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心の病の「豊かさ」を読む──斎藤環さんと読む、中井久夫の著作【別冊NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

心の病の「豊かさ」を読む──斎藤環さんと読む、中井久夫の著作【別冊NHK100分de名著】

思索する「こころの医師」・中井久夫を、斎藤環さんと読む

心の病とは、そして本当の「やさしさ」とは何か?

2025年6月に発売となった『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫』では、統合失調症の治療と探究、阪神・淡路大震災における被災者の心のケアなど、苦しむ人の心に寄り添い続けた精神科医・中井久夫の著作を、精神科医・筑波大学名誉教授の斎藤環さんと読み解きます。

中井久夫の論文やエッセイに込められた社会のあり方に対する深い洞察やケアの思想に満ちた箴言を丁寧に解説し、私たちへのヒントとしていく本書より、そのイントロダクションを公開します。

『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』書影

義と歓待と箴言知のひと(はじめに)

 本書は卓越した精神科医であり、日本を代表する知性でもあった中井久夫の著作を紹介するガイドブックです。

 中井の業績は、一人の精神科医の手になることが信じられないほど厖大なものです。臨床の技法としての「風景構成法」の導入、「寛解過程論」をはじめとする統合失調症研究、阪神・淡路大震災での被災を契機とした「こころのケア」とトラウマ理論の導入、語学の才を活かしたサリヴァン、ヴァレリー、カヴァフィスらの翻訳、「いじめの政治学」や「「昭和」を送る」をはじめとする、数々の名エッセイ。網羅的な紹介などとてもできませんが、せめて代表的な著作を通じて、その魅力の一端にでも触れていただくことを目指しました。

 私は精神科医ですが、中井の門下生ではなく、その著書を通して私淑していた一ファンに過ぎません。しかし、学恩という点から言えば、中井をほぼ唯一の恩師と考えています。

 私が中井の著書に初めて触れたのは、医学部を卒業して大学院に進んだ直後のことです。先輩の勧めで何気なく手に取ったのが、『中井久夫著作集』(岩崎学術出版社)の一冊、『分裂病』でした。一読して、圧倒されました。とてつもない教養と、あまりにも繊細な臨床眼、みずみずしくも重厚な文体。そのどれもが、それまで私が読んできたどんな学術書や小説にもないものであり、一つの論文にこれほど鮮烈な印象を受けたのは初めてのことでした。すぐに著作集を全巻買い集めて、夢中で耽読したものです。

 当時、バイト先の単科精神科病院で慢性の統合失調症患者を担当していた私は、閉鎖病棟の劣悪な治療環境に絶望しかけていました。中井の著書は、そんな私に“希望を処方”してくれました。著作の内容が読むそばから血肉化される、そんな読書体験は空前にして絶後のことでした。

 中井の仕事のすべてに通底しているのは、常に患者やマイノリティの側に立つという倫理観です。しかし、中井は単にやさしいばかりの人ではありません。不正義に対しては時に強い怒りをあらわにすることも辞さない、凜とした「義」のエートスを体現した人でもありました。

 また、中井は「歓待」の人でもありました。人であれ文章であれ、さまざまな対象と深く相互浸透し、そこから影響を受けて自らも変容してしまうところがあったのです。深刻な精神疾患の患者の治療後に、ひどく疲弊してしまった中井がマッサージを受けたら、そのマッサージ師も体調を崩してしまった、というエピソードは象徴的です。幸運にも私は何度か会食する機会がありましたが、談話の愉しさと中井がこちらに向ける「懐かしそうな顔」にも、歓待の精神があふれていたことを思い出します。

 知識欲が権力欲に転じることを嫌った中井は、意図的に自分の理論の「体系」を作りませんでした。そのアイデアはしばしば断片的な箴言の形で表現されるため、そうした知性のありようを私はかつて「箴言知」と評したことがあります。体系はしばしば視野を狭くしますが、すぐれた箴言には発見的な作用があります。中井が残した箴言の数々は、これからも私たちの導きの糸となっていくでしょう。

 本書では、膨大な中井の仕事の中から、四冊の著書と二つのエッセイを取り上げています。第1講で読み解くのは、精神科医・中井久夫が人生をかけた統合失調症論の集大成、『最終講義──分裂病私見』です。統合失調症の臨床の現場で中井が何を考え、何をしてきたのかが語られているのですが、決して専門家向けの閉じた講義ではなく、誰にでも読みやすい平易な言葉で、臨床経験に根ざした普遍的な知が語られています。統合失調症の患者や治療者はもちろん、そうではない人が読んでも人生に資するところが大いにあると思います。

 第2講の『分裂病と人類』は、すべての人に統合失調症を発症し得る可能性があり、人類史の中では統合失調症に親和性が高い気質の人が優位性を持つ時代があったかもしれないという大胆な仮説を提示した本です。精神疾患に対する偏見を取り払い、精神科医に限らず多くの知識人に鮮烈な印象をもたらしました。

 第3講で紹介する『治療文化論』は、私が個人的に中井の一番の名著だと思う一冊です。普遍的な診断と治療の基準からこぼれおちてしまう「個人症候群」という概念を新たに提示し、治療文化というものの価値を問うたこの本は、現代における「文化精神医学」や「医療人類学」の嚆矢といっていいと思います。

 第4講では、『「昭和」を送る』『戦争と平和 ある観察』という二つの本から、それぞれの表題のエッセイを読んでいきます。昭和天皇や反戦という題材を、政治性や党派性とはまったく別の文脈から論じた比類なき作品です。

 第5講では『徴候・記憶・外傷』を紹介します。本書の冒頭には名エッセイ「世界における索引と徴候」が置かれますが、それ以外の文章は、中井が六十一歳で阪神・淡路大震災を経験して以降に書かれたものです。必要に迫られて外傷論に取り組んだ成果として、多くのテキストが収められていますが、そのほかにも精神療法から身体論に及ぶ多面的な魅力を備えた名著です。

 多くの読書家は、著者の背景にどんな知識体系があるのかに関心を持ち、本からそれを読み取ろうとします。しかし、中井は意図的に体系化や物語化を回避していた人ですから、そうした読みにこだわる必要はありません。体系のない箴言の集積だからこそ、どの本から読み始めて、どんなふうに読んでもいい。気軽に読み始めて、気軽に立ち去る。そういう読み方でかまわないのだと思います。また、治療ならぬケアの思想に満ちた中井の箴言は、みなさんが自分の心のケアをする時にも、きっと役に立つはずです。

 本書をきっかけに一人でも多くの方が中井久夫の著作に触れ、中井が残した多くの知恵、やさしさと義の精神、他に類を見ない文体の素晴らしさを感じてもらえることを願っています。

本書『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』は、大好評を博した「NHK100分de名著 中井久夫スペシャル」の番組テキストに、後期の代表作『徴候・記憶・外傷』を読み解く書き下ろし新章を加えた決定版として、・『心の生ぶ毛』を守り育てる
・『病』は能力である
・多層的な文化が『病』を包む
・精神科医が読み解く『昭和』と『戦争』
・『記憶』がひらく新たな地平

という全5講義で、中井久夫の著作とその思想を紹介しています。

■『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』(斎藤環 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。

著者

斎藤 環(さいとう・たまき)
精神科医、筑波大学名誉教授。1961年、岩手県生まれ。医学博士。筑波大学大学院医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授を務める。2024年、つくばダイアローグハウスを開業。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学、ラカンの精神分析。一方で、時事問題から文学、美術、音楽、サブカルチャー全般に及ぶ評論活動を行う。著書に『ひきこもりはなぜ「治る」のか? 精神分析的アプローチ』(ちくま文庫)、『母は娘の人生を支配する』(NHKブックス)、『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)ほか多数。『心を病んだらいけないの』(與那覇潤氏との共著、新潮選書)で第19回小林秀雄賞を受賞。
※全て刊行時の情報です。

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