「悪魔」と非難された美貌歌人・原阿佐緒 〜世間知らずな学者が虜になり大騒動
明治末から昭和初期にかけて活躍した歌人、原阿佐緒(はら あさお)。
彼女はその詩才とともに、波乱に満ちた私生活でも注目を浴びた。
特に大正末期、物理学者であり歌人でもあった石原純との恋愛が報じられ、社会的な論争を巻き起こした。
妻子ある石原との関係が明るみに出ると、阿佐緒は新聞や雑誌で「妖婦」「悪魔」といった辛辣な表現で攻撃され、結果として歌壇の表舞台から姿を消すこととなった。
原阿佐緒の歌の中で最も知られているのは、彼女の処女歌集『涙痕』に収められた、この一首であろう。
「吾がために 死なむと言ひし男らの みなながらへぬ おもしろきかな」
「君のためなら死んでもいい!」と熱烈に言い寄ってきた男たちが、結局はみんな命を落とすことなく、彼女のもとを去り、元気に暮らしている様子を「面白いものね」と冷ややかに詠んだこの一首は、男たちの恋愛の軽薄さを皮肉った彼女らしい歌である。
そんな美貌の歌人・原阿佐緒の生涯とはどのようなものだったのか。
旧家の一人娘として生まれる。その後、上京し美術学校へ入学
明治21年(1888年)6月、原阿佐緒は宮城県黒川郡宮床村の塩や麹を商う旧家に一人娘として生まれた。
阿佐緒は恵まれた環境で大切に育てられ、小柄ながらも美しい少女へと成長していった。
しかし、明治33年(1900年)に父が33歳の若さで他界し、さらに半年後には祖父も亡くなるという不幸に見舞われる。
翌明治34年(1901年)、阿佐緒はこの悲しみを抱えながら宮城県立高等女学校(現・宮城県宮城第一高等学校)へ進学した。
しかし、入学から2年後、肋膜炎を患い中退を余儀なくされる。
療養生活の中で阿佐緒は『源氏物語』や翻訳文学を読むことで時間を過ごし、その影響から「女性の恋は本当に愛する者とは結ばれない」という悲観的な恋愛観を抱くようになったと言われる。
明治37年(1904年)、体調が回復した阿佐緒は日本画を学ぶため、母とともに上京。
当初は跡見女学校高等科への入学を目指したが叶わず、東京美術学校(現・東京芸術大学)の西洋画科に通っていた同郷の庄子勇の配慮で、日本女子美術学校(現・都立忍岡高等学校)に入学する。
この学校では下中弥三郎(後の平凡社創立者)が国語を教えており、阿佐緒は下中から短歌の指導を受ける機会を得た。
明治38年(1905年)、阿佐緒は充実した学生生活を送る一方、原家の養嗣子であった真剣(またち)が18歳で急逝するという新たな悲劇に直面する。
この出来事は阿佐緒にとって大きな衝撃となり、その後の人生にも影を落とすことになる。
妊娠、自殺未遂、離別などを経ながらも、歌人としての地位を確立
明治39年(1906)、当時、阿佐緒の学校では、有名な翻訳家である小原要逸が英語と美術史を教えていた。
ある日、何気ない会話をきっかけに小原は阿佐緒へ自分の翻訳書を贈ったり、彼女のもとへ行き英詩を教えたりするようになった。
やがて二人は関係を持ち、阿佐緒は妊娠する。
阿佐緒は学校にいられなくなり奎文女子美術学校へ転校したが、その後、小原に妻子がいることが発覚する。さらに小原は阿佐緒に堕胎薬を勧めるという非道な行為に及んだ。
失望した阿佐緒は短刀で胸を刺し自殺を図ったが、幸いにも病院で一命を取り留めた。
翌明治40年(1907年)、阿佐緒は長男・千秋を出産して帰郷。小原とは完全に別れを告げた。
この時期から阿佐緒は短歌に没頭し、自らの苦悩を詠むことで心の支えを得た。
そして明治42年(1909年)、『女子文壇』に投稿した作品が与謝野晶子の目に留まり、『新詩社』に参加することとなった。
以降、『スバル』や『シャルル』といった文芸雑誌に短歌を次々と発表し、注目を集めるようになる。
同時に、短歌結社誌『アララギ』の歌人であった古泉千樫との恋愛が始まるが、彼にも妻子がいたため関係は長続きしなかった。
その後、大正2年(1913年)に『アララギ』に入会し、処女歌集『涙痕』を出版。閨秀歌人としての地位を確立。『青鞜』にも作品を発表し、活発に活動を続けた。
その後、同郷の洋画家・庄子勇と交際を開始し、大正3年(1914年)に結婚。翌年には次男・保美を出産したが、庄子は画家としての成功を得られず遊興にふけるようになる。
阿佐緒は庄子と別居しながらも歌人としての活動を継続し、第2歌集『白木槿』を出版するなど着実に成果を上げた。
大正6年(1917年)、再び庄子と同居し妊娠したが、異常妊娠が判明し帰郷して入院。入院中、庄子からの連絡は一切なく、結局、大正8年(1919年)に離婚を迎えた。
こうした苦難の連続にもかかわらず、阿佐緒は自身の人生を短歌に昇華し、歌人としての地位を揺るぎないものにしていった。
物理学者・石原純との恋愛が大問題となる
大正6年(1917年)12月、入院中の阿佐緒を訪ねたのは、東北帝国大学の教授であり、日本にアインシュタインの相対性理論を紹介した物理学の権威で、『アララギ』の重鎮でもあった石原純であった。
この見舞いをきっかけに二人の交流が始まり、石原は次第に阿佐緒へ一方的に求愛するようになった。
当時、阿佐緒は庄子勇との離婚後、新たな恋人と交際していたが、それを知りつつも石原は執拗に彼女を追い続けた。
石原には妻と5人の子供がいたため、阿佐緒はその求愛を拒み続けていたが、石原が自殺騒ぎを起こしたことで最終的には受け入れた。
しかし、当時すでに物理学の権威者であり『アララギ』の重鎮歌人であった石原の行動は、個人の問題ではなく『アララギ』の面子に関わることであった。
『アララギ』の主幹である島木赤彦や斎藤茂吉らが石原に関係を断つよう説得を試みたが、石原の態度は変わらなかった。
そして大正10年(1921年)7月、石原と阿佐緒の関係が各新聞で一斉に報じられることとなる。
その内容は、阿佐緒を「妖婦」「悪魔」として非難し、彼女が世間知らずの学者・石原を誘惑したという論調で書き立てるものであった。
このスキャンダルにより、阿佐緒は『アララギ』から破門同然の扱いを受け、石原は「阿佐緒によって男女の真情を知った」と述べて妻子を捨てて、大学を辞職した。
さらに、阿佐緒を擁護した元恋人の古泉千樫や、親友の三ヶ島葭子も『アララギ』を退会せざるを得なくなった。
同年10月、阿佐緒は自らの苦難を短歌に昇華させた第3歌集『死をみつめて』を出版。この歌集は、彼女の新たな決意と再出発を象徴する作品となった。
その後、阿佐緒と石原は千葉県保田へ移り住み、大正11年(1922年)に新居『靉日荘』を完成させた。
阿佐緒は短歌や絵画に親しみ、穏やかな生活を送るようになった。
大正13年(1924年)、反『アララギ』の性格を持つ短歌雑誌『日光』が創刊されると、阿佐緒は石原や古泉、三ヶ島らとともに参加し、新たな場で創作活動を展開した。
同棲生活の終わりとその後
こうして保田で同棲を続けていた2人であったが、石原は妻と5人の子供たちへの仕送りを続けながら、さらに新居の建設に大金を投じていたため、生活は決して豊かではなかった。
また、石原は阿佐緒が家族や親友の三ヶ島葭子と会うことを許さず、阿佐緒は孤独を深めていった。
昭和2年(1927年)、三ヶ島が危篤との知らせを受けた際も、すぐに駆けつけることができず、最終的に三ヶ島を看取ることが叶わなかった。このことは阿佐緒にとって大きな痛手となった。
翌昭和3年(1928年)、石原に新しい女性の存在が発覚すると、2人の破局は各新聞で一斉に報じられた。この頃、阿佐緒は第4歌集『うす雲』を出版。恋愛や孤独を乗り越えながら、短歌に自らの思いを昇華させ続けた。
その後、阿佐緒は東京でバーに勤めたり、酒場を経営したりする生活を送る。また、彼女の半生をもとにした映画『佳人よいづこへ』に主演し、芸能の世界にも足を踏み入れている。
しかし、昭和10年(1935年)、酒場での生活に疲れ果てた阿佐緒は帰郷。その頃にはほとんど作歌をしていなかった。
帰郷後も、母の死や、映画監督として活動していた長男・千秋の事業失敗など、阿佐緒を襲う試練は続いた。
原家の土地や財産の一部を手放すことを余儀なくされるなど、辛い晩年を送った。やがて、阿佐緒は神奈川県で暮らす次男夫婦に引き取られ、昭和44年(1969年)2月、心不全のため80歳でこの世を去った。
多くの男性との交際やスキャンダルにより、「悪魔」とまで報道された阿佐緒であったが、彼女の生涯は恋愛に翻弄されながらも、短歌にその思いを託し、懸命に生き抜いたものであった。
参考 :
小野勝美 「涙痕 原阿佐緒の生涯」至芸出版社 1995
中江克己 「明治・大正を生きた女性」第三文明社 2015
文 / 草の実堂編集部