中山美穂が横浜ビルボードのライブコンサートで最後に歌った、「You’re My Only Shinin’ Star」は歌手としての飛躍の一曲だった
「中山美穂さんと言えば目でしょう」
劇作家のつかこうへい氏は、著書『女優になるための36章』(主婦と生活社)のなかで中山の魅力を語っている。
「切れ長で黒目が大きく、ちょっとつり上った彼女の目は、無理につくろうとしなくても角度によってさまざまな雰囲気を持ち、見る側がいろいろな解釈で彼女のイメージを受けることができる」と。そして、その「声」。
「鼻にかかった声はとても心地よく、目をつむって聞いていたら、顔が浮かんできそうな、一度聞いたら忘れられない印象深い声だ」とも言っている。
中山美穂は、抜群の歌唱力を売り物にする歌手ではなかったが、ある時はリズムに乗って快活に、ある時はうつむき加減で静かにバラードを歌い上げるその「声」は確かに耳に残っている。中山がデビューした1985年(昭和60)は、たくさんの新人アイドルが登場した年だった。浅香唯、石野真子、河合その子、斉藤由貴、佐野量子、本田美奈子、南野陽子、森口博子、おニャン子クラブ、松本典子、芳本美代子など、まさにアイドル黄金時代、言い換えれば戦国時代と言っていいだろう。
そのなかでも中山は、85年1月にTBSドラマ「毎度おさわがせします」で女優デビューすると、6月には、作詞・松本隆、作曲・筒美京平、編曲・萩野光雄という昭和歌謡の黄金トリオによる「C」でレコードもリリースした。しかもその年の日本レコード大賞新人賞を最年少で受賞している。デビューから約10年は、テレビドラマの主演をつとめ、さらに主題歌も歌うという特別なポジションにいた。出演作の一覧を見ると、改めて彼女の凄さに度肝を抜かれたのである。
残念ながら私自身は当時のテレビドラマをあまり観ていないので、主演ドラマのタイトルをみてもピンと来ない。けれども毎日のように歌番組が放送され、月曜日は「歌のトップテン」、水曜は「夜のヒットスタジオデラックス」、木曜は「ザ・ベストテン」、日曜は「レッツゴーヤング」と、中山を見ない日はなかったような気がする。どんな奇抜な衣装も着こなし、あの大きな潤んだ目で見つめられたら、男の子は吸い込まれてしまうだろう。
86年2月リリースの竹内まりや作詞・作曲の「色・ホワイトブレンド」は、資生堂の春のキャンペーンソングにもなり、軽やかにステップを刻んで歌う中山を見ていると、新学期のワクワク感も高まって、思い切ってローズ系の口紅を買った記憶が蘇ってきた。続く「ツイてるね ノッてるね」(86)、「WAKU WAKUさせて」(86)、「派手!!!」(87)と連続ヒット、出演するドラマもことごとく高視聴率を記録し、「ブラウン管のクイーン」と言われたようだ。
歌手としての転機は、角松敏生プロデュースの11枚目のシングル「CATCH ME」(87年10月リリース)あたりではないだろうか。なかでも12枚目のシングル「You’re My Only Shinin’ Star」は、私の中でも一番心に残る楽曲である。もともとは、中山の3枚目のアルバム『SUMMER BREEZE』(サマー・ブリーズ)に収録されたが、シングルバーションとしてリリースされた。
角松敏生は81年にデビューし、シンガーソングライターとして活躍する傍ら、83年以降は、他アーティストへ楽曲の提供とそれに伴う音楽プロデューサー業も手掛けていた。その音楽性を評価したのが、同じ事務所に所属していた杏里だった。「オリビアを聴きながら」(77)でロサンゼルスで16歳でデビューした杏里は、海外のアーティストやミュージシャンとコラボレーションしながら、その歌唱力は評価されていたが、その後のヒットに恵まれていなかった。杏里はまだ無名だった角松に5枚目のアルバム、『Bi・Ki・Ni』(83年6月)で5曲のプロデュースを任せたのだ。その後「CAT’S EYE」は、アニメ「キャッツアイ」の主題歌となり大ヒット、続く「悲しみがとまらない」も大ヒットした。突き抜けるような杏里の歌唱力をさらに磨きをかけた角松のプロデュース曲だ。
杏里とそのアルバム『Bi・Ki・Ki』に憧れていたのが、中山だった。彼女は自ら角松にプロデュースを依頼した。角松は、彼の著書『モノローグ』(毎日新聞社)で語っているが、プロデュースをサービス業として解釈し、アーティスト本人が喜ぶ作品になるように力を貸すことで、その看板を張るのはあくまでもアーティストと考える姿勢だ。そして彼のプロデュースは厳しいことに定評があり、あの杏里も中山も泣かせてしまったという逸話もある。
角松は、まだ10代だった中山を大人っぽくみせようと思い作ったのが、「You’re My Only Shinin’ Star」だった。私は「You’re My Only Shinin’ Star」をBGMした友人の結婚式のキャンドルサービスで初めて聴いたが、新郎新婦のセンスの良さに感動した。そして次の年は結婚式の余興として4人で歌うことになった。歌ってみると難しい曲である。特に出だし。低音ながら歌詞を聴きとれるよう、しかも美しい響きにしなければいけない、おわりの「永遠に I love you」を感動的にと話し合いながら随分練習した。けれども中山美穂の艶っぽく、麗しく、優しい世界には到底及ばない。「You’re My Only Shinin’ Star」は88年の日本レコード大賞金賞に輝いた。
90年代になると、「一咲」「北山瑞穂」というペンネームや、「中山美穂」の名前でも作詞した楽曲をリリースしている。ペンネームの使い分けはどんな理由があったのだろうかと、ふと思う。しかし99年9月の「Adore」を最後に歌手活動からは一時休止した。そして結婚や出産、離婚など私生活の変転時期に入る。23年ぶりに東京2ケ所でコンサート活動を再開し、今年は全国19都市で、2025年のデビュー40周年はさらに多くの会場でコンサート活動の予定が入っていたというが、その矢先の訃報だった。
亡くなる直前の12月1日のビルボード横浜でのライブに行ったファンの方の投稿があったが、最後の曲が、「You’re My Only Shinin’ Star」だったという。「何度も歌っていますが、歌うたびにいろいろなことを思う曲です」とコメントしていたという。このときは、何を思いながら歌っていたのだろう。
優しく響く「永遠に I Love You」のフレーズが耳から離れない。空の星になって輝き続ける中山美穂を私は忘れない。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫