『苦海浄土』とは何か――若松英輔さんが読む、石牟礼道子 『苦海浄土』#1 【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
若松英輔さんによる、石牟礼道子 『苦海浄土』読み解き
命の尊厳を問う――。
工場排水の水銀が引き起こした“文明の病”「水俣病」について、患者とその家族の苦しみを、同じ土地に生きる著者が記録した『苦海浄土』。
『NHK「100分de名著」ブックス 石牟礼道子 苦海浄土』では、若松英輔さんが『苦海浄土』を、「水俣病」という固有名にとどまらず、人間の尊厳について普遍的な問いを発し続ける一冊として、ジャンルに縛られない新たな「文学」として読み解いていきます。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第1回/全7回)
『苦海浄土』とは何か(はじめに)
『苦海浄土 わが水俣病』は、一九六九年に刊行され、翌七〇年の第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれます。しかし、著者の石(いし)牟(む)礼(れ)道子は受賞を辞退しました。
理由は公表されていませんが、彼女の自伝を読むと、大きく二つあるのではないかと考えられます。
一つは、この作品がいわゆる「ノンフィクション」ではないこと、そしてもうひとつは、自分はこの作品の真の作者ではない、と石牟礼が感じていたところにあるように思われます。
近現代の文学では通常、作者がいて作品がある、作品は作者に属するものである、と考えられます。社会的にはもちろんその通りなのですが、『苦海浄土』をめぐっては、本質的にはそれとは異なる意味があります。
『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、という強い自覚が彼女にはある。表現を変えながら彼女はさまざまなところで、水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけだと語っています。
ノンフィクションでなければフィクションなのか、ということになりがちですが、私たちは、そもそも文学を、ノンフィクション、フィクションで二分しなくてはならないのでしょうか。
作家の遠藤周作が新約聖書にふれ、この書物は、文学としても、もっとも優れた作品であるといい、そこには事実だけではなく、その奥に秘められた真実も描かれていることを読者は忘れてはならないと語っていましたが、同じことは『苦海浄土』にもいえます。
本文でもふれますが、この作品の成り立ちをめぐって石牟礼と話をしたことがあります。そのとき彼女は、現代詩の枠組みを超えた新しい「詩」のつもりで書いた、と語っていました。
『苦海浄土』は、詩である、と聞くと何か違和感を覚えるかもしれません。ただ、ここでいう「詩」とは、単に文学の一形式としての「詩作品」であるだけでなく、文学の根源的な精神を表象する「詩情」の結晶である、と考えることができるのではないでしょうか。また、詩には決まった形式は存在しない、ということもここでもう一度思い出したいと思います。
ともあれ、『苦海浄土』という作品が、既存のどのジャンルにも当てはまらない、まったく新しい文学の姿と可能性を伴って現れた、二十世紀日本文学を代表する作品であり続けていることは、すでに動かせない事実となっています。
『苦海浄土』の第一部は、全七章からなる作品ですが、第一章から順に書かれたのではありません。第三章の「ゆき女(じよ)きき書」に当たる部分から誕生しました。それを核にして、あたかも何者かによって光が放たれるように作品世界が広がっていきます。
第三部までは公刊されましたが、第一部に続いたのは第三部『天の魚』(一九七四年)でした。そして第二部『神々の村』(二〇〇四年)が書かれたのです。
今回はそのなかでも特に第一部に軸足をおいてこの作品を読んでみたいと思います。この第一部は作家石牟礼道子の原点であり、それを読むことはおそらく現代日本文学の大きな岐路を目撃することになるからです。
時間は過去から未来へと進んでいく、私たちはそう信じて疑いません。しかし、この作品には、過ぎ行く時間とは別の永遠につながる「時」が描かれています。ある文章で石牟礼は、水俣病で亡くなった人は「未来へゆくあてもないままに、おそらく前世にむけて戻ろうとするのではあるまいか」(『水俣病闘争 わが死民』)とすら述べています。
計測可能な時間のなかで、すべてのことは過ぎ去ってしまうのか。けっして過ぎ去ることのない永遠に連なることが、この世にはあるのではないか。生命は滅びる。しかし、万物の「いのち」はけっして朽ちることがないのではないか、と全編を通じて読者に問いかけてきます。
『苦海浄土』を書いているときどんな心境でしたか、と彼女に尋ねたことがあります。しばらく沈黙してから彼女は「荘(しよう)厳(ごん)されているように感じました」と答えました。
「荘厳」とは、もともとは仏教の言葉で、仏の光によって深く照らしだされることを意味します。また、荘厳という言葉には人間の感覚を超えた響き、香り、輝きが広がり、また何ものかに包み込まれるような語感があります。真の意味における浄福と考えてもよいかもしれません。しかし、石牟礼が用いる場合には、特定の宗教的背景はありません。彼女が書くと、その底には留まらない広がりと深まり、さらには深い悲しみがあることに気づかされます。
荘厳の光は、苛烈な、ときに残酷なまでの苦しみを生き抜いた水俣病の患者とその家族の言葉にならない祈りによってもたらされている、それが石牟礼道子の強い実感でした。『苦海浄土』を読む意味は、石牟礼を通じて、苦難を生きたものから発せられる「荘厳」の働きにふれることである、ともいえると思います。
『苦海浄土』は、単なる告発の文学ではありません。むしろ、光源の文学です。水俣病の原因を作った企業あるいは地方行政、国家行政の欠落を照らし出すだけでなく、言葉を奪われた人々の心の奥にあるものも、白日のもとに導き出すのです。
もしかしたら皆さんのなかには、『苦海浄土』を読もうと思ったけれど、誤った理解をしてしまうのが怖くて、あるいは悲劇にふれるのが恐ろしくて、これまで手に取らなかったという方もいるかもしれません。私にもそういう時期が長くありました。
しかし、そもそも「正しい」読書方法などあるのでしょうか。文字の正しい読み方はあります。しかし、本の正しい感じ方などありません。百人の読者がいれば百通りの『苦海浄土』があってよい。異なる読後感であっても、それが真(しん)摯(し)に語り合われるとき、そこには豊かな響き合いが生まれます。ただ、自分の読みが絶対だと思わないことは重要です。
文学がもし、言葉の芸術であるなら、それにふれる者は何を感じてもよいはずです。絵画を見るとき、音楽を聴くとき、彫刻にふれるとき、私たちはとても自由にそれらを認識しています。そして他者の認識をとがめない。どうして文学を読むときにはそれができなくなってしまったのでしょう。自分の認識をいつくしむことができず、自分と異なる感覚を認めづらくなったのでしょうか。
また、私たちは必ずしもこの作品を読み通す必要はありません。「読めない」のは、そこで立ち止まらなくてはならないからです。読書は旅です。むしろ、読み通すことのできない本に出会うことこそ、喜びなのではないか、と私は思います。「読めない」というのはじつに深遠な言葉との交わりであり、また豊(ほう)饒(じよう)な芸術の、あるいは人生の経験であることを忘れないでいただきたいと思います。
さらに、先ほどもふれましたが、この作品の語り手は石牟礼道子だけである、というところから、読者である私たちは一歩踏み出すことを求められているように思います。彼女の果たしている役割が、甚大であり、深甚なのは改めていうまでもありません。彼女こそ、現代日本が世界に、そして歴史に対して誇るべき屈指の書き手であるとも思います。そうした事実を踏まえてなお、彼女の言葉として読むのではなく、彼女に託された言葉として読む。本当の苦痛、苦難を抱えている人は、彼女の後ろにいるのだということを、私たちは見続けなければいけない。それが読者の役割であり、作者である石牟礼の悲願であるように思われるのです。
本当の芸術は、最後には人の心を慰め、励まし、そして、真実の美によって包み込みます。『苦海浄土』はそうした典型的な、しかし、現代日本ではじつに稀有な作品なのです。
本書が、そうした皆さんと『苦海浄土』の出会いの一助となれば望外の幸いです。
著者
若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。著書に『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)、『詩集 見えない涙』(亜紀書房)『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)、『イエス伝』(中央公論新社)、『霊性の哲学』(角川選書)、『種まく人』『常世の花 石牟礼道子』(以上、亜紀書房)、『若松英輔 特別授業『自分の感受性くらい』』(NHK出版)など多数。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■100分de名著ブックス『石牟礼道子 苦海浄土』(若松英輔著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*本書における『苦海浄土』の引用は、石牟礼道子『新装版 苦海浄土──わが水俣病』(講談社文庫、二〇一六年四月一日第二〇刷)に拠ります。『苦海浄土』の第二部にあたる『神々の村』、第三部にあたる『天の魚』からの引用は石牟礼道子『苦海浄土』(池澤夏樹個人編集 世界文学全集Ⅲ―04、河出書房新社、二〇一一年)に拠りました。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2016年9月に放送された「石牟礼道子『苦海浄土』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「『椿の海の記』の世界──語らざる自然といのちの文学」、ブックリストなどを収載したものです。