江戸の人々はどんな俳諧を詠んだのか──「江戸俳諧の俗と雅」【NHK俳句】
大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」の舞台である江戸中期。庶民の間で流行した俳諧(はいかい)は、「俗」と「雅」が混じりあい、独自の変遷を遂げました。
今回は、『NHK俳句』テキスト2025年2月号の特集「江戸俳諧と田沼時代」より、俳諧研究者の高柳克弘(たかやなぎ・かつひろ)さんがつづる「江戸俳諧の俗と雅」を一部公開します。
すりこ木も紅葉しにけり蕃椒
すりこ木が紅葉しているとはどういうこと? 最後で種明かし。つぶした蕃椒(とうがらし)がついて赤くなった、というわけ。
宗因(そういん)
人を驚かせる大胆な見立てや、とんち的な発想……これらが、江戸初期の俳諧の特徴だ。談林俳諧の指導的立場にあった西山宗因の「すりこ木」の句は、まさに好例だろう。現代の入門書では「理屈っぽいのはいけませんよ」と、タブー視されている作り方だ。こうした言語遊戯的な作風を乗り越えて、芭蕉は、平明な中にも余韻余情のある作風を作り上げ、当時の俳壇に新風を送り込んだ。たとえば〈鶯や餅に糞する縁の先〉は、可憐な鶯があらぬ狼藉をしたという句意で、可笑しみを基調としつつ、品の良さを失わない。芭蕉がいなければ、現代につながる「文学としての俳句」は無かっただろう。
雨帯てうごかぬ梅のにほひかな
蔦重が版行した『吉原傾城新美人合自筆鏡』に掲載された遊女の句。雨に濡れても梅の花の美は変わらない。艶めきのある句。
なゝ里(ななさと)
大晦日定めなき世のさだめかな
井原西鶴は談林派の俳人だった。定めない世とは言いつつ、たった一つ定かなのは、大晦日に借金取がやってくること。
西鶴(さいかく)
葛水や気は寒暖の器もの
熱い葛湯を冷たくした「葛水」を、恋に浮かれたり醒めたりする恋愛上手(器もの)にたとえた。
蔦十(蔦重)(つたじゅう)
芭蕉の没後の俳壇は、難解な都市俳諧と平明な地方俳諧という、二つの大きな流れに分かれてゆく。今年の大河ドラマの主人公、蔦重こと蔦屋重三郎の周辺は、平明な地方俳諧を面白くないと軽んじて、技巧や作為を凝らした都会的な作風を好んだ。蔦重自身は俳句の実作にはさほど熱心ではなかったようで、作品としては谷素外編『古今句鑑』に〈若菜摘野の初ものや都人〉〈葛水や気は寒暖の器もの〉の二句が「蔦十」として見えるのみ(蔦重の俳号と思われる)。古歌や『徒然草』を下敷きにしつつ、言葉の技巧を駆使した「つう」好みの作風だ。蔦重の周囲にいた平賀源内、北尾重政、恋川春町、曲亭馬琴なども、俳諧を通して古典的知識や技巧を身につけた。句座は、人脈作りのために役立った。現代でいうところのゴルフと近い。また、蔦重の活動の拠点であった遊廓では、教養の一環として遊女が俳諧を学んでいた。
彼らが活躍したのは、文化の中心が明確に上方から江戸に移りつつある時代だった。伝統的な上方の「雅」に新興都市の江戸の「俗」が混合し、「俗」が「雅」を侵食してゆく。蔦重が喜多川歌麿とタッグを組んだ狂歌絵本『画本虫撰』(天明8・1788年刊)は、草花や虫が細かいところまで詳らかに描かれているが、こうした花鳥画に、俳諧の影響が指摘されている(今橋理子『江戸の花鳥画』)。まだ「雅」の文脈に取り込まれていない身辺の自然をよく観察することで「俗」として詠みこむのが俳諧精神であり、その点が浮世絵の現実性と通じているのだ。「俗」のエネルギーがこの時代の文化を支えた。
功ならず名ばかりとげて年暮ぬ
科学者、文学者、発明家として八面六臂の活躍をした源内。しかし句に込めたのは苦い自省だ。
源内(げんない)
田一枚植ゑて立ち去る柳かな
「おくのほそ道」をはじめとする旅文学を残した芭蕉。街道や宿駅の整備が進んだことも、名作の誕生には欠かせなかった。
芭蕉(ばしょう)
『NHK俳句』テキストでは、当時「連歌の腰折れ」と批判された松尾芭蕉の、その後の評価と影響について触れていきます。また、特集のもう一つのコラム「江戸の転換期 田沼時代」では、老中田沼意次に焦点をあてて、文芸や行楽が栄えた江戸の転換期に注目します。
著者
高柳克弘(たかやなぎ・かつひろ)
1980年生まれ。藤田湘子に師事。俳句結社「鷹」編集長。読売新聞朝刊「KODOMO俳句」選者。中日俳壇選者。早稲田大学講師。句集に『未踏』(田中裕明賞)、『涼しき無』(俳人協会新人賞)、著書に『別冊NHK俳句 脳活!まいにち俳句パズル』シリーズ、『NHK俳句 添削でつかむ!俳句の極意』など多数。
※高柳さんの「高」の字は、正しくは「はしごだか」です。
※記事公開時点の情報です。
◆『NHK俳句』2025年2月号「特集 江戸俳諧と田沼時代」より
◆トップ画像:北尾政演(山東京伝)画「吉原傾城新美人合自筆鏡」(東京国立博物館ColBase)