『幕府が取り締まった娯楽』松平定信もハマった江戸の戯作ブームとは?
江戸時代の文学にはさまざまなジャンルが存在しましたが、特に人々に親しまれたのが「戯作(げさく)」です。
気軽に読める戯作は、江戸時代後期に武士から町人へと階層を超えて広まり、大きなブームを巻き起こしました。
ブームを先導した戯作者たちの多くが、寛政の改革によってお咎めを受けることになるのですが、驚くべきことに、改革を進めた松平定信自身も戯作を書いていました。
今回は、若かりし頃の松平定信がしたためた戯作・『大名かたぎ』に迫ってみたいと思います。
松平定信もハマった江戸の戯作ブーム
戯作とは、娯楽に主眼を置いた通俗小説で、寛政の改革以前の主な担い手は、武士を中心とした知識人でした。
賄賂が横行し、才覚があっても出世が叶わない世の中で、暇をもてあましていた武士にとって、戯作は恰好の手なぐさみだったのです。
仲間内で楽しむことを念頭に置いていたため、彼らの書く戯作は身内にしか通用しない内輪ネタであふれており、理解するには知識や教養が必要とされました。
その一方で内容はどこまでもばかばかしく、「おかしみ」が第一とされ、戯作は仲間内の文芸として成熟していったのでした。
戯作には、黄表紙、洒落本、読本、滑稽本などのさまざまなジャンルがありますが、黄表紙のはじまりは、安永4年(1775年)に刊行された恋川春町の『金々先生栄華夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)だといわれています。
恋川春町の登場は「戯作ブーム」を加速させ、朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)や大田南畝(おおたなんぽ)、山東京伝などすぐれた戯作者が登場しました。
松平定信作『大名かたぎ』のあらすじ
「金々先生栄華夢」が刊行された安永4年、部屋住みだった17、8歳の松平定信は、黄表紙風の『大名かたぎ』を執筆しました。
『大名かたぎ』の主人公は、先祖の武功を鼻にかけ、いっぱしの武士を気どる大名です。
武芸も学問も、多少かじった程度の知識で屁理屈をこねくり回しては、知ったか振って「通」を気取り、周りが意見できないのをいいことにますますつけ上がる。
そんな殿様に困り果てた家臣たちが思案を巡らせ、殿の病を治すべく医者を呼んでくるのですが、
「殿はいわゆる「大名病」で、原因は「野暮」にある。当世の通人となれば病も癒えるだろう」
と医者は言うのでした。
医者の言葉に従って、家臣とともに芝居見物へと出かけた殿さまは、今度は芝居に凝りだす始末。結局、家臣たちの手に余る芝居かぶれとなってしまいました。
ある夜、芝居の稽古に疲れた殿様がうたた寝をしていると、唐人装束の老人が現われ、真の「通」について長々と講釈を垂れたところで殿様が目を覚まし、話は終わります。
戯作はたいてい内輪ネタ満載なので、身内であればこの大名が誰なのかすぐに分かるのでしょう。
通人を気取る大名を登場させ、「半可通」とよばれた通人かぶれへの痛烈な皮肉と風刺が綴られています。
意外な「べらんめえ」口調
面白いのは、夢の中に現れた唐人装束の老人が、町人言葉の「べらんめえ」口調で話す点です。
一部ご紹介します。
「銀煙管の脂さがり、茶返しの小紋に黒紗綾の半襟、またはぐっと黒仕立なども見得坊の不通さ。
四枚肩で七草を踏ませてゆく医者に上手はなく、太刀拵えの大小差した剣術使いに下手でねえはねえ。
摺鉢は飯櫃にならず、杓子は摺子木にならねえぞ。
何もかも掴込みのドンブリと心得て、紙屑も入れれば猫も入れるというような気取りになるから、裄丈の合はぬ着物を意気と心得、油もつけぬ髪を通と思うも、気取りの違ったことどもさ」
引用:森銑三著『古書新説』
「~さ」、「~ねえ」という威勢のいい軽やかな口調で、通ぶった自称通人を手厳しく批判しています。
寛政の改革によって退場した戯作者たちと親交を結んだ松平定信
黄表紙には、世の中をおもしろおかしく茶化す特徴があり、為政者や世相を格好の題材としていました。
しかし寛政の改革で、幕府は政治的な話題をとりあげた戯作者や版元を次々と処分していきます。
山東京伝は手鎖の処罰を受け、朋誠堂喜三二は主命により筆を折り、恋川春町は定信からの召喚を拒否して隠居し、亡くなりました。一説では自ら命を絶ったと言われています。
しかし、定信は芸術をこよなく愛した人物でした。
出版統制による処罰は、あくまでも幕府の最高責任者として法を遵守しただけだったのでしょう。
職を辞してからは多くの文人や絵師と交わり、文化の保護活動に励んでいます。
随筆『花月草紙』や、古物や古美術の図録集『集古十種』など、自身の手による著作は200にのぼり、文芸だけでなく美術にも造詣が深かった定信は、収集した浮世絵を『吉原十二時絵詞』(よしわらじゅうにときえことば)にまとめ、愛蔵していたそうです。
『吉原十二時絵詞』の前書きの上巻は大田南畝、中巻は朋誠堂喜三二、そして下巻は手鎖に処された山東京伝が担当しています。いずれも出版統制で退場させられた戯作者たちでした。
退任後、定信は知識人である彼らと意気投合したのでしょう。惜しむらくは、ここに恋川春町がいないことです。
運命の皮肉としか言いようがありません。
おわりに
江戸の戯作ブームは地方にもおよび、個人の楽しみとして書かれた洒落本や黄表紙が多数存在するそうです。
若かりし松平定信が黄表紙を執筆したのも、気晴らしの一つだったのでしょうか。
『大名かたぎ』は、八丁堀の屋敷の一室で文机を前に、ああでもない、こうでもないと目を輝かせながら思案している青年の姿を垣間見せてくれました。
参考文献
森銑三『古書新説』七丈書院, 国立国会図書館デジタルコレクション
鈴木俊幸『新版 蔦屋重三郎』平凡社
文 / 草の実堂編集部