零 戦 特攻隊員 見送る光景、今も
―終戦から今年で79年。太平洋戦争の惨劇を語り継ぐ人々は、年月を重ねるごとに貴重な存在となりつつある。
大学在学時に学徒出陣で軍隊に入隊した横川町在住・天野政男さん(101)と、八王子空襲を13歳で体験した明神町在住の村野圭市さん(92)。当時の記憶や戦争に対する思いを聞いた。
【【1】零戦】特攻隊員見送る光景、今も
天野政男さん(101)は1923(大正12)年に文京区で生まれた。太平洋戦争時の1943(昭和18)年、翌年春には早稲田大学を卒業するはずだったが、学徒出陣で茨城県土浦の海軍航空隊に入隊。そこで、さまざまな体験をした。
軍用機の専門工場・中島飛行機小泉製作所で、組み立てられた零戦の機能確認のテストパイロットとして搭乗した天野さん。厚木の航空基地に納品し、その足で特攻隊の待つ宮崎の飛行場へと機体を空輸する任務についた。
自分が運んだ零戦に乗り込む特攻隊員たちを見送った経験も持つ天野さん。機体の座席に立ち、「万歳」と叫んで出発するのが通例だったが、中には「東條のバカヤロー」や「お母さん、ありがとう。いつまでも達者で」と叫ぶ人もいたという。「帽ふれー!」の号令で一斉に帽子を振って送り出す光景が今も目に焼き付いている。
自身も、米軍戦闘機の襲撃を迎え撃つため、隊長について2番機として出撃。3番機は撃たれてしまい火を噴き墜落。九死に一生を得た。
またある日、零戦テスト飛行の離陸直後に上空30メートルでエンジンが停止してしまった。眼下に民家や小学校が広がる中、何とか神社の森に墜落したが意識不明の重体に。海軍病院に入院し、その間に終戦を迎えた。
玉音放送を聞いた天野さんは当時を振り返り「泣いたね」と一言。「戦争が終わったんだな」と思ったという。
天野さんは今でも「なぜ戦争したのか、しなければならなかったのか」と考える。10代だった当時の五・一五事件や二・二六事件を反芻し、「日本は貧しかった。食べ物がない貧しさは全ての戦争につながっていると思う。どこにでも貧しい話はある。そういう人を救わなければ平和にならない」と天野さん。
天野さんは今も、アフリカの子どもたちを想い、ユニセフに寄付を続けている。
【【2】八王子空襲】「母は大和田橋の下へ逃げた」
明神町在住の村野圭市さん(92)は、八王子空襲の体験者だ。
終戦の約2週間前、1945年8月2日未明の午前0時45分頃、米軍の爆撃機B29が八王子の街を襲った。落とされた焼夷弾は約6000発。重さにして約1600トンだ。約2時間にわたる空襲で、市の中心部約8割が焼け野原に。死者は450人余りにのぼった。
村野さんは当時13歳、夏休みに入ったばかりの夜だった。その日は空襲の噂を聞き、事前に明神町の自宅から一家5人で隣町まで逃げていたが、何事もなかったため自宅に戻り、安心して床に就いた時だった。
けたたましい轟音に驚き家族で家を飛び出した。焼夷弾が辺り一面に転がっており、背丈よりも高い火の粉が噴き上げていた。なんとか自宅近くの大和田橋まで走ったところで、母と1歳過ぎの弟とはぐれてしまった。自身は3歳の弟をおぶい、さらに走った。後でわかったことだが、幼子を抱いて遠くへは行けなかった母は、大和田橋の下へ逃げ込んでいた。村野さんによると、橋は狙われやすく近寄らない方がいいとされていたが、「(逃げる間もなく)しょうがなかったんだろうね」とつぶやく。
近くの桑畑に身を潜め、弟と夜を明かした村野さん。明け方、父や母、弟と会うことができ、一家は奇跡的に全員生き延びた。「運が良かった」。しかし安堵したのも束の間、「自宅に戻ったら、近所の家の2人が亡くなっていた。1人は頭が無かった。直撃したと聞いた」
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13歳の夏を襲った大空襲を振り返り、「戦争はいつの間にか始まっている。最初は、小さい小競り合いから」と昨今の情勢の危うさを訴える。
村野さんは10年ほど前から、八王子市に協力して語り部として空襲体験などを語り継いでいる。「やっぱり戦争が嫌いだからね」。最後の一言にすべてが詰まっていた。