#4 「戦争は、影のように文明につきまとう」?──西谷修さんと読む、カイヨワ『戦争論』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
西谷修さんによるカイヨワ『戦争論』読み解き #4
ひとはなぜ戦争をするのか? 戦闘と殺戮の「本質」を解き明かす――。
『遊びと人間』で知られる哲学者・社会学者ロジェ・カイヨワ(1913-1978)が1950~60年代の冷戦時代に綴った『戦争論』。彼は本書で、戦争の歴史に新たな光をあて、これまでなぜ人類が戦争を避けることができなかったかを徹底的に分析しました。
『NHK「100分de名著」ブックス ロジェ・カイヨワ 戦争論』では、民族間、宗教間の対立が激化し、最新兵器によるテロや紛争が絶えない現代に浮かび上がる『戦争論』の価値を、西谷修さんと明らかにしていきます。
2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします。(第4回/全7回)
第1章──近代的戦争の誕生 より
戦争は「破壊のための組織的企て」である
「はじめに」でも述べたように、この本は戦後すぐに、まず後半の第二部が書かれました。ここにカイヨワの戦争観のエッセンスがあります。その後、この後半部分を歴史的に、あるいはもう少し大きな視野から位置づけ、かつ肉付けするために、前半の第一部が十年以上もの時をかけて書かれます。
第二次世界大戦後には戦争をさまざまな局面から分析・検討するもの、総合的に戦争を論じ直すものなど、多くの本が書かれました。「戦争学(ポレモロジー)」のようなものも提起されましたが、やはり衝撃的だったのは、強制収容所を生き延びた人たちの手記や、一兵卒として軍隊の中で非人間的な不条理を生きた人たちによる、小説もふくめた経験談でした。第二次世界大戦がいかに圧倒的な破壊・殺戮であったのか、しかもそれは国家同士の問題ではなく、いかに一人ひとりの人間にとっての悲惨な体験であったかということが分かります。しかしそれにもかかわらず、多くの人びとは熱狂して戦争に加わっていきました。その事実にカイヨワは向き合おうとしたのです。
本書では、第一部にも目を配りつつ、主として第二部「戦争の眩暈」を中心に読み進めていこうと思います。ただし、カイヨワの観点は「世界戦争」直後の、人間とは何かという問題に最も深刻な形で直面していた時代のものです。それから、およそ七十年が経ちました。近代の歴史は、進めば進むほど時間の密度が高くなっていきます。ですからこの七十年余りは、おそらく十九世紀初めのナポレオン戦争から、二十世紀の「世界戦争」に至るまでの時間と同じか、それ以上の密度を持っているでしょう。現代では、戦争のあり方も当時とはまったく異なってきているので、そのこともふまえて、カイヨワに寄り添いつつも批評的な視点をもって読んでいきたいと思います。
カイヨワはこの本全体の序文の中で、こう書いています。
戦争そのものの研究ではなく、戦争が人間の心と精神とを如何にひきつけ恍惚とさせるかを研究したものであった。
(序)
つまり戦争が「恐るべき圧倒的な現実」として私たちにのしかかり、「個人個人の意識のなかにその目くるめくばかりの反響が現われてきていること」に目を向ける。そして、そのような戦争のあり方を規定するものとして国家に焦点をあて、国家が戦争と密接に結びつきながらどういう発達を遂げ、両者がどのような関係を持っていたのかに力点を置いて見ていく。この本の狙いがそこにあることを、おぼえておいてください。
また、「戦争」という言葉は、幅広く曖昧に使われます。それが人間の集団全体を巻き込んで、さまざまな限界を壊す出来事であるために、これを一義的に定義することはできないし、一面からの規定は戦争の現実を見誤らせることになります。しかし、核心だけは指定して、共有しておかないと議論が成り立ちません。
戦争の本質は、そのもろもろの性格は、戦争のもたらすいろいろな結果は、またその歴史上の役割は、戦争というものが単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであるということを、心に留めておいてこそ、はじめて理解することができる。
(第一部・第一章)
カイヨワはまず、戦争は人間集団間の「破壊のための組織的企て」であると定義します。いわゆる政治的行為や単なる武器による闘争ではなく、敵の集団を破壊するための、集団による組織的な暴力の発動が、戦争行為であるというのです。
近代になると、戦争は主権国家同士の抗争であるという約束事ができますが、もともとは国家と国家の抗争に限らず、いろいろな形があったわけです。しかし犬のケンカは戦争ではなく、個々の人間同士の殴り合いも違います。人間により構成された集団が、組織的に武器という道具を用いて、敵の人間の命や所有物を破壊する。これはサルをふくめた動物にはできないことです。
ですから、まさに「戦争は文明を表出している」といえます。そして武器と組織化という戦争の要件は、それぞれの時代や地域における文明の状態と密接に関係していると、カイヨワは強調します。
戦争は文明とは逆のものだともいわれるが、道徳的見地あるいはその語源からいうのでなければ、これも正確ないい方ではない。戦争は、影のように文明につきまとい、文明と共に成長する。多くの人びとがいうように、戦争は文明そのものであり、戦争が何らかの形で文明を生むのだというのも、これまた真実ではない。文明は平和の産物であるからだ。とはいえ、戦争は文明を表出している。
(同前)
それは、「戦争は野蛮だ」とか「文明国はそんなことをしない」といった考え、戦争を文明とは相容れないものとする一般的な考え方の否定です。むしろ逆で、戦争の発展と文明の発展とは、切っても切れない関係にあるものだというのです。ただし、戦争が文明をつくり出すのではなく、平和のうちに開花する文明を戦争は使い尽くす、ということでしょうか。
著者
西谷修(にしたに・おさむ)
1950年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業、東京都立大学フランス文学科修士課程修了。哲学者。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授を歴任、東京外国語大学名誉教授。フランス文学・思想の研究をベースに、世界史や戦争、メディア、人間の生死などの問題を広く論じる。著書に『不死のワンダーランド』(青土社)、『戦争論』(講談社学術文庫)、『夜の鼓動にふれる── 戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、『世界史の臨界』(岩波書店)、『戦争とは何だろうか』(ちくまプリマー新書)、『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書)などが、訳書にジョルジュ・バタイユ『非-知──閉じざる思考』(平凡社ライブラリー)、エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(ちくま学芸文庫)、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』(監修、ちくま学芸文庫)などがある。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス ロジェ・カイヨワ 戦争論 文明という果てしない暴力』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2019年8月に放送された「ロジェ・カイヨワ 戦争論」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「文明的戦争からサバイバーの共生世界へ──西洋的原理からの脱却」、読書案内などを収載したものです。
※本書における『戦争論』からの引用部分については、秋枝茂夫訳(法政大学出版局)によります。