第16回エッセイコンテスト結果発表!【一般部門】
地域新聞社は今年もエッセイコンテストを開催しました。
2024年第16回の募集テーマは「ごめんね」。
一般部門は4月~6月に募集を行い、220作品の応募をいただきました。
その中から、最優秀賞、優秀賞に選ばれた3作品を紹介します。
たくさんのご応募、誠にありがとうございました!
最優秀賞「十二年前のあなたへ」
千葉県印旛郡酒々井町 高田 真実さん
私が卒業した小学校は、一学年三十数名という小さな学校だった。そのため、卒業式では一人ずつ壇上で将来の夢を発表してから証書を受け取る。例外なく私も胸を張って声を上げた。
「みんなを幸せにする小説家になります」。
四年生の時に書いた作文が先生に推薦され地域作文集に応募、かなりの倍率を潜り抜けて優秀賞をいただき、作品が文集に載った。この学校では十年ぶりの受賞だったようで、校長先生まで出てきて大層褒めてくださった。文章を書くことが楽しいと思うようになったのはこの時からだった。みんなが嫌がる作文の授業も私にとっては娯楽に等しく、いつしか小説家になりたいと思うようになっていた。
夢を宣言したあの日から倍の月日が経ち、今年二十四歳になる。高校卒業後すぐに就職し、事務員として働いている。進学しなかったのは小説を書くことに専念するため、ではなく、私が夢を諦めたからである。
中学、高校とそれなりの学生生活を送り、高校生の時には作文の県大会で二位を取った。しかし、ある時好きという気持ちだけでは小説家にはなれないのだと気が付き、夢は次第に萎んでいった。
十二歳の私が今の私を見たら何と言うだろう。思い描いていた姿と違う私を見てきっとがっかりするだろう。夢を膨らませていた十二の私に言いたい。ごめんねと。あなたの夢を叶えることができなくてごめんね。だけど、だけどこれも伝えたい。
物を書くことの楽しさを教えてくれて、ありがとう。
私は今の会社でお客様向けの大切な文書の校正を担当している。親ほど年の離れた上司の文書に赤を入れる。プライベートでは空き時間にエッセイを書いてインターネットに投稿している。たくさんの読者がいるわけではないけど、こうして文章を書くことの悦びから離れられないのは、あの時未来に夢を馳せた私がいたからだ。幼少の夢は叶わずとも、その心は紛れもなく現在の私である。
優秀賞「最期の『ごめんね』」
千葉県松戸市 三角 陽さん
2023年のGWが過ぎた頃、私の第一子が誕生した。私の母は非常に喜び、多くの友人に報告していた。結婚後、地元を離れた私に母は「早く会いに来てね。」と毎日のように連絡をしてきた。私は「1か月健診が終わったらすぐいくね!」と答えていた。
まさか息子が産まれた12日後、母が天国へ旅立つとは思わずに。
母は私が3歳の頃に乳がんを患ってから、30年近く転移や再発を繰り返しながらもパワフルに生きていた。どんな危機も乗り越えてきた母をみてきたので、5月の初めに「あとどのくらい生きられるかな?」とLINEを送ってきた時も私は「大丈夫だよ!前向きに!」と返信をした。まさにその頃、母を長年診てくれていた医師が「もうできる治療がない。」と母に伝えていたのだ。
今まで頑張れた気持ちが切れた瞬間からものすごいスピードで容態が悪くなり、父から「もうダメかもしれない。」と連絡が来た次の日に息を引き取った。私は出産してすぐだったこともあり、初孫を直接会わせてあげることも、私自身だけで会いに行くことも出来なかった。一人娘が産んだ孫を母がどれ程楽しみにしていたかと思うと涙が止まらなかった。
葬式の日、棺に入った母に私は泣きながら「ごめんね。」と言った。母ともっと一緒にいたかった、ありがとうと伝えたかった。様々な想いのこもった言葉だった。
母が亡くなる前の日、旦那と息子が同時に大きな欠伸をしている写真を送った。既読はついたが、返信は来なかった。それが最期だった。先日父からLINEがきて、私が送った写真に文字を打つ気力もなかった母が返信を打ちかけていたと連絡がきた。その写真をみると、笑顔の顔文字と最期を感じる「は、ら」と言う二文字。何としてでも会うまで生きたかったと言う母の力強さを感じた。
今でも会えなかったことを「ごめんね。」と時折思うが、自由に動けるようになった母が毎日会いに来ているとも思っている。
優秀賞「幻影」
千葉県佐倉市 熊谷 彩香さん
幼子が泣いている。私の心はチクリと痛む。
高校を卒業してすぐ母親になった。道行くひとに、若さ故の未熟さを嘲笑されてる気がして、思い返すと随分と肩肘張った子育てをしてきたものだ。
子は育てやすい子ではなかった。全然寝ないし、我慢できないし、すぐに泣く。「ママがいい」と、とにかく泣く。
人生の経験値が圧倒的に足りていなかった私に可愛がる余裕は少しもなくて、とにかく早く大きくなってほしかった。
毎日のクエストをただひたすらにこなしていたら、永遠に赤ちゃんだと思っていたあの子は、気づいたら中学生になっていた。
気づいたら、彼はもう私を求めて泣かなくなっていた。
彼が声を上げて泣かなくなった頃から、どこかの子が泣くと、時折、幼い頃の息子が姿を見せるようになった。京成線が見える田んぼ道で夕日に照らされながら「まだ電車を見たい」と泣く姿。近所のスーパーの通路で大の字になり、欲しいものを握って大声で進路妨害する姿。「まだ遊びたかった」と軽くなった自転車の後部座席からも声がする。
ある日、両手に荷物を持った私に「抱っこして」と両手を伸ばすあの子の幻影を見た。私は横を通り過ぎて歩いた。あの日と同じように。思わず下唇を噛んだ。このチクリとした痛みは、きっと忘れることはできないのだろう。
私の子育ては謝らなくてはいけないことばかりだ。謝罪文を書いたら、到底800字には収まらない。それに今更になって「あの時はごめんね。」と謝っても、「なにが?」彼は笑うだろう。もしくはとても心配されるかもしれない。
だから代わりに大きくなった息子を抱きしめる。『あの時は、優しく抱きしめてあげられなくてごめんね。』と彼の中にいる小さなあの子に届くように。