『江戸時代のワクチン戦士』日本の医学を変えた日野鼎哉とは
江戸時代、日本の医学界は大きな転換期を迎えていました。
長らく漢方医学が主流だった日本に、西洋医学という新しい波が押し寄せていたのです。
しかし、それを受け入れるかどうかは、当時の医師たちにとって一大決心を要する問題でした。
そんな中、「これは使える!」とばかりにオランダ医学を学び、日本に持ち帰った医師がいました。
彼の名は、日野鼎哉(ひの ていさい)。
長崎でシーボルトに師事し、西洋医学を学んだ彼は、当時流行していた天然痘の治療のために「牛痘種痘法」の普及に尽力したのです。
「牛の病気を人間に? そんなバカな!」と驚く人々を説得し、牛痘種痘(現在のワクチンにあたる予防接種)の普及に奔走した彼の人生を、わかりやすくご紹介します。
豊後国に生まれた秀才、医学の道へ
日野鼎哉は、寛政9年(1797年)、現在の大分県(当時の豊後国)に生まれました。
幼い頃から聡明だった彼は、地元の儒学者で医師の帆足万里(ほあし ばんり)から儒学を学びます。
帆足は、儒学だけでなく西洋の学問にも興味を持っていた人物でした。
「これからは西洋医学の時代だ」と考えた日野は、さらなる研鑽を求めて長崎へと向かいました。
長崎でシーボルトの弟子となる
1824年、日野は長崎に渡り、オランダ人医師のシーボルトのもとで、本格的に西洋医学を学びました。
シーボルトといえば、日本で本格的な西洋医学教育を確立した人物の一人です。
彼が長崎に開いた『鳴滝塾』には、全国から若い医師たちが集まり、オランダ医学を学びました。日野もその門下生の一人となり、診断学や薬学、治療法などを学び、腕を磨いていきます。
そして「西洋医学を日本に広めたい!」そんな思いを胸に、日野は京都へ向かいました。
天然痘との闘い
江戸時代、日本では天然痘(疱瘡)が流行し、多くの人々が命を落としていました。
特に子どもたちにとっては致命的な病気であり、一度発症すると重篤化しやすく、生き延びても顔に痘痕(あばた)が残ることが多かったのです。
そんな状況を変えたのが、牛痘種痘法でした。
ヨーロッパではすでにこの方法が確立されており、牛痘ウイルスを人間に接種することで天然痘を予防できることが知られていました。
モーニッケ苗との運命的な出会い
1849年、長崎のオランダ商館にいた医師オットー・モーニッケが、日本における牛痘種痘の本格的な導入に成功しました。
これにより、日本にも本格的な種痘法が導入されることになります。
この貴重な痘苗(モーニッケ苗)をいち早く入手したのが、日野鼎哉でした。
「これは日本の未来を変える!」と確信した彼は、自らの親族や親しい人々の子どもたちに種痘を実施し、植え継ぎを行うことで痘苗を絶やさないよう努めました。
しかし、「牛の病気を人間に? そんなことして大丈夫なのか?」と、当然ながら人々の間には不安の声が広がります。
ここから、日野の地道な説得活動が始まりました。
種痘の普及活動に奔走
日野は、牛痘種痘を普及させるために京都の新町に「除痘館」を設立します。
ここでは無料で種痘を実施し、天然痘の予防に努めました。
しかし、前述したように種痘に対する不安は根強く、拒否する人も多くいました。
そこで日野は、「これを受ければ天然痘にならずに済む」と丁寧に説明し、少しずつ人々の理解を得ていったのです。
笠原良策と緒方洪庵へ、バトンをつなぐ
こうして、日野鼎哉の植え継いだ痘苗は、弟子たちによって全国へと広がっていきました。
弟子の一人である笠原良策(かさはら りょうさく)は、越前(現在の福井県)に痘苗を分苗しました。
一方、緒方洪庵(おがた こうあん)もまた、大坂に痘苗を分苗し、牛痘種痘法の普及に努めます。
この二人の活躍により、牛痘種痘は全国へと広まり、日本中で天然痘の予防が進んだのです。
日野鼎哉の晩年とその功績
日野鼎哉は、嘉永3年(1850年)に亡くなりました。53歳という若さでしたが、その功績は後世に受け継がれました。
大正4年(1915年)には、彼の功績が認められ、正五位が追賞されます。
さらに、彼は『白神除痘弁』という著書を残し、この本は当時の医学界に大きな影響を与えることとなります。
彼の取り組みは、種痘の普及だけでなく、公衆衛生の概念を広める契機にもなりました。
日野は確かな医学知識と実践によって社会の意識を変えたのです。
今日のワクチン医療の礎を築いた功績は、今なお評価されています。
参考 :
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』
文 / 草の実堂編集部