ気持ちだろうと思った。
ぼくたちは兄の思い出を大事にしようじゃないか。というのも、いまでさえ実家から届く手紙に書かれている言葉はどれもこれも、ウィル[テオの妹]の言うことはべつとしても、みんなが兄のことをずっと正気じゃないと確信していたということをほとんど隠せていないように感じるんだ。
これは告白だが、まるで従わざるをえない勧告のようにも読める。連盟して世界を敵にまわしてでも協定を結ぶことをヨーに呼びかけていて、この場合、世界とは彼自身の家族を意味する。
フィンセントの思い出は大切に守られなければならない。それこそが重要で不可欠なこと。テオはそう思っていたが、ヨーにしてみれば、とてつもなく遠大な結果に通じる宣言だった。彼女の運命は永遠に決まったのだ。息子フィンセントの幸せは、いつもほかのなによりもまえに彼女とともにあった(「わたしの目標はただひとつ。できるかぎりあの子に健康で満足のいく生活をさせること」)。そしてテオが死ぬとその瞬間から、義兄であるフィンセントの遺産の管理という第二の目標に向きあうこととなった。
ふたりのフィンセント
ヨーとテオの息子フィンセント・ウィレムは1890年1月31日に生まれた。電報が続々と届いた。だれもが喜んでいた。出産がすんで胸を撫でおろしたテオは、赤ん坊の頭が年配のコンシェルジュみたいだと冗談を言った。
ポール・ゴーギャンがふらりと訪ねてきたことがあったが、ヨーは赤ん坊を静かにさせておくために絶えず抱っこし、フィンセントのお気に入りのわらべ歌『ケルンとパリのあいだで』を歌いながら家のなかを歩いていなくてはならなかったから、ゴーギャンと話をしたくてもできなかっただろう。
オランダに戻ったウィレミーン(ウィル)は赤ん坊のことを尋ねるまえに、もうひとりのフィンセントの様子を訊いてきた。ファン・ゴッホ夫人はテオとヨーに宛てた手紙の最後に「かわいそうなあの子」に触れていた。これに気づいたウィレミーンは母の手紙を補強するようにそのことを訊いたのだ。フィンセント・ファン・ゴッホの37歳の誕生日、3月30日が近づいていた。
独立芸術家協会の6回めの展覧会は1890年3月20日から4月27日まで、シャンゼリゼ通りのパヴィリオン・パリで開催され、ファン・ゴッホの油彩画も10点展示されていた。ヨーの言う「下草」は、《療養院の庭のツタが絡まる木》(F609/JH1693)にそれとなく触れた言葉だ。当時のヨーは知るよしもなかったが、フィンセントは《花咲くアーモンドの木の枝》(F671/JH1891)も完成させていた。
甥の誕生の知らせを受けてから描きはじめたその絵は、甥のための特別な作品だった。《花咲くアーモンドの木の枝》は5月初旬に届き、すぐさま目立つ場所に飾られた。フィンセントが予想していた夫婦の寝室ではなく、居間に置かれたピアノの上方のだれもが見られる場所に。のちにヨーはブッスムでその絵を息子フィンセントとの共用の寝室に掛けた。
最初の結婚記念日には、兄アンドリースに買っておいてもらった指輪をサプライズ・プレゼントとしてテオに贈った。エッグノッグをつくり、テオと一緒にビールを飲んだ。夫婦の結婚1周年を祝う言葉は多方面から届いたが、パリで生まれたフィンセントについての愛情深い気づかいが、サン=レミにいるフィンセントに対する心配へと向かうのは自然な成りゆきだった。
この数か月、赤ん坊と同じ名前の画家の健康を案ずる気持ちが人々の心から遠のくことはなかった。そして彼の死後には多くの人が、クックッと笑う赤ん坊の存在が痛ましい喪失を埋めあわせる力になるだろうと手紙に書いた。
パリ発の偉大な作品群
1891年2月3日、まだアムステルダムのウェーテリングスハンス通りにある両親の家に滞在しているとき、ヨーは画家のエミール・ベルナールに手紙を出した。ファン・ゴッホの作品展を開きたいという彼の申し出はありがたかったが、その時点では残念ながら開催費用にあてる資金がなかった。むろん、ベルナールに目処がつくなら企画の許可を与えるつもりでいたし、「かわいそうな夫の計画」を実現させたいという彼の熱意にはあらかじめ感謝を伝えた。シテ・ピガール8番地のアパルトマンの家賃は7月1日まで支払い済みだったので、ヨーはそこを会場にしてはどうかと提案した。家具を運びだせば3部屋使えそうで、とくに寝室はゆったりしていて、光の射しこみ具合もいい感じだった。
さっそくベルナールは動き、準備に向けて画家オディロン・ルドンと作家ジョリス= カルル・ユイスマンスにも声をかけたい意向をヨーへの返信にしたためた。
ヨーのもとには各方面から作品貸し出しの依頼がにわかに届きはじめ、波のように押し寄せてくることもあった。ヨーは自身の計画にも着手した。1891年2月7日から3月8日まで、ブリュッセルの近代美術館で二十人会が第8回「年次展」を開催していた。パリの独立芸術家協会と同じく、新しい美術のプロモーションが二十人会の目標であり、年次展の開催は目標達成のためのひとつの方法だった。二十人会は週刊の評論誌「現代美術 美術と文学の批評」の発行もしていた。
ブリュッセルの実業家で美術評論家のオクターヴ・モースから、売るつもりのある素描の価格を尋ねられていたので、ヨーは返信で100フランから400フランの価格リストを送った。2点購入で値引きする意向も伝えた。その手紙の便箋には幅広い黒の縁取りがあった。当時の喪中の慣習で、ヨーはかなり長い期間、喪服も着つづけた。
年次展の最後には入札のあった素描1点を200フランで売ることに同意すると、ヨーは売却金で、残っている素描の台紙をつくってほしいとモースに頼んだ。さらに、年次展の批評の送付も依頼した。その後の長い年月においても、展覧会の主催者にかならず要求している。ヨーはファン・ゴッホ作品に対する反響をつねに把握しておくために、あらゆる批評、記事、目録を集めた。
生きる目的がなにかは痛いほど自覚していた。まずは善き母親であることだが、それと並んでもうひとつ、ファン・ゴッホの遺産について無数の決断をする任務があった。作品の貸し出し、寄贈、価格の提示、売却、あるいは意図的に手元に残すといったことを絶え間なく繰り返さなければならなかった。
ハンス・ライテン Hans Luijten
ファン・ゴッホ美術館上席研究員。2019年に刊行した本書のほか、著書にVan Gogh and Love (2007)、共編著にVincent van Gogh, Painted with Words (2007)、Vincent van Gogh-The Letters (2009)がある。2019年にヨー・ボンゲルの未発表の日記のバイリンガル版も制作した(以下でデジタル版を入手できる。bongerdiaries.org)。