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細野晴臣が日本の音楽シーンに与えた影響 ⑦ イエロー・マジック・オーケストラのシリアスな時代

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1981年03月21日 イエロー・マジック・オーケストラのアルバム「BGM」発売日

細野晴臣が日本の音楽シーンに与えた影響 ⑦

イエロー・マジック・オーケストラの過熱しすぎたブーム


1978年にアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』でデビュー。セカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年)で大ブレイクし、続く『パブリック・プレッシャー / 公的抑圧』(1980年)、『増殖』(1980年)も、それぞれオリコンLPチャートで1位を獲得。シングル「テクノポリス」(1979年)はオリコンシングルチャートで最高9位を、「ライディーン」(1980年)は15位を記録した。

歌謡曲界では、イエロー・マジック・オーケストラの影響を受けたサウンドが量産されるなど、彼らが音楽界に与えた影響は大きかった。また、1980年の『第22回日本レコード大賞』で優秀アルバム賞を受賞するなど、一躍時の人に。そして、2回目のワールドツアーを経て、アイドル的な人気の毎日に疲弊していった彼ら。そんな中、1981年1月に4枚目のオリジナルアルバム『BGM』のレコーディングに入る。

当時は、何をリリースしてもヒットが確実な状況だったからこそ、セールスを気にせずに自分たちの好きな音楽を作ることにした。また、過熱しすぎたブームから抜け出すという目的もあった。ところがバンド内には確執が生まれており、スタジオに3人が揃うことはほとんど無くなっていた。そのため、細野晴臣と高橋幸宏が主導する形でレコーディングは進んでいった。

ポピュラリティからは反したシリアスで内向的なサウンド


作業には、当時国内に2台しかなかった3M社の32chデジタル・マルチトラックレコーダーであるDMS(The Digital Audio Mastering System)が使用された。手法として、リズムパートをアナログ・マルチトラックレコーダーであるTEAC社のTASCAM 80-8に録音してからDMSにコピーして、全体の音圧をあげるもの。テープ・コンプレッションと呼ばれる手法の最初期のレコーディングだった。

また、機材としてはローランド社のリズムマシンであるTR-808が大きく活躍した。通称 “ヤオヤ” と呼ばれる機材で、商業的に大成功とはいえなかったが、最終的には世界中のあらゆるリズムマシンの中で最もヒットレコードに使用された機種となり、1980年代以降のポピュラー音楽に大きな影響を与えた発明と言われるほどになった。2019年には、保護に値する文化財として国立科学博物館が定める重要科学技術史資料(未来技術遺産)に登録されている。

レコーディングは、TR-808をループで流して、それを聴きながら作業を行っていた。無機質でミニマルなリズムを土台にして、ポピュラリティからは反したシリアスで内向的なサウンドを生み出していった。そこで生まれた細野と高橋の共作である「キュー」は、ウルトラヴォックスの「パッショネート・リプライ」の影響が強い楽曲だったが、その後のイエロー・マジック・オーケストラの核となる楽曲を生み出したという達成感を得ていた。ほか、細野は「ラップ現象」と「マス」を提供した。

『BGM』は1981年3月21日にリリースされ、オリコンLPチャートで最高2位を記録。チャートこそ2位だが、売り上げはオリコン調べで前作『増殖』の33.1万枚から17.5万枚に半減してしまった。それまでのカラフルでポップなサウンドからの反動で、難解な作品だと印象を与えてしまったのだ。発売当初は “暗い” とか “地味” と評されていたが、実際には核となった楽曲の「キュー」に関していえば、キーはGメジャーで、トニックコードの “G” とサブドミナントコードの “C” の繰り返しをベースとしており、決して暗いサウンドではない。

集大成ともいうべき作品「テクノデリック」


そして、本作が発売された3月21日には、3人はすぐさま集まり次回作『テクノデリック』の録音に入った。同作では、開発されたばかりのサンプラーであるLMD-649が使用されている。これは、東芝EMIのエンジニアだった村田研治のアイデアから生まれたもので、名称は、“ロジック・ムラタ・ドラム” の略称の “LMD” と、ロジックの語呂合わせから “649” とつけられている。本機を使用して、3人の共作による「新舞踏」や、坂本と高橋による「京城音楽」などを生み出した。

『BGM』では心身不調だった坂本は復調してシングル「体操」を提供。細野からの “ジョン・ケージの 「プリペアド・ピアノ」みたいなミニマルな曲を” という発注に応えて作曲を行い、細野と高橋が協力して完成。作曲に坂本とYMOの名前がクレジットされた。細野が単独で提供したのは、「灰色の段階」のみ。また、「手がかり」を高橋と共作で提供している。そして、坂本からの依頼でエレクトリックベースを「新舞踏」や「灯」でプレイ。坂本も久しぶりにアコースティックピアノを弾いており、彼ら本来のプレイヤーとしての部分もフィーチャーしたアレンジとなった。

6枚目のアルバムとなった『テクノデリック』は1981年11月21日に発売された。オリコンLPチャートは最高4位と、前作『BGM』よりも下げたが、彼ら自身は集大成ともいうべき作品を作り上げた。『BGM』『テクノデリック』と、イエロー・マジック・オーケストラでできることを究極までやりきり、2枚の先進的なアルバムを制作。バンドとしての到達点であり、バンドとしてのモチベーションは燃え尽きかけていた。

リリース後の同年11月24日から、全国9都市を回る国内ツアー『ウィンター・ライヴ1981』を開催。その後、新宿コマ劇場と新宿ツバキハウスで最後の公演を行った。そして、1982年に入るとイエロー・マジック・オーケストラとしての活動を休止したのだった。

参考文献:
『コンパクトYMO』(徳間書店 / 1998年)
北中正和 編『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』(平凡社 / 2005年)
鈴木惣一朗『細野晴臣 録音術 ぼくらはこうして音をつくってきた』(DU BOOKS / 2010年)
細野晴臣『アニエント・ドライヴァー』(マーブルトロン / 2011年)
藤井丈司 『YMOのONGAKU』(アルテスパブリッシング / 2019年)
門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』(文藝春秋 / 2020年)
吉村栄一 『YMO1978-2043』(KADOKAWA / 2021年)
『イエロー・マジック・オーケストラ 音楽の未来を奏でる革命』(ミュージック・マガジン / 2023年)
田中雄二『シン・YMO イエロー・マジック・オーケストラ・クロニクル1978~1993』(DU BOOKS / 2023年)

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