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自動ブレーキ:交通事故ゼロという夢を目指し続ける――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

NHK出版デジタルマガジン

自動ブレーキ:交通事故ゼロという夢を目指し続ける――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

 情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第二作『新プロジェクトX 挑戦者たち 2』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。

『新プロジェクトX 挑戦者たち 2』書影

<strong>夢は、交通事故ゼロ――自動ブレーキへの挑戦</strong>

1.  4人から始まったチーム

目指した「ぶつからない車」
 2004(平成16)年。日本の交通事故は、史上最多を記録していた。高齢者の判断ミスによる追突や、幼い命が犠牲になる痛ましい事故などが2分に1件のペースで起きていた。
 
 そんな中、「交通事故ゼロ」を夢見て、車の開発に挑む者たちがいた。上司に噛みつく生意気な開発者と、 「仏」と慕われた上司。彼らが目指したのは、「ぶつからない車」だった。
 
 そのために必要なのは、危険を察知すると車が自動で止まるシステムだ。搭載した車の事故率を半減させた画期的な技術である。自動車メーカーの富士重工業(現・SUBARU)が開発を手掛け、のちに「アイサイト」と名付けられることになる同システムは、2024(令和6)年現在の日本において、交通事故の減少に大きく寄与している。

 しかし、そんな社会を一変させるほどのインパクトを持つ新たな技術は、一朝一夕に生み出せるものではない。完成までには、越えなければならないいくつもの障壁があった。技術的課題の数々、大幅な予算の削減、チーム解体の危機……そんな向かい風の只中にあっても、彼らは「安全」への思いを諦めなかった。

 これは、交通事故を減らすという困難な目標を実現した開発者たちの、挑戦と成長の物語である。

「人間の目」のようなカメラ
 1990年代。若者を中心に、経験の浅いドライバーが急増し、夜中に無謀な運転を繰り返していた。その様子は、時に「走る凶器をおもちゃにしている」「刃物を振り回しているのと同じ」などと言われた。当時、日本の交通事故による死者数は、年間1万人以上にのぼった。その悲惨な状況は、「第2次交通戦争」と呼ぶにふさわしいものだった。

 国土交通省は、自動車メーカーに対して「安全な車」の開発を要請した。これは「ASV推進計画」と呼ばれた。ASV(Advanced Safety Vehicle)とは、先進技術を利用してドライバーの安全運転を支援するシステムを搭載した自動車のことだ。各社はエアバッグをはじめ、事故の衝撃を軽減する技術を搭載するなどして、その対応を急いだ。

 同時期に始まっていたのが、警報音を鳴らして、居眠り運転などを減らす研究だった。小さな自動車メーカーでも開発が始まった。現在「SUBARU」の名で知られる富士重工業である。当時、同社の国内総生産台数は業界最下位だった。

 新たなシステムをつくり上げようというにもかかわらず、開発のために集められたメンバーは、わずか4人。そこには、仕方のない背景があった。当時、世の中で一般的だったのは、エアバッグをはじめ、メカ的な対応で被害を低減させる方向性だった。事前に危険を検知して対応しようという発想はまだまだマイナーなものであり、富士重工業内でも、なかなか理解してもらえない技術だったという。
 
 そんな傍流的な開発に携わった者の一人に、十川能之がいた。人の真似事が嫌いな、生粋の技術者だった。彼は、ライバル他社と同じやり方をしていては、それらを凌駕するような製品はなかなか生まれないだろうと考えていた。
 
 そんな十川たちの秘策は、2台のCCDカメラだった。1989(平成元)年にエンジンの燃焼を可視化する技術としてSUBARUが開発していたステレオカメラが、これに流用された。このカメラは、人が物を見る原理と同様に、二つのカメラを用いて対象物を複数の異なる方向から同時に撮影する。その情報をもとにすれば、奥行きの情報をも計測することが可能になる。

 つまり彼らは、「人間の目」のように機能するカメラを用いることで、車間距離や障害物の存在を割り出す運転支援システムを構築しようとしていたのだ。そこで得られたデータをもとに、危険を察知して警報を鳴らし、ドライバーにブレーキを踏むなどの安全運転を促す――この技術は、「ADA(アクティブ・ドライビング・アシスト)」と名付けられた。

「その技術、譲ってくれませんか?」
 開発を軌道に乗せるため、一人のリーダーが招集された。紺野稔浩、当時43歳。どんな時も決して怒らないことから、「仏の紺野」と呼ばれていた。彼は、自身のあだ名について、このように話す。
 
 「怒るということは、ほとんどありませんでしたね。仮に部下が仕事で失敗してしまったとしても、それは別に悪いことではありません。むしろ、大事な経験の一つです。それに、怒ってプロジェクトが上手く進むなら、私もそりゃ怒りますよ。でも現実には、カッカしようが怒鳴ろうが技術的な課題は一向に進まないわけで……」
 
 しかし、そんな仏も、システムの試作品を目の当たりにして、驚いた。怒りこそしなかったものの、思わずため息が漏れた。
 
 「これでは、当分商品化は無理だ」

 映像を解析する巨大なコンピューターが、車の荷台を埋めつくしていたからだ。ここから大幅に小型化し、車に内蔵できるようにするには、いったいどれだけの時間がかかることか。技術的な課題に加え、自動車の生産ライン上で、この複雑な機構を組み上げられるのかという不安もあった。
 
 そんな矢先のことだった。当時、技術提携をしていた同業社である日産の開発者10人が、紺野らが手がけているシステムの話を聞きつけて、視察にやって来たのだ。彼らは、カメラが危険を察知する様を見て、顔色を変えた。そして、紺野に言った。
 
 「その技術、私たちに譲ってくれませんか?」

 紺野は、大手の安全技術に対する貪欲さに驚いた。彼は、当時抱いた複雑な感情をこのように語る。
 
 「日産さんが私たちの技術に興味を持ってくださったということは、ある意味で、非常に誇らしいことでした。いいものをつくっているということを認めてもらったようなものですから。でも、もし本格的に彼らがこの領域に入り込んでくれば、富士重工業はひとたまりもないだろうとも思いました。比べてしまえば、圧倒的に小さな会社なので、完全に駆逐されてしまうのではないかという危機感ですね。この技術は、絶対に渡してはダメだと直感しました」

 この技術は、必ず、自社の未来を担う存在になる。

 その思いを新たにした紺野は、技術部門のトップに率直に思いを伝え、理解を得ることに成功する。その代わりに付けられた条件は、システムを短期間で商品化するということだった。
 
 「時間がない。とにかく行動力のある人が欲しい」

 紺野の心に、スイッチが入った。この新たな使命に強く背中を押された彼は、会社に掛け合い、販売に向けてさらに10人のメンバーを募った。こうして、開発は加速していった。

生意気な技術者
 新たに集まった若手メンバーの中に、ジーパン姿の「生意気な技術者」がいた。柴田英司、当時33歳。行動力はピカイチだが、言いたいことがあれば上司にも遠慮なく噛みついてくると噂されていた。
 
 柴田は、件の試作品を見ると、紺野にこう言い放った。
 
 「こんなの、まだ世に出せないっすよ」
 
 その通り。車の荷台を埋めつくすコンピューターのお化けを前に、かつて自分も同じことを思った。だから不躾な発言ではあったが、「仏の紺野」は怒らなかった。しかし正直なところ、「無遠慮なのが来たな」とは思ったという。当時、強く、そして躊躇なくダメ出しをした自分を柴田はこう振り返る。
 
 「馬鹿正直に、『え、こんなバラック(粗悪)品で何やりゃいいの?』みたいに言ってしまったんですよね。ほぼ初対面に近かったんですけど、まあダメなものはダメなので、そこは言っておかないとな、って」

 柴田は、このプロジェクトに助っ人として加入しただけなので、最初はとにかく「完成させること」しか頭になかった。そんな彼は、それまでメーターやウインカーなどの電気部品に問題がないかをチェックする実験担当をしてきた。そして、自身の置かれた現状に不満と鬱屈を抱えていた。知識をどれだけ身に付けても、開発には関われず、何も生み出せていない自分に嫌気が差していたのだった。
 
 「どこか負い目のようなものがあったと言いますか……結局、自動車メーカーでいろいろな企画を転がしていくのは、エンジンやボディを開発する機械系の人たちなんですよ。当時、入社して7、8年経って、ある程度仕事を回せていけるようになってきて、さらにいろいろなことに挑戦したいと思いながら、なかなか思うような仕事に巡り合えていなかった。ものづくりの核心のところの仕事ができていないことに、ある種の飢えを感じていたのかもしれません」

 他部署からの心ない言葉に憤り、時にイザコザも起こした。

 それは、冬季走行における電気・電子系のテストのために、柴田が北海道に行った時の話だ。出張先の飲み会の席で、ある部署から、「お前、何しに来てるんだ?」と無碍な扱いを受けた。頭に来て、「何だと? この野郎、表に出ろ!」と怒りを露わにした。彼は、当時のことを苦笑交じりに振り返る。
 
 「まわりから止められたので、殴り合いのような大人気ないことにならずに済んでよかったです。でも、その時に本音でぶつかり合ったことで、彼らとは後にとても仲よくなったんですけれども」

深夜の工場での実験
 1998(平成10)年、柴田は新チームでの初仕事で、深夜の工場に呼ばれた。車に搭載したカメラで、夜の道路状況を認識する実験のためだった。その最中、道路の白線がないことに気付いた彼は、機転をきかせ、代用品としてトイレットペーパーを持ってきた。何とか、これを白線の代わりにしようというのだ。しかし、地面に貼ろうにも風で破れて上手くいかない。舞い乱れる薄紙に翻弄されながらも、彼は、その時ゼロから物を生み出す開発現場での仕事に早くも喜びを見出し始めていた。

 「機械を扱う仕事って、自分が扱う対象が目に見えるんですよね、ダイレクトに。部品自体もそうですし、その挙動も可視化されている。一方、それまで自分がやってきた電気部品をチェックする仕事は、原則的に計測器を介さなければ現象が見えてこない。この違いが、まずとても面白かったです。また、仕事自体も非常にダイレクトでした。かつての自分の仕事は部品をチェックするところで終わっていましたが、このプロジェクトでは、実験をして駄目だったら自分たちで解決策を考えて、自分たちで直すというところまでやることになります。さらには、現場では新しいことが日々起こっている。このアクティブな環境が楽しくてなりませんでした」

 やりがいを感じ、開発にのめり込んだ。だからこそ、仕事の上で思うところがあれば、遠慮なく言葉にした。相手が上司であっても、臆することはなかった。
 
 一方の紺野も、彼の文句をまったく意に介さなかった。むしろ、よく聞き、その知識と行動力を信じて開発を任せた。当時の心境を、紺野はこう語る。

 「私たちがつくっているのは最先端のシステムです。前例がないので、過去の経験は通用しませんし、私自身も何をやれば正解なのかはわからない。結局、問題を解決するには、若い人の知恵を借りるしかないんです。怒ってる場合じゃないですよね。彼は、仕事を確実に進めてくれるし、かなりの無理を言っても何とかやってくれる。仕事を一緒に進めていく中で、実行力が極めて高い人なのだと知りました。
 
 また、自分の考えがしっかりあって、かなり強くそれを押し通そうとする。これは僕にはない要素なので、非常に助けられました。というのも、自分が見て感じたところをそのまま言ってくれるというのは、こうしたシステム開発〜商品化では、すごく大事なことなのです。変に遠慮されて、後から『やっぱり……』なんてことになったら、量産化なんていつまで経ってもできませんからね」
 
 生意気な柴田は本音で語り、仏の紺野はそれを否定せず、一緒に悩んだ。仕事を通じて、信頼関係が生まれていった。二人は、共に強く思った。このチームで開発がしたい、車社会の「安全」を実現する、新たなシステムを世に送り出したい、と―― 。

2. 転機――自動ブレーキという発見

しかし売れなかったADA
 2000(平成12)年。紺野・柴田チームの安全への思いとは裏腹に、交通事故の数は、依然として増え続けていた。
 
 他社は、危険を察知するレーダーや、衝撃できつく締まるシートベルトなどの新技術を次々に発表していた。富士重工業も、負けじと運転支援システムのプロジェクトを強化。開発に関わるメンバーも20人を超えた。
 
 リーダーだった紺野は、この年、部長に昇進した。そして、次のリーダーに名乗り出たのは、あの生意気と言われた柴田だった。当時、自身を突き動かしていたモチベーションを、彼はこう語る。
 
 「『誰かやらないか』という話があった瞬間、『はい、やります』と手を挙げていました。別に勝ち筋が見えていた、みたいなことでもなく、単純に『面白そう』と思っちゃったんですよね。システムから機能まで、そのすべてに関わることができるわけですから、これはやりがいがあります。このプロジェクトに参画する前はやりたい仕事ができなくてずっと鬱屈していたこともあり、ようやく次のステップが来た、このチャンスを逃す手はないぞ、という気持ちでした」

 その頃、開発担当の十川は、カメラの改良に着手していた。車間距離や白線など、さまざまな道路環境をシステムに認識させていった。新リーダーとなった柴田は、プロジェクトの前進に、意気込んだ。
 
 「この映像から、あらゆる危険を察知してドライバーに知らせよう」
 
 車がふらつき、車線をはみ出した瞬間に警報を鳴らした。さらには、路面凍結をも察知して警告を出し、注意を促した。その時点で考えうるものは、可能な限り反映させていった。
 
 そして、2003(平成15)年、柴田は「車間距離制御クルーズコントロール」「車間距離警報」「車線逸脱警報」「VDC(横滑り防止装置)プレビュー制御」「追従モニター」「ふらつき警報」「グリップモニター」「前車発進モニター」という八つの機能を盛り込み、自信を持ってADAを売り出した。搭載する価格は70万円。しかし、彼らの努力もむなしく、わずか285台しか売れなかった。商品としては、完全に敗北だった。

 なぜ売れなかったのか。理由はさまざまだったが、まずは、いくら警報を鳴らして注意を促しても、あとの操作はドライバー次第だったことが大きかった。そして、70万円という、決して安くはない搭載費用もネックになった。紺野は、さらにこう分析する。
 
 「車の安全性を高めました。だからその分、費用はこれだけ上がるんですよ、と言われても、お客さま的には納得できないと思うんです。車が安全なのは当たり前だろ、安全だから商品として出しているんだろ、って」

 また柴田は、当時はまだ商品として、ユーザーの求めるものを汲み取り切れていなかったと反省する。

 「商品企画の観点がまだまだ追いついていなかったな、って。つまり、市場や消費者のニーズに合った商品という意味で、ADAは不十分だったのです。技術屋目線での『これは素晴らしい機能だから入れるべきだ』というジャッジに重きが置かれていて、一般のお客さまが一番必要だと思っている機能、これならお金を出してもいいと思える機能に気づけていなかったわけです。優先順位が間違っていた」

「この機能、ないと困ります」
 さらに、厳しい現実が彼らを襲った。次々と部品の故障が発生、クレームが殺到したのだ。
 
 これを受けて柴田は、部下と共に日本全国のディーラーのもとを回った。ADAの新しい部品に不慣れだったディーラーのメカニック担当者に代わって自ら交換作業を行い、技術的な説明もした。そしてさらに、こんなお願いをして回ったという。
 
 「もし可能なら、ADAを導入されたお客さまにぜひ会わせてください」
 システムのユーザーに、直接謝罪し、ADAを使用しての感想を直に聞きたいと考えたのだ。とはいえ、開発者は開発者、メカニックはメカニックと役割分担がなされているのが普通である。開発者が直接顧客へアプローチするのは、相当にイレギュラーなことだった。でも、そこを何とかと頼み込んだ。ユーザーも当然皆働いているので、日中はなかなかつかまらない。柴田たちは午前中に交換作業が終わっても、夕方まで、ユーザーの終業時間を待った。
 
 この謝罪行脚の最中に、ユーザーの一人に意外なことを言われて驚いた。

 「この機能、ないと困ります」
 
 この言葉の主は、運送業を営む男性だった。毎日、高速道路を使って何百キロメートルもの長距離を移動する。その際、ノロノロ運転が続く渋滞時でも一定の車間距離を保って追従走行をする「車間距離制御クルーズコントロール」や、不注意時に警報を発する各種機能が非常に役に立っているというのだ。現在、故障によってこれが使えないことが不安で仕方がない、早く直してほしい、と訴えられた。
 
 思わしくない売れ行きと部品の故障から、社内外で怒られてばかりだった柴田にとって、このユーザーからの「ないと困る」という言葉は、最高のエールとして響いた。ここまで使い込んでくれている、ということに、感動した。使ってもらえさえすれば、そのよさに気づいてもらえるのだ。奇くしくも、日本は急激に高齢化社会へと進みつつある。運転者を支援する機能は、今後もっともっと必要になっていくことは間違いない。まだまだ、未来のあるプロジェクトなのだ。
 
 この安全システムには、大きな可能性がある。たくさんの人が使ってくれれば、必ず事故を減らせる――そう確信した瞬間だった。

突然のリストラ計画
 しかし、希望を抱いたのもつかの間のこと。その直後、SUBARUに最大の逆風が吹き荒れた。頼みの綱である主力車が売れず、会社の経営が悪化。設立以降初めて、700人規模のリストラをすることが決まった。社内では、柴田たちの技術がやり玉に上がった。
 
 「こんなシステムは、要らない」
 
 冷酷なジャッジが下った。開発予算は、20分の1に削られた。紺野は思った。これは、このシステムの開発はもうやめたらどうなんだという暗黙の意思表示なのではないか、と。
 
 予算の削減に伴い、メンバーも減ることが決まった。開発の根幹を支えてきた十川も、チームを去ることになった。志半ばで開発を断念することになった彼は、当時の心境をこう振り返る。
 
 「それはもう、残念でしたね。正直なところ、つらかったです。もちろん、会社からの命令だから仕方がないのですけども……ずっと必死に取り組んできたプロジェクトから、自分の意思とは無関係に、途中で離れざるを得なくなったわけですから」

 お金が消え、人が去った。このまま開発は続けられるのか? 柴田は、茫然自失となっていた。
 
 「もう、頭に血が上った感じでした。予算が大幅に削られるということは、部品メーカーさんをはじめとする関係者にお金が払えないということも意味しますから。それに、チームのリーダーになった途端にいきなりやめろはないでしょ。ちょっと待ってよ、という気持ちもありました。それで、当時予算をまとめていた人とも侃侃諤諤やり合ったのですが、『いつまでこんな金にならないプロジェクトやってんだ!』と言われてしまう始末で……」

仏、怒る
 一方、上司の紺野も追い込まれた気持ちでいた。いっそのこと、開発をやめてしまうという手もあった。そうすれば、一気に楽になることもわかっていた。二人で「このプロジェクトがダメだったら、会社辞めちゃおうか」などとボヤキ合うこともあった。精神的に、限界まで追い詰められていた。
 
 もう無理だ。ある日、柴田は思わず紺野に向かって叫んでいた。
 
 「これから俺は、どうすればいいんですか!」
 
 次の瞬間、「仏の紺野」が初めて怒鳴った。
 
 「それをお前が考えるんだ!」
 
 紺野には、強い思いがあった。SUBARUのステレオカメラによる認識技術は日本、いや世界においてもトップクラスである。ようやくここまで上り詰めたのだから、トップを走り切らなければならない。なぜなら、技術というのは「覆水盆に返らず」であり、一度捨ててしまうと、後にまた必要になったからといって、すぐに再利用することはできないのだ。

 そして、技術は日夜進歩している。また数年後に「やる」という判断になったとしても、その時には一からの開発になってしまうだろう。だからこそ、一技術者として、積み上げてきたものをあっさりと諦めることはできなかったのだ。
 
 紺野の言葉が、その思いが、胸に刺さった。この時、柴田の中で何かが変わった。

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