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《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 12 竹本千歳太夫(文楽太夫)

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竹本千歳太夫(文楽太夫)

全身から絞り出すかのような熱い語り。と同時に緩急にも富んでいる。2022年には太夫の最高位である「切語り」に。東京は深川に生まれ育って大阪の芸能の担い手になり、私生活ではドイツの作曲家ワーグナーを愛する“ワグネリアン”でもある千歳太夫(66)に訊く、文楽のこと、芸のこと。

深川の魚屋の一人息子、文楽に魅せられる

生まれも育ちも下町情緒漂う深川。芸者や新内流しが身近な環境だった。当時は魚屋で今は食事処としても繁盛している、門前仲町の「富水」の一人息子だった千歳太夫さんだが、ご本人いわく「鱗と生臭いのが嫌い」。子供の頃から芝居好きの伯母に連れられ、しょっちゅう劇場へ足を運んでいた。

「当時、伯母が好きだった長谷川一夫さんが出演する東宝歌舞伎や明治座でのお芝居、歌舞伎にも行きました。土曜日は午前中で授業が終わるから、午後はテレビの劇場中継で歌舞伎や文楽、寄席などを見て。それで文楽を生で観てみたくなって、国立劇場に行ったんです。最初に観たのは『競伊勢物語(はでくらべいせものがたり)』。当時(九世竹本)文字太夫だった(七世竹本)住太夫師匠が語られて、今の(豊澤)富助さんのお師匠さんの(二世野澤)勝太郎師匠がお弾きになっていたと思います。その後に(四世竹本)津太夫師匠と先代(六世鶴澤)寛治師匠の『沼津』があり、最後が『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』でした。それでハマってしまって」

太夫に憧れ、素人として女流義太夫の師匠に1〜2年習ったあと、19歳だった1978年、名人の誉れ高い四世竹本越路太夫に弟子入り。現在、女流義太夫の人間国宝である竹本駒之助の紹介だった。駒之助はその才能ゆえに、女性でありながら文楽の師匠方に見込まれ越路太夫の弟子となった人物。千歳太夫さんはその駒之助の弟弟子として、越路太夫の最後の弟子となったのだ。

「当時、越路師匠は65歳ですから、弟子を取るかどうか逡巡していらっしゃいました。僕も今、66歳ですからよくわかります。今、預かっているお弟子さん(預かり弟子 ※)と、自分で取った弟子として一人、(竹本)碩太夫(ひろたゆう)がいますが、他の方はわからないけれども僕の場合は、もう弟子は取れません。この年でも波がありながらどうにか語っているけれど、70になったら波がさらに大きくなることでしょう。師匠もそうだったと思います。結果的に77歳まで舞台をなさって引退され、そこからさらに10年ほどお稽古していただきましたけれども」

翌1979年、師匠が義太夫年表からみつけてくれた「千歳太夫」の名で、朝日座で初舞台。

「よく覚えています。『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』の最後の『道行霜夜の千日』という、三勝と半七の道行でした。千日前の刑場で心中するので、舞台にはさらし首が並んでいる。僕は“豆食い”と言って床の一番端で、舞台に食い込んでいましたから、生首の置物が眼の前にありましたよ(笑)」

※預かり弟子 師匠が逝去するなどして、別の師匠の門下に入ること。

1981年9月、国立劇場で出演した『五天竺』地獄の段より。左から2番目が千歳太夫。 提供:国立劇場

≫名人、越路太夫師匠のもとで修業


名人、越路太夫師匠のもとで修業

越路師匠の弟子となった千歳太夫さんは「スープの冷めない距離」に住んで師匠の家へ通い、修業生活をスタートさせた。

「やっぱり厳しかったですよね。よく怒られました。自分が悪いんですけど。朝、『夜ご飯があるから食べにおいで』と言われると緊張して。ただ、得な性格で、怒られても一晩寝ると忘れましたし、楽屋で叱られても師匠の舞台を聴けばいつの間にか口ずさんで楽しくなっている。師匠もそうだったと思います。やっぱり舞台は辛いから出番の前には機嫌が悪いこともありましたが、終わると直っているんです。65歳と19歳、孫みたいなものですから、優しい時ももちろんありました。継ぎの当たったズボンを履いていたら褒められましたね。新しい服を買っても、どうしてもお気に入りのほうを着るから擦り切れてしまうんですよ。継ぎを当てたのは母親なんですけど(笑)。あとは、鯛のあら炊きを、決してお行儀良くはないですがせせって全部食べたら、『賢治(千歳太夫の本名)は食べるのがうまい』。芸の上で褒められたことはありません。ただ、賞をいただいたことを報告した時には、極端に喜びませんけれどもどこか嬉しそうに『そうか』とおっしゃって。本当は事前にご存知だったに決まっているのにね」

そんな師匠を、「義太夫節が歩いているようだった」と振り返る。

「もともと裕福なお家の一人息子さんだった師匠は終戦後、かなり苦労なさったようです。けれども僕がお弟子になった頃は、奥様が浄瑠璃だけを考えられる環境を作っていらしたこともあり、舞台が安定していて、一番幸せな時だったのではないでしょうか。義太夫節には、これはこれだけこのように言わなければいけない、といった規則がきっちりとあるものの、全て遵守するのはかなり難しいのですが、師匠は一切揺るがせにしないよう努められていましたね。実際、師匠の古いテープを聴いても、三味線がこうあって、語りがこういう風になって、こういう仕組みでこのように構成されている、というのが実に明確です。やはりきちっとやらないときちっと伝わらない。僕も、たとえやれなくてもやる姿勢は見せないと、弟子が聴いていますからね。弟子は鏡。今も碩太夫が僕の悪い癖を写しているのを見ると反省します」

無駄を削ぎ落として語っていた越路太夫の芸も、普段の姿も、クールな印象を与えがちだったが、実はそうではないと千歳太夫さんは言う。

「殊更そうしていらしたように思います。同世代に竹本津太夫師匠という、まさに熱い語りの方がいらしたので。でも今になってお二方の録音を聴かせていただくと、えらい思いをしているのは一緒ですよね」

越路太夫は1989年に引退。まだまだ語れる、と惜しむ声は多かった。

「1年前には決まっていたんですよ。4月に『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』十種香(じゅしゅこう)の段をやっていらして、語れないと思われたようで、辞めるとお決めになって。僕がそれを知ったのは11月でしたが、十種香が終わった時点で、なんとなくわかっていました。十種香は高いところが多くて、腹力が要る。やはりどこかしんどそうでしたから。引退後はたくさんたくさん稽古していただき、勉強会にあたっては『あれやったか、これやったか』と聞かれ、『みんなやったか』と呆れられるほど。有難かったですね」

入門したての頃、越路太夫師匠と。 提供:竹本千歳太夫

≫兄弟子・嶋太夫の弟子になって


兄弟子・嶋太夫の弟子になって

2002年に越路太夫は逝去。2005年に千歳太夫さんは八世豊竹嶋太夫の門下となる。越路太夫の弟子だった嶋太夫は27歳上の兄弟子にあたる。

「越路師匠の弟子だった頃、『下稽古を嶋太夫にやってもらえ』と言われてよく見てもらっていたんです。嶋師匠は、越路師匠がどう教えたかがわかり、それをできるように別のアプローチで教えてくれることもあれば、敷衍して更に教えてくれることもあって。頭の良い方でした。他の人への指導を見ていても、まずは少し難しいことを言ってそこまで来られるかどうか試してみて、できなかったら次は言い方を変え、別のところを直す。僕らは役がついたら、完璧にはできなくても舞台をやらなければならないわけですが、それができるような“拵え”をとても細かく教えていただきました」

嶋太夫の口癖は、その指導を象徴するものだった。

「一升枡に三升入れても米がこぼれるだけ。今の枡の中にすりきり一杯入るものを教えて、この枡が大きくなるのを待つ、と。稽古する方は、その技術のご縁ができるのを待つわけです。これは根気の要ることで、僕が自分は70を過ぎたら弟子が取れないと言ったのもここなんです」

ミュンヘン公演にて、嶋太夫師匠(前列左)と。後列中央が千歳太夫。 提供:竹本千歳太夫



≫決まりの多い「葛の葉」、丁寧に


決まりの多い「葛の葉」、丁寧に

5月の東京公演では、『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』葛の葉子別れの段を語る。陰陽師の安倍保名は陰陽道の秘伝書「金烏玉兎集」の継承を巡る争いに巻き込まれ、自らのために恋人の榊の前が死んだことから、一時は狂気に陥るが、榊の前の妹である葛の葉と結ばれて正気を取り戻し、一子を儲けて平和に暮らしていた。そこへ訪ねてきたのは、なんと葛の葉の両親と葛の葉本人。家の中にも葛の葉、外の葛の葉という状況に混乱する保名。実は葛の葉と思って暮らしていたのは保名から助けられた狐であり、恩返しのため、死のうとする保名を助けるために葛の葉に化けていたのだった。狐の葛の葉は「恋しくば 尋ね来てみよ和泉なる 信田の森のうらみ葛の葉(会いたくなったら和泉国信田太の森に訪ねてきてほしい、の意味)と障子に書き、幼い子を残して去るーー。この幼い子がのちに有名な陰陽師・安倍晴明になるという奇想天外な設定だが、子を思う母を描いた普遍的な物語でもある。

「勉強会で語っていますし、人形遣いの(吉田)文雀師匠がお好きだったので呼んでくださって何遍かやらせていただきました。本公演では今回が初めて。子別れは勿論ですが、その前も口伝がうるさく、僕が苦手な節が多いんですよ(笑)。何より保名が難しい。柔らかい色気が必要だけれど、武士ですからキリッとしたところもある。どうしても武骨になってしまうのですが、品格を出さなければいけません」

一方、狐である葛の葉の言葉には、4月公演『義経千本桜』で語っている川連法眼館の段に引き続き、狐を意識した「狐詞(きつねことば)」も少し登場。

「落語家さんは狸の噺は狸の了見で考えろと言うようですが、これは狐だから狐の了見で考えないといけない。武智鉄二(※)説によれば、人間が五臓六腑なのに対して、狐は五臓五腑だとか。普段は人間の言葉を喋らないから、人間には簡単にできる息継ぎも自然にできないのだろうなと思います」

かつて越路師匠から教わった演目。教えられた通りに語りたいと意気込む。

「この『葛の葉子別れ』と、『重の井子別れ』(『恋女房染分手綱』)、『楼門』(『国性爺合戦』)は、“大和風”という語り口の演目です。専門的な話になりますが、一般的なテンポの“常間”(じょうま)、心地よいテンポの“ノリ間”に対して、太夫の語りを三味線の演奏よりちょっとあとにズラす“スネ間”というものがあります。演歌の歌い手さんがよくやっていますが、伴奏に対して歌がちょっとあとにズレるとカッコいいでしょう? そうすることでノリ間が目立つのですが、それがこの『葛の葉子別れ』には効果的に使われています。例えば『それも一つの軒をば離れず、時々形を合はすといへばそれでもなし。正しくこれは変化の所為かまたは天狗の業なるべし』、この辺りはノッていくのですが、『我が娘に引き合はせ誠をもつて理を押さば、忽ち姿を顕すべし性根を忘ずる処でなし』、このように少しずつズラすところがある。それによって、ノッていくところが鮮やかに聞こえるんです。これを“大和地”と言います。さらにその先は“播磨”という節で、音程をにじらして派手な音色に持っていくんです。『保名心をつけられよ』『気をつけ給へ婿殿』……。このように、非常に決まりが多い曲なんですよ」

ぜひ、本番でしかと耳を傾けて味わいたい。相手となる三味線は、2007年頃からよく組んでいる4つ上の豊澤富助。

「太夫と三味線って面白くて、普段話していて合わないわけでも何でもなく、普通に物も言える間柄なのに、舞台に出ると何故かしっくりこない、という場合もあるんです。同じ曲をやっても感じ方が全然違って、それで面白くなる場合はいいけれど、違和感があるとうまくいかない。富助さんとは2人で慣れ親しんだ曲がたくさんありますが、今回僕は初めての本公演ということで、自分の作業で手一杯。あちらはすでに何公演か経験がありますから、心強いですね」

※武智鉄二(たけち てつじ 1912年12月10日-1988年7月26日)。大阪出身の演劇評論家、演出家、映画監督。上方の芸能に精通していた。

≫​切語りとして理想を追求


切語りとして理想を追求

2022年4月、太夫の最高位である切語りに昇格した千歳太夫さん。

「やっぱり責任は感じます。できっこないことはわかっているんですけど、こういうことをやりたいという姿勢だけは見せたいと思うんですよ。後輩にはそれだけを汲んでほしい。『本当はこれやりたかったけど、中途半端になってしまったから、あと、頼むね』と。つまりリレーです。理想の形があって、同じ理想を持って続いてほしいんです」

その理想を受け継ぐべき一人が、既に話に出ている弟子の碩太夫。小学校4年生から文楽研修生になる直前まで、地元・北海道の「さっぽろ人形浄瑠璃芝居あしり座」で太夫をしていた碩太夫は、文楽での初舞台から今年で8年。今、伸び盛りだ。

「彼の良いところは、浄瑠璃が好きそうなところ。彼だけではないけれど、後輩たちには“浄瑠璃に追いかけられる人”になってほしいです」

浄瑠璃に追いかけられる人、とはどういうことなのか?

「例えばドストエフスキーはずっと借金に追われていて、返済のために書いていたらしいです。それは天の思し召しで書かせたということなのでしょう。そのように、最初は浄瑠璃を追いかけて、やがては追いかけられる人になってくれたら。そうなろうと思ってなれるものではないし、なったところで本人にとっては地獄でしょうけれども、後に続く人々に何かを与えられるではあろうと思います。僕もそうなりたかったけれど、もうこの歳になったら追いかけるのが精一杯。出藍の誉れというふうになってもらいたいですね」

2025年2月、国立劇場文楽公演『妹背山婦女庭訓』芝六忠義の段より。 提供:国立劇場

≫「技芸員への3つの質問」


「技芸員への3つの質問」

【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード

師匠のお宅にあった梅酒の瓶をゴミだと思って、マンションの外の、ガスなどの配線があるところに置いちゃったんです。段ボールや何かをよくそこに入れて、収集の日に出していたんですよ。ゴミではなかったことがわかって、怒られて取り出しましたけれども。師匠に猿の腰掛けを麦茶と間違えて飲ませてしまったことも。それは師匠の奥さんのお父様である川口松太郎先生(※)のためのもので、食道がんを患われて以来、猿の腰掛けをお飲みになっていたらしいです。そうしたら師匠が『変な味がする』、師匠の奥さんが『あら、猿の腰掛けを出したんじゃないの?』。それは怒られませんでした。そういえば、師匠が心臓の薬を、ご自身もお持ちだったけれど『持っておいてくれ』と渡されたのですが、長い間使わなかったので、もういいだろうと思って捨ててしまったんです。そうしたら『あの薬は?』と言われて渡すことができず、『もういい』と怒られて。でも師匠がお持ちだったので大丈夫でした。

※川口松太郎(1899年10月1日-1985年6月9日) 小説家、劇作家。第一回直木賞受賞者。明治初期の人形浄瑠璃の世界を描いた『浪花女』や近松門左衛門の人形浄瑠璃作品『大経師昔暦』を下敷きにした『おさん茂兵衛』などの戯曲を執筆した。

【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること

朝日座には電気室や照明室のような、浄瑠璃を聴きながらぼうっとできる場所がありましたが、国立劇場にはなくて(笑)。でも、小劇場の音響は素晴らしかったですよ。場内がよく“締まって”。これは劇場の大きさとは関係がないんです。歌舞伎座はよく締まるとみんな言っていましたから。新しい劇場もそうであってほしいですね。

【その3】オフの過ごし方

芝居を見ますね。以前は好きなワーグナーを聴きに、聖地、バイロイト祝祭劇場に行っていました。ワーグナーに出会ったのは、文楽に入ってから。ビデオで見たのがきっかけです。オペラならイタリアだよ、という人もいますが、僕はダメ。イタリア・オペラではなくワーグナーを聴かなくては、(正攻法の)三段目を語ることはできませんぞ! なんてね(笑)。

取材・文=高橋彩子(舞台芸術ライター)

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