テレビ初放送の『三上博史 歌劇』など「寺山修司没後40年記念特集」にあわせて、三上博史のインタビューが公開
CS放送「衛星劇場」にて「寺山修司没後40年記念特集」が6月に放送される。今回、放送にあわせて三上博史へのインタビューが公開された。
「寺山修司没後40年記念特集」では、テレビ初放送となる『三上博史 歌劇 ― 私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない ―』は寺山修司没後40年/紀伊國屋ホール開場60周年記念公演。寺山修司監督の映画で俳優デビューを果たした三上博史が、数々の名作を熱唱・熱演する。同じく三上博史が出演した舞台『魔術音楽劇 青ひげ公の城』や映画『草迷宮』なども放送する。
三上博史インタビュー
※インタビュー全文は番組特設ページにて( https://www.eigeki.com/special/terayamashuji )
ーー『三上博史 歌劇 ― 私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない ―』が衛星劇場で放送されることになりました。
なんか思わぬ展開になってきました(笑)。『三上博史 歌劇』はある意味、後先考えずに中身を構成してしまいました。僕も加わって検討したわけですが、舞台に立つ自分の首を絞めることになっちゃった。1カ月の公演だったらそれなりにペース配分も考えるんですけど、今回は6日間と短かったので出し惜しみせず全力疾走、楽日は最後に残ったものを出せるだけ出すといった感じでした。
ーー寺山さんの表現は、現代演劇の中ではなかなか見られないものだと感じました。
もちろん寺山さんも構想し、制作していく段階ではロジックに考えていらっしゃったでしょうけど、表現にする段階では役者の肉体に委ねる部分が大きいんです。一方で意外と理知的に演じなくても、品良くまとまるのが寺山作品。ただ熱いだけのものだけにはならない保険がかかっている。だから安心して発散しちゃいましたけどね。本当はもう少し理知的にやった方がいいのかもしれないけど、僕の肉体を通すとああなっちゃう(笑)。終わってからしんどくて、1カ月くらいは廃人のようでした。
ーー全力投球しているのが伝わってきました。そして『三上博史 歌劇』というタイトルこそが作品を一番表しているようでした。今振り返ると何をやり遂げた、みたいな思いはありますか。
「寺山修司没後40年」というお題目がありましたよね。修司忌と言って青森県三沢市で毎年やっている、寺山さんが中心にいる会があります。『三上博史 歌劇』はそれを伝えたいということで始まったけれど、構成する段階から、じゃあ自分に何ができるかを突き詰めていったんです。そうすると、もちろん寺山さんのテキストの幅がすごく広いこともあるけれど、僕が表現者として出せるもの、出したいものもやっぱり広い。歌や肉体表現、そしてセリフと全部引っ張り出されてしまった。普通はそんなことしないものだろうけど、全部を出さざるを得なかった。しかも生活面もそうでした。今は地方の山に住んでいるので都内で住まう場所を探さなきゃいけない、犬と一緒に暮らせる場所を探すことから始まったんです。体調悪くなるし、綱渡りみたいな状況だったけれど、三上博史を全部出しきったとは思います。楽日に打ち上げをやって、次の日に山に帰ったら、体調の悪さもピタリと止まった。もう少し余裕を持ってやれば良かったのか、まだ答えは出ないけれど、とにかく今回のプロジェクトは私生活まで含めて、やっぱりひと月、寺山さんの季節だったのかなと思いますね。
ーー寺山さんと出会いとなった映画『草迷宮』、三上さんが演劇に舵を切った『青ひげ公の城』なども衛星劇場で放送されます。
寺山さんの没後40年という冠があってこそ組まれた企画ですけど、そこに選んでいただいた3本は、寺山さんと僕との関わりと、僕自身の人生が符合しているんですよね。『草迷宮』がなかったら、僕はこの世界にはいなかった。そこでものすごく僕の人生は変わったわけです。それが15歳で、25年経って40歳、寺山さんの没後20年に出演したのが『青ひげ公の城』でした。実は僕は30代で役者を引退しようと思っていたんです。いろんな事情があって、主に映像ですけど、人前で演じることが恐怖でしかなくて、もう無理だと思っていました。そのときにパルコから声がかかって、じゃあこれを最後の作品にしてやめようと思ってやってみたら、ここにも演じる場所があると知って、演劇に出演するようになったわけです。『青ひげ公の城』の後で旅に出て、出会ったのが『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』。そんなふうに人生の転機にうまくはまっている。今はよくわからないけど、『三上博史 歌劇』ももしかしたら後年には自分について認識する作品になるかもしれないですね。どういう芽が出てくるのか楽しみです。