ジョニー大倉のポップンロール!ロック史に輝く伝説のバンド “キャロル” の創設メンバー
キャロルデビュー、ロックンロールの熱狂をもう1度
1972年12月、キャロルデビュー。ジョニー大倉を語るのであれば、やはりここを起点としなければならない。
アマチュア時代のキャロルは、フジテレビ系バラエティ番組『リブ・ヤング!』のロキシーファッション特集という一般視聴者参加企画に出演。これをきっかけにミッキー・カーティスと内田裕也がプロデューサーとして名乗りを挙げた。思惑は2人とも “ロックンロールの熱狂をもう1度” ということだったのではないか。時代は、フォークソングが主流になりつつあった。ミッキー・カーティスにしてみれば、自ら “ロカビリー三人衆” として一世を風靡し、グループサウンズへと引き継がれながら途絶えてしまった熱狂を取り戻したかったはずだ。
また内田裕也は、アメリカにおけるシャ・ナ・ナの活躍、翌年の1973年に公開される映画『アメリカン・グラフィティ』が起爆剤となる世界的なロックンロールリバイバルの空気感を敏感に察知していたのだろう。ちなみに内田は、キャロルのデビューと前後した1973年に “Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION” 名義で『ロックンロール放送局』という1950年代終わりから1960年代初頭にかけてロックンロール黄金期の名曲を集めたカバーアルバムをリリースしている。
キャロルのイメージを作りあげたジョニー大倉
時代の潮流に敏感なプロデューサー2人の目に留まったキャロルは、革の上下にリーゼントというビートルズのハンブルグ時代を彷彿とさせるスタイルだった。ここにジョニー大倉の甘く切ないボーカルと矢沢永吉のマッチョイズム溢れるエネルギッシュなキャラクターが溶け合い、唯一無二の輝きを放っていた。結局キャロルはミッキー・カーティスに身を預けることになるのだが、デビュー時に革の上下にリーゼントというスタイルを含め、2人のプロデューサーを魅了させたキャロルのイメージを作りあげたのはジョニー大倉である。
特筆すべきは、不良の象徴であるかのようなスタイルに相反した、内省的なリリックにあった。“ボク” という一人称を使い、英語と日本語とミックスさせ、感情の機微を極めてわかりやすい言葉で伝える。ジョニーは “キャロルの詩人” と呼ばれた。韓国に血筋を持ち、これをアイデンティティとした繊細な感性で日本語と向き合った作詞家としてのジョニーの功績は、後々の音楽シーンに多大な影響を与える。
ロックンロールカルチャーへの深い愛情と、ガラス細工のように壊れやすく繊細な言葉がジョニー最大の魅力であった。キャロル解散後、これまでの活動にケジメをつけ、“タキシードでバラードを歌う” 矢沢に対し、ジョニーはキャロルのイメージをそのまま持ちながらソロ活動にシフトした。そしてこれは晩年まで続くことになる。
ジョニー逝去10年目にリイシューされた「ポップン・ロール・コレクション」
今年2024年はジョニーが逝去してから10年目にあたる。このメモリアルに合わせてユニバーサル ミュージックより、ソロ活動最盛期の1977年にリリースされた2タイトル『ポップン・ロール・コレクション』と『ロックン・ロール・ドキュメント’77』が最新リマスター&紙ジャケでリイシューされる。
ここで注目したいのは、『ポップン・ロール・コレクション』だろう。キャロル解散後、クールス、チェリーボーイズという後進たちが継承した “ジャパニーズ・グラフィティ” ともいえる日本においてのロックンロールリバイバルが定着した1977年に、まさしく真打登場と言わんばかりにリリース。バッキングを務めるミッキー吉野をはじめとするミュージシャンが、時代に即した圧倒的な演奏力で甘く切ないジョニーの歌声をバックアップする。
エルヴィス・プレスリー「監獄ロック」、チャック・ベリー「キャロル」、リトル・リチャード「ルシール」というロックンロール黄金期の珠玉の名曲にジョニーが日本語歌詞をつけて、キャロル時代を彷彿とさせながらも1950年代を舞台にしたアメリカ青春映画のワンシーンを思い起こすような鮮やかな色合いを醸し出している。
自身のルーツへ最大のリスペクトが込められたリリックに注目
ジョニーならではの “言葉” に注目してみると、タイトル表記がすべて漢字になっていることが興味深い。
「監獄労苦」(監獄ロック)
「喜八露留」(キャロル)
「恋乃特効薬」(ラブ・ポーション NO.9)
といった具合である。こういった遊び心から始まり、リリックを紐解いてみると「監獄労苦」では、キャロルのヒット曲のタイトルを羅列。
ところが 彼は彼女のもの
緊急電話で ヘイ タクシー
なぐられ 恋の救急車
ラスト チャンスも くれないで
ファンキー モンキー ベイビーとなぐり込み
自身のルーツへ最大のリスペクトが込められ、ジョニーにとって自らが作り上げたキャロルがかけがえのないものだということを如実に表している。そして、そんな魅力を最大限に引き出しているのがロネッツ、シュレルズといったガールグループのカバーだ。
キャロル時代にも「レディ・セブンティーン」という名曲があり、女性目線での恋の歌を自らのものとして昇華させるシンガーであったが、ここでもそういった彼ならではの特性が、歌声の中でよりダイレクトに伝わってくる。特にロネッツの「美舞丙比」(ビー・マイ・ベイビー)はキャロル時代の切なさが胸につのるバラード「二人だけ」に匹敵する美しさだ。
時を経て開花した “ポップン・ロール” の世界観
ジョニーが種を蒔いたオールディーズのエッセンスは、お茶の間まで浸透し日本全国を席巻する本格的なムーブメントとなる。同年、ソニーは、アメリカの豊かさの象徴であった50年代のティーンエイジャーを思わせる “ジルバップ” という愛称のラジカセを発売。これに続き、レコードメーカー各社は自社の倉庫に眠っていた50年代後半から60年代初頭にかけてのアメリカのヒットナンバーを収録したオムニバスアルバムを続々とリリース。
同時期、原宿の歩行者天国で選りすぐりのオールディーズナンバーをラジカセで鳴らし踊る若者が登場。後にローラー族と呼ばれるようになる彼らの多くはキャロルファンであった。キャロル解散後ジョニーが作り上げた “ポップン・ロール” の世界観が時を経て、この瞬間に開花したのだ。