ジブリ映画『もののけ姫』心を打つ名言・名台詞まとめ|荒ぶる神々と人間たちの生きることへの思いと、紡ぎ出される魂の言葉
1997年公開のスタジオジブリ作品『もののけ姫』。宮崎 駿監督が構想16年、製作に3年の月日をかけて生み出した渾身の超大作です。
いまだ人を寄せ付けない太古の深い森の中には、人語を解する巨大な山犬や猪などの神獣たちが潜み、聖域を侵す人間たちを襲い、荒ぶる神々として恐れられていました。エミシの末裔のアシタカは、人間への怒りと憎しみによってタタリ神と化した猪神に呪いをかけられてしまい、それを解くために訪れた西の国で数奇な運命に巻き込まれていきます。
物語の主な舞台は人を寄せ付けない神々の森と、鉄をつくる城砦のようなタタラ場。森を守る神々と森を切り拓く人間が争う惨劇のさなか、アシタカは"もののけ姫"と恐れられる美しい少女・サンと出会い、森と人間の双方にある正義や事情に葛藤しながら、両者が共に生きる道を訴えかけていきます
本稿では、そんな『もののけ姫』の名言・名台詞をまとめました。神々や人間たちの生きることへの思いに触れながら、紡がれていく魂の言葉を辿りましょう。
『もののけ姫』名言・名台詞
「汚らわしい人間どもめ。わが苦しみと憎しみを知るがいい…。」ナゴの守(タタリ神)
タタリ神としてエミシの隠れ里を襲ったナゴの守の恨みの言葉。ナゴの守は、エボシ御前率いる石火矢衆に深手を負わされ、その苦しみと憎しみによりタタリ神と化しました。
村を救うためにそのタタリ神を倒したアシタカは、人間が巻き起こした惨劇により、不条理にも死に至る呪いをかけられてしまいます。己の運命を冷静に受け止めているようにも見えますが、アシタカの悲しみはどれほど深いものであったでしょうか。
「誰にも運命(さだめ)はかえられない。だが ただ待つか自らおもむくかは決められる。」ヒイさま
タタリ神を倒して呪いを受けたアシタカへ、村の老巫女・ヒイさまが授けた言葉。西の国で何か不吉なことが起こっているとして、西へとおもむき、「曇りのない眼で物事を見定めるなら あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ」と告げています。タタリ神に矢を射るとき心を決めたというアシタカはマゲを切り、ヤックルと共に西へと旅立ちました。
ちなみに、ひとつの村でマゲを切るということは、もう人間として扱われないという意味合いを示しているのだといいます。人ならざるものとして、村から出ることになったというわけです。
「いつもいつも カヤは兄様を思っています。」カヤ
アシタカの旅立ちのとき、彼を慕うカヤが伝えた言葉。見送りは掟で禁止されていますが、カヤはアシタカをお守りするようにと大切な「玉の小刀」を贈りました。アシタカはカヤの言葉に「私もだ いつもカヤを思おう」と返しています。
後にアシタカはその玉の小刀をサンに渡していますが、ここは様々な感想が飛び出すところでもありますね。この「玉の小刀」は黒曜石のナイフであり、エミシの村では女性が変わらぬ心の証として贈るものとされています。
「タタリというならこの世はタタリそのもの。」ジコ坊
アシタカは西へと向かう旅路の途中、とある町でジコ坊と出会います。こちらは、タタリ神のことを打ち明けたアシタカに語ったジコ坊の言葉です。戦、行き倒れ、病、飢えなど、人界は恨みをのんで死んだ亡者でひしめいているのだと。
人を2人も殺めてしまったというアシタカに、ジコ坊は「人はいずれ死ぬ 遅いか早いかだけだ」と返し、「肝心なことは死に食われぬことだ」と忠告しています。
「曇りなき眼で見定め、決める。」アシタカ
タタラ場に到着したアシタカはエボシ御前に客人として迎えられ、旅の理由として右腕の痣を見せて死の呪いについて語ります。この言葉は、タタリ神となったナゴの守の腹の中から出てきたツブテの秘密を調べてどうするのかとエボシが尋ねた際のアシタカの台詞。これは、エミシの村を旅立つ前にヒイさまに告げられたことでした。
エボシへの恨みや怒りが湧き上がり、アシタカの右腕がエボシを殺そうとする場面もありますが、アシタカは葛藤しながらもお告げ通りに物事を曇りなき眼で見定めようとし、山犬の姫・サンとの出会いやタタラ場の人たちとの関わりを経て、森と人間の共存を願うようになります。
感情に支配されず、先入観に囚われずに物事の本質を見据えることの大切さは、現代の私たちも忘れずにいたいことですね。
「生きることはまことに苦しくつらい。世を呪い 人を呪い それでも生きたい。」病者の長
タタラ場の別東に住む病者たちの長の言葉。エボシが引き取って看病している病者たちは、新石火矢の製造を任されています。病者の長は特に病が重い様子ですが、アシタカの殺気に気づいて声を振り絞ります。
人として自分たちを扱ってくれるエボシを殺さないでほしいと懇願し、生きることはまことに苦しくつらいが、世を呪い人を呪いながらも生きたいという本音を口にしました。
キャッチコピーで「生きろ。」と提示されている本作では、「生きろ」「生きたい」など、登場キャラクターたちの生きることへの思いや死への恐れが語られています。
「生きろ…。」「そなたは美しい…。」アシタカ
石火矢により胸に深い傷を負い、虫の息となって大地に倒れたアシタカに、サンはとどめを刺そうとしていました。なぜタタラ場への襲撃の邪魔をしたのかとサンが尋ねると、アシタカは「そなたを死なせたくなかった」と言います。
死など怖くない、人間を森から追い払うためならば命などいらぬというサンに、「生きろ」というアシタカ。さらに「そなたは美しい」と告げます。アシタカの息の根を止めようとしていたサンでしたが、「美しい」と言われてひどく動揺し、結局アシタカの生死をシシ神に託すことにしました。山犬であろうとするサンは「人間は醜い」と考えているため、自分のことも醜いと思っているのだといいます。
「貴奴は死を恐れたのだ。今の私のように…。私の体にも人間の毒ツブテが入っている。ナゴは逃げ 私は逃げずに自分の死を見つめている。」モロの君
イノシシたちとの口論のなかで語った言葉。モロのように諦観した犬神であっても死は恐ろしいもの。既に充分に生きたというモロは、シシ神は傷を治さず命を吸い取るだろうと悟っています。
「シシ神は傷は癒してもアザは消してくれなかった。呪いがわが身を食い尽くすまで 苦しみ生きろと…。」アシタカ
シシ神は人間を助けて癒やすのに、何故ナゴの守を助けなかったのかと憤るイノシシたちへアシタカは話します。ナゴの守にとどめを刺したのは自分であり、村を襲ったタタリ神をやむなく殺したこと、呪いをシシ神が解いてくれぬかとこの地へ来たことを。そして、突きつけられたその残酷な現実を伝えました。
そこへ乙事主が姿を現わし、アシタカはナゴの守の最期を伝えます。乙事主は感謝の意を伝えながら一族からタタリ神がでてしまったことを悲しんでおり、この呪いを消す術はないのかと尋ねられると、次に会うときは殺さねばならないとして森を去るようアシタカに忠告しました。
「怖いのは もののけより人間のほうだからね。」エボシ御前
エボシがシシ神殺しへと出発する前、お供させてほしいという女たちに向けた言葉。お前たちにはタタラ場を守ってほしい、シシ神殺しが済んだら色々分かるだろうというエボシ。今はタタラ場と協力関係にある怪しい連中も敵になるかもと、先を見据えて示唆しました。惨憺たる思いを味わってきたとされるエボシの言葉には重みがあります。
 
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「森と人が争わずに済む道はないのか?」アシタカ
荒ぶる神々と人間たちとの大決戦を間近に控えた夜。洞穴で目覚めたアシタカは、サンの手厚い看病により順調に回復していました。アシタカはモロと言葉を交わしており、ここでは、『もののけ姫』の有名な台詞が続きます。
ナゴの守がタタリ神と化した原因であるエボシに対し、恨みや憎しみの感情を内包するアシタカ。迷いながらも森と人間の双方が争わずに済む道はないのか模索し、本当にもう止められないのかとモロに問います。
後にアシタカはエボシにも「森とタタラ場 双方生きる道はないのか」と訴えています。両者を守ろうとしているアシタカを見て、ジコ坊は「あいつ どっちの味方なのだ?」と呟いていました。
「あの子を解き放て!あの子は人間だぞ!」アシタカ
何よりもサンを救いたいという想いを強く感じる場面。アシタカがサンに対して抱く様々な感情が溢れていきます。
「サンをどうする気だ? あの子も道連れにするつもりか?」というアシタカに対して「いかにも人間らしい手前勝手な考えだな。サンはわが一族の娘だ。森と生き 森が死ぬ時は共に滅びる。」と返すモロ。するとアシタカは、「あの子を解き放て!あの子は人間だぞ!」と、森と人間の争いからサンを解放するようモロに訴えかけます。
「黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか⁉︎ 森を侵した人間が わが牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ。人間にもなれず 山犬にもなりきれぬ 哀れで醜い かわいいわが娘だ。お前にサンを救えるか⁉︎」モロの君
サンを解き放つよう訴えるアシタカをモロは一蹴。生贄として森に捧げられ、人間にもなれず山犬にもなりきれぬサンの身の上を案ずる母親のモロは、何も知らない人間の若者の言葉に激昂していました。サンを救えるのかと激怒されたアシタカは「分からぬ。だが共に生きることはできる!」と答えますが、もうお前にできることは何もないと突き放されてしまいます。
このようにアシタカに対して厳しい態度で接しているモロですが、サンには「お前にはあの若者と生きる道もあるのだが……」と、人間として生きる道を示唆しています。森と運命を共にするというモロ一族からこのような言葉がでるなんて……母親心ですね。サンの身なりや佇まいなどから、モロはサンが人間と共に生きれる道も残しながら育ててきたのかもしれないとも思えてきます。
「生きてりゃ何とかなる!」トキ
 
ディダラボッチは、奪われた首を取り戻すために、触れるもの全ての生命を吸い取りながら徘徊。ドロドロに触れると死んでしまうため、やむなくタタラ場を皆が脱出し、「もうダメだ」と甲六が絶望していた時にトキが叫んだ言葉。生きていればなんとかなる、何度でもやり直せると言ってもらえると、希望をもらえますよね。
「よみがえってもここはもうシシ神の森じゃない。シシ神様は死んでしまった。」「シシ神は死にはしないよ 命そのものだから。生と死と2つとも持ってるもの。私に生きろと言ってくれた。」サン/アシタカ
シシ神の首が戻ったあと、朝日を浴びたディダラボッチは猛烈な風を巻き起こしながら消えていきました。「シシ神様は死んでしまった」とサンは言います。
自然は再生して穏やかな風景が広がっていますが、かつての恐ろしく厳かな森はそこにはもうないのです。そういう風に日本の風土そのものを日本人が作り替えてきたのだと宮崎監督は話しています。
「古い神がいなくなれば もののけ達もただの獣になろう。」と言っていたエボシの言葉通りになっていくのかもしれません。エボシは、「森に光が入り 山犬どもが鎮まれば ここは豊かな国になる。もののけ姫も人間に戻ろう。」とも話していました。
「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない。」「それでもいい。サンは森で 私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。」サン/アシタカ
森が蘇ったあと、サンがアシタカに告げた言葉。そして、共に生きようというアシタカの答え。アシタカは、ヤックルに乗って会いに行くと約束し、サンは静かに頷きました。悲しみと怒り、憎しみにまみれる争いの惨劇のなかで出会い、アシタカとサンが心を通わせていく過程は美しく尊いものですね。
最後のサンの台詞に関して宮崎監督は、「解決がつかないままアシタカに刺さったトゲ」だと表現しています。アシタカはそのトゲも一緒に生きていこうと決めている21世紀人なのだそうです。
「みんな初めからやり直しだ。ここをいい村にしよう。」エボシ御前
崩れ落ちたタタラ場に集まり、皆でエボシを囲んでいるシーン。皮肉にも山犬の背で運ばれ生き残ったというエボシは、憑きものがとれたような表情を見せ、タタラ場には日が差しています。
主題歌「もののけ姫」の歌詞
傷を負ったアシタカがシシ神に癒された後、三日月が見える石の洞穴で流れ始める主題歌「もののけ姫」は美しく神秘的。アシタカは隣で眠るサンを見つめ、それから外へ出ると目の前には森が広がり、洞穴の上にはモロが鎮座していました。両者はいくつか言葉を交わし、アシタカはモロからサンの身の上を聞き、お前にサンを救えるのかと一蹴されるのです。
“悲しみと怒りにひそむ まことの心を知るは 森の精 もののけ達だけ”
こちらは主題歌「もののけ姫」の一節。「もののけ姫」はアシタカのサンへの気持ちを歌った曲です。アシタカの哀愁漂う感情が静かに伝わってきますね。米良美一さんは「恋」と「慈愛」と「憐れみ」の3つの想いを浮かべて歌われたそうです。
『もののけ姫』作品情報