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イエロー・マジック・オーケストラ「1983 YMOジャパンツアー」解散じゃなくて “散開”

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1983年12月14日 イエロー・マジック・オーケストラのアルバム「サーヴィス」発売日

三者三様のスタイルで、さらなる音楽表現の可能性を模索したYMO


イエロー・マジック・オーケストラは思い出深いアーティストだ。彼らの原型だった “はっぴいえんど” やサディスティック・ミカ・バンドも好きだったし、坂本龍一にも友部正人のバックで演奏していた頃から注目していた。だから、あの3人が “イエロー・マジック” というコンセプトをもったグループを結成し、テクノという画期的スタイルで活動を開始した時も興味津々で、1978年10月18日に東京郵便貯金会館(現:メルパルク東京)で行われた、彼らの最初のライブにも行っている。

そして、最初は彼らのことを “変なことを始めた奴ら” とイロモノ扱いして、ほとんど無視していたメディアが、“YMOが海外で成功をおさめた” というニュースが伝わるやいなや、鮮やかな手のひら返しで彼らを “時の人” に祭り上げていく様子も、その余波で起こった “公的抑圧” に翻弄されながらも、彼らが三者三様のスタイルで、さらなる音楽表現の可能性を模索して格闘していく様子も見てきた。だから、彼らについて語りたいことはいろいろとあるのだけれど、ここでは36年前の1983年11月から12月にかけて行われた『1983 YMOジャパンツアー』について触れてみたい。

最後のツアーとなる「1983 YMOジャパンツアー」


記憶がはっきりしないのだけれど、1983年の夏ごろだったと思う。YMOの事務所から、ツアーのパンフレット制作の依頼をもらった。この時、事務所のスタッフから、YMOが活動を停止するので、『1983 YMOジャパンツアー』が彼らにとって最後のツアーとなるということも聞いたはずだ。

彼らの活動停止については、それほど驚きはしなかった。というのも、この頃の彼らは、グループとしての活動よりもそれぞれ個人の活動にエネルギーを注いでいたし、この年の春に発表されたシングル「君に、胸キュン。」やアルバム『浮気なぼくら』には、歌謡曲のフォーマットとYMOのサウンドコンセプトを合体させて、ポップミュージックの可能性を探ってみようとする、いわば新たな歌謡曲の形を模索しているようなニュアンスも感じていた。

あえて言えば、この時点の彼らからは、グループとしてのYMOを推進していこうとするダイナミズムはあまり感じられなくなっていた。だから、遅かれ早かれ、その時は来ると感じていたのだ。もちろん、この時点ではYMOの活動停止については部外秘だった。だから、ツアーパンフでも解散には触れないことになり、メンバーそれぞれのインタビューを取り下ろした時にも、“活動停止” には触れないように話を進めた。

しかし、3人ともすでにYMOの活動停止については、それぞれの中で消化していたのだろう。活動の展望について前向きの姿勢で語ってくれた。その話を聞きながら、結成以来5年間のYMOとしての活動は、ものすごく濃い時間だったんだなあと実感しつつ、彼らはやるべきことはやり切ったんだなとも感じていた。だからこそ “最後のツアーで彼らが何を見せてくれるのだろう?” と興味が湧いた。今回のツアーで、演出に劇作家の佐藤信が起用されていたことも期待が広がる要因だった。

未来の可能性も込められている “散開”


佐藤信は “黒テント” で知られる演劇集団、演劇センターを率いて、唐十郎の “紅テント” こと状況劇場と共に1970年代の演劇シーンをリードしていった鬼才だった。彼が関わることでYMOのステージがどんな輝きを見せるのかは、“黒テント” ファンでもあった僕にも、なかなか想像できなかった。“明るくは、ならないと思うよ” と、パンフレットのインタビューで会った佐藤信は言った。

10月に入って、YMOの活動停止 “散開” が発表された。“解散” ではなく、メンバーそれぞれが散って自分の持ち場でさらに音楽を追求する。そしてその後は… 。“散開” という言葉には、そんな未来の可能性も込められていると思った。その発表の後、ツアーチケットは当然のようにプラチナチケットとなった。ツアーパンフもなんとか完成し、1983年11月23日、6都市9公演という『1983 YMOジャパンツアー』は、札幌の月寒グリーンドームからスタートした。札幌ドームができていない当時としては大型の会場だった。

おそらく、この時代に現在の設備環境があったとすれば、このツアーはドームツアーとして展開されていたことだろう。続く11月28日の愛知県体育館で、僕はこのステージを初めて観た。確かに、佐藤信が言うように、明るいステージではなかった。黒を基調としたゴシック調の祭壇を思わせるようなステージセット。この舞台美術を担当したのはステージ美術の第一人者、妹尾河童だった。

YMOが何をもたらしたのか問い直すステージ


重厚なセットに響くYMOのサウンドは、ある種の宗教音楽のようにも聴こえた。佐藤信は、演出のテーマを “プロパガンダ” と語っていたが、会場に響く音楽は、表面的な心地良さをもたらすのではなく、自分の身体の奥にある本能的な感覚が刺激されるような演奏だった。それは、彼らの最後の演奏を味わうだけでなく、1980年代初頭の日本にYMOの存在が何をもたらしたのかを、改めて問い直すステージでもあったような気もする。

ツアー中の12月14日、YMOはこの時点でのラストアルバム『サーヴィス』を発表。翌1984年2月には、『1983 YMOジャパンツアー』のライブアルバム『アフター・サーヴィス』を発表し、活動にピリオドを打つ。“散開していた” YMOが “再生” して活動を始めるのは、それから10年後の1993年のことだった。

Original Issue:2019/11/07 掲載記事をアップデート


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