三浦命助 一揆指導者の素地、宗教者の顔… 東北学院大 兼平賢治教授が釜石で講演
江戸時代末期、嘉永の三閉伊一揆(1853年)の指導者の一人だった栗林村(現釜石市栗林町)の三浦命助(1820-1864)。本年4月、命助の関係資料が県指定文化財となったことを記念した講演会が14日、同市で開かれた。講師は同文化財指定に尽力した東北学院大学文学部の兼平賢治教授。一揆を率いた命助の知られざる実像に迫り、約100人が耳を傾けた。
県文化財に指定された「三浦命助関係資料」は、一揆後、命助が仙台藩領へ逃走していた時の日記、入牢中に記し家族に送った獄中記、平田番所通行時に着用していた装束など35点(文書31、版木2、装束2)。命助の本家筋にあたる三浦家が所蔵していたもので、命助の足跡や思想、近世後期から幕末期の盛岡藩と民衆の動向をひもとく上で貴重な資料群として、4月11日付けで指定された。記念講演会は釜石市教委が主催。会場となった釜石PITには同文化財リストとともに現物8点が特別展示された。
三浦命助は村の肝いりだった父のもとに生まれた。大飢饉(ききん)のため、17歳で秋田藩の院内銀山に出稼ぎ。帰村後は農業のほか、沿岸と内陸を行き来し、農海産物の荷駄商いをして生計を立てていた。18歳で結婚し、5人の子どもに恵まれている。
日本最大級とされる三閉伊一揆は、藩の追加課税に苦しむ民衆が1847(弘化4)年11月と、53(嘉永6)年6月の二度にわたり起こした。命助は34歳の時、1万6千人以上が参加した嘉永の一揆に加わり、仙台藩に越訴。45人の代表者の一人として交渉し、免税など要求のほとんどを認められた。一揆後、村に戻るも、村内の騒動で身の危険を感じ仙台藩領へ出奔。出家し寺の住職を務めた後、京都に上り、二条家の家来になった。57(安政4)年、帰村しようと藩境の平田番所を越えたところ、脱藩の罪で捕らえられ、盛岡の牢に入れられた。その後、6年8カ月も勾留され、45歳で牢死した。
講演で兼平教授は、命助が一揆の頭人(指導者)となる要素はどこにあったかに着目。院内銀山への出稼ぎ、広域の商売で幅広く識見を得ていたことに加え、幼いころからの観音信仰でさまざまな知識を蓄えていたことが影響していると明かした。熱心な信仰は、一揆後に命助が宗教者としての道を歩むことにもつながっていく。当初、「義乗」と名乗ったとされるが、三浦家に伝わる版木には「義参」の文字があり、「義参が正しいと考えられる」と兼平教授。出家後は「明英」と名乗っている。
出奔した仙台藩領では曹洞宗積雲寺(現宮城県加美町)に入り、後に天台宗箆峯寺西ノ坊(同涌谷町)の弟子に。さらに南小牛田村(同美里町)に居住し、当山派修験である東寿院の住持(住職)となった後、京都へ上る。兼平教授は、これまでに研究者が示してきた一揆の指導者や修験になり得た背景を紹介。命助が弁舌や筆のたつ人物だったことが伝えられた。
兼平教授は8月に実施した宮城県公文書館での調査、小牛田のフィールドワークの成果についても説明。同館所蔵の村絵図や命助が記した日記をもとに、関係寺社の場所や居住地域をおおむね特定したという。逃亡の身であった命助が京都に向かい、二条家の家来になった理由については、慶應義塾大文学部古文書室の「二条家文書」展示品解説を引用。二条家の家紋が入った提灯や御用絵符は、命助が帰村するための身の保証であったが、命助が二条家から「永御暇」となったことを知った盛岡藩は、プレッシャーをなくし捕縛に至ったと考えられるという。
同講演会は「かまいし歴史文化プロモーションを通じた関係人口創出事業」の一環として開催。来場者はこれまであまり知られていなかった三浦命助の素地や逃亡中の生活、宗教者としての顔に触れ、さらなる学びを得ていた。