「顔の形が変わるほど殴られた」やなせたかし氏が軍の生活に順応できた理由とは
「あんぱん」第51回では、先輩兵士から執拗に殴られるたかしの痛々しい姿が描かれました。
古参兵による新兵への暴力は「私的制裁」と呼ばれ、軍隊では公然と行われており、史実においても、やなせたかし(本名・柳瀬嵩)氏は、同じ経験をしています。
団体行動が苦手で、性格的にも体力的にも軍隊に向いていないと自覚していたやなせ氏は、地獄のような軍隊生活をどのように乗り越えたのでしょうか。(以下敬称略)
軍隊に一番向いていない男・柳瀬嵩
昭和16年、嵩は福岡県小倉の西部第73部隊第一中隊に入営しました。21歳の時です。
子どものときから束縛されるのを嫌い、権威に対しては反抗的でおまけに生意気。
「体力もなく軟弱な自分は、軍隊には絶対向かない」と自覚していました。
本人だけではありません。誰に聞いても「一番向いてない」と皆が口をそろえて言うのです。
親戚は心配のあまり、「嵩が逃亡してきたときには、どうやって逃がそうか」といった相談までする始末でした。
そんなタイプの人間が、軍隊に入ることになったのですから大変です。
しかも西部第73部隊は、勇猛果敢で知られる強者ぞろいだったのです。
九州や沖縄出身者が大部分を占め、炭鉱や荷役関係に従事していた腕っぷしの強い人が多く「73部隊を前にすると他の部隊が逃げ出す」といわれるほど、荒っぽい部隊だったのです。
ただ、嵩いわく、
「陰湿なのはあまりいなくて男らしい……俳優の三船敏郎みたいなのがいっぱい」
やなせたかし著『ぼくは戦争は大きらい』より引用
だったそうです。
起床から消灯まで細かく管理された内務班
入隊した兵士は、「内務班」に振り分けられます。
内務班とは、起床から消灯まで細かく管理された日課に従いながら、兵営生活を送る場です。
兵士たちは内務班で日常生活を送りながら、教育や訓練を受けることになります。
内務班は、初年兵、二年兵、三年兵と、下士官を含む15名から30名で編成されます。
二年兵は初年兵を教育・指導する立場にあり、初年兵一人につき一人の指導係「戦友」が割当てられました。
戦友は内務班での規則や日常生活のすべてをマンツーマンで初年兵に教え、初年兵は「戦友」の靴磨きや洗濯といった身の回りの世話をします。
戦友と初年兵は隣り合った寝台で眠るのですが、初年兵が出入りできない酒保(売店)で菓子を買い、そっと寝台の毛布の下に隠して差入れしてくれる優しい戦友もいたそうです。
軍隊に入ると、まず二等兵からスタートし、一等兵、上等兵、兵長と階級が上がります。
兵長までが「兵」であり、その上が「下士官」です。
陸軍の下士官は上から曹長、軍曹、伍長の階級があり、内務班長は軍曹が務め、そのほか伍長が2名ほど班付きとなりました。
ただし、軍隊では階級の上下とは別に、兵役期間の長さによるカーストが成り立っていました。
俗にいう「星の数よりメシの数」で、軍隊に在籍している期間が階級よりも優先されるのです。
嵩のような初年兵は、年齢も学歴も職業も関係なく軍の最下級に位置づけられ、全員が先に入った古参兵に殴られる日々を送ることになるのでした。
顔が変形して、ゆがんでしまうほど殴られる
「聞きしに勝る猛訓練で、ビンタの連続! つまり殴られるんですね。何も悪いことしなくても殴られる。顔が変形してゆがんでしまう。痛いなんてものじゃなくて、目から火花が出て卒倒する。全く理屈が通らない。」
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』より引用
後年、嵩が語った内務班での理不尽な暴力の様子です。
暴力や陰湿な初年兵イジメといった「私的制裁」は、公式には禁じられていましたが、内務班では日常的に行われていました。
私的制裁にはさまざまなタイプがあり、靴やベルトで殴ったり、靴をなめさせたり、痰壺(たんつぼ)までなめさせることもあったそうです。
その他にも、柱に止まってセミのまねをする「セミ」や、ベッドをくぐって「ホーホケキョ」と鳴く「鶯(うぐいす)の谷渡り」。
体の両脇に机を置き、それぞれの机の上に手をついて体を浮かせ、長時間自転車を漕ぐマネをさせる「自転車」など、ありとあらゆる初年兵いじめがありました。
こうした制裁に耐えられず脱走や自殺する者も多く、度を越した暴力によって兵士が死亡してしまうこともあったそうです。
嵩も殴られていました。いじめではなく、とにかく殴られるのです。
毎晩のように初年兵全員が整列させられ、その日におきた些末なことを理由に、あるいはなんの理由もなく、連帯責任だといって全員が殴られました。
「足をひらけ、眼鏡をはずせ、奥歯をかみしめろ」という怒声とともに、平手、げんこつ、ベルトで思いっきり殴られるのです。
朝礼で「私的な制裁で殴るのはやめましょう」という訓示があった日は、いつもの倍以上殴られ、時には初年兵同士向き合ってお互いをビンタすることを強要されました。
「軍隊は要領」コツをつかんだ嵩
「お国のために戦う」などという気持ちはさらさらなく、「はやく家に帰りたい」という思いでいっぱいだった嵩は、ある時から「軍隊で楽に過ごすには、どうしたらよいのか」と考えるようになっていました。
そして「軍隊という組織のなかでは、自我を殺し、とにかく逆らわず、命令に従って行動すればよいのだ」と、次第に理解するようになりました。
思考を停止し、何も考えず、言われたことだけをきっちりとこなしていく。軍隊でうまくやっていくために必要なのは、要領だと気づいたのでした。
というのも、嫌々やっていると軍隊では暮らしにくいのです。
戦車に見立てた大八車に突っ込んでいく訓練に「こりゃだめだ」と思っても、銃剣に見立てた木の銃で、わら人形に突撃を繰り返す前時代的な訓練に「意味がない」と思っても、嵩は気持ちを押し殺し、とにかく真面目に取り組むようになりました。
諦めとも言えるかもしれません。しかし、そう考えられるようになってからは、心も身体も楽になったそうです。
二年目になると、貧弱だった身体は筋肉がついてひきしまり、上官にも「たくましくなった」とお褒めの言葉をもらえるほどになりました。
軍隊に最も向いていない男・柳瀬嵩は、こうして軍の生活に順応していったのでした。
参考文献
やなせたかし『ぼくは戦争は大きらい』小学館
吉田裕『日本軍兵士 -アジア・太平洋戦争の現実』中央公論新社
河野仁『〈玉砕〉の軍隊、〈生還〉の軍隊』講談社
文 / 草の実堂編集部