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【徳川四天王】家康の天下取りを支えた最強の家臣たち

草の実堂

画像 : 徳川四天王 public domain
画像:徳川家康像 photoAC

徳川家康は天下を掌握し、江戸幕府を開いた。

その家康を支えたのが、忠誠心と武勇を兼ね備えた家臣たちである。

中でも「徳川四天王」と称される四人の武将は、戦場で家康を支え続けた。

今回は、その個性的な彼らの人物像について詳しく見ていこう。

四天王筆頭 酒井忠次

画像:酒井忠次 public domain

徳川四天王の筆頭に挙げられるのが、酒井忠次である。

大永7年(1527年)に生まれ、通称は左衛門尉。四天王の中では最年長であり、家康の側近として最も長く仕えた。特に東三河の旗頭として名を馳せ、徳川家中で重要な役割を担った。また「海老すくい」という踊りが得意な一面もあった。

忠次はもともと家康の父・松平広忠に仕えていたが、家康が今川家の人質となった後も、松平家に残りながら忠誠を尽くした。家康の叔母を妻に迎えたこともあり、主従の絆は深かった。

桶狭間の戦いの後、家康の独立に伴い首席家老に就任。三河一向一揆では反乱鎮圧に尽力し、武田信玄の駿河侵攻時には今川領の割譲交渉を担当した。

また、姉川の戦いでは先陣を切り、三方ヶ原の戦いでは敗走する家康を救うべく、浜松城で篝火を焚き、太鼓を打ち鳴らして追手を欺いたという逸話が残る。

長篠の戦いでは奇襲策を献策し、織田信長から「海道一の武辺者」と称賛された。
しかし、家康の嫡男・松平信康が武田家への内通を疑われた際、信長への弁明に臨んだが、信康の切腹と築山殿の自害を防ぐには至らなかった。

小牧・長久手の戦いでは5,000の兵を率いて森長可を急襲するなど活躍を見せたが、その後、嫡男・家次に家督を譲り隠居。

徳川政権の成立を目前にした慶長元年(1596年)、70歳で生涯を閉じた。

徳川最強 本多忠勝

画像 : 本多忠勝 public domain

本多忠勝は、天文17年(1548年)最古参の安祥譜代・本多家に生まれた。通称は平八郎。
生涯を通じて家康以外の主君に仕えたことはなく、徹底した忠誠心と比類なき武勇で知られる。

忠勝の戦装束は、黒漆塗りの鎧に鹿の角をあしらった兜を被り、肩から数珠を掛けるという特徴的なものであった。そして手には、天下三名槍の一つと称される「蜻蛉切」を携え、戦場を駆け抜けた。

57回の戦に参加しながら、生涯かすり傷一つ負わなかったという逸話は、その武勇を象徴するものとして伝えられている。

13歳で元服すると同時に初陣を果たし、三河一向一揆の鎮圧で武功を挙げた。19歳の時には旗本先手役に抜擢され、徳川軍の最前線で戦う立場となった。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いでは、敵軍の圧倒的な戦力を前にして家康に撤退を進言し、自ら殿(しんがり)を務めて奮戦。その奮闘ぶりを見た武田方の武将からは、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称えられた。

さらに、織田信長は「花も身も兼ね備えた武将」と評し、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と称賛している。

また、本能寺の変の後、家康は堺からの帰路に明智光秀の軍勢を警戒しつつ、伊賀を経由して三河へ逃れた(神君伊賀越え)。この際、本多忠勝も家康の護衛として随行し、脱出に尽力した。

小牧・長久手の戦いでは秀吉軍を相手に奮戦し、天正18年(1590年)の小田原征伐後には10万石を拝領するなど、徳川家中でも屈指の大名となった。

関ヶ原の戦いにおいては、家康本軍に従い、前哨戦から奮戦した。また、加藤貞泰との交渉や、井伊直政と連署した書状による吉川広家らの東軍への寝返り工作にも関与し、家康の勝利に貢献した。本戦では90の首級を挙げる戦功を立て、戦後は伊勢国桑名10万石に移封された。

晩年は桑名藩主として藩政の基盤を整えた後、慶長14年(1609年)に隠居し、翌慶長15年(1610年)10月18日、63歳で死去した。

武威と智勇 榊原康政

画像:榊原康政 public domain

榊原康政(さかきばら やすまさ)は、家康だけでなく、その子・秀忠にも仕えた忠臣である。

天文17年(1548年)に生まれ、通称は小平太。13歳で家康の小姓となり、同年齢の本多忠勝と共に成長しながら武勇を磨いた。
また、優れた筆才を持ち、家康の書状を代筆することも多かったことから、知略にも秀でた武将であった。

康政の初陣は三河一向一揆の戦いであり、19歳の時には旗本先手役に抜擢された。今川氏の吉田城攻略にも貢献し、その後は徳川軍の中核として数々の戦に参戦した。

姉川の戦いでは、酒井忠次に続いて渡河を強行し、朝倉軍の側面を急襲。この働きは、織田・徳川軍の勝利に大きく貢献し、康政の名を広める契機となった。さらに、長篠の戦いでは、武田軍の突撃を迎え撃ち、本多忠勝らとともに奮戦した。

本能寺の変後の「神君伊賀越え」にも同行し、家康の無事帰還に尽力した。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉を挑発する檄文を書き、その戦術によって羽柴秀次軍を壊滅させ、森長可・池田恒興らを討ち取る大戦果を挙げた。

和睦交渉においても使者として重要な役割を果たし、その後は秀吉からも高く評価され、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜されている。小田原征伐でも徳川軍の先手を務め、軍事面での才覚を存分に発揮した。

関東移封後は、上野国館林10万石を拝領し、利根川の治水工事や街道整備に尽力するなど、行政手腕も発揮した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に随行したが、真田昌幸の上田城攻略に手間取り、美濃へ向かうのが大幅に遅れてしまう。
この結果、秀忠軍は合戦に遅参し、家康の怒りを買ったが、康政は秀忠の弁明に尽力した。

慶長11年(1606年)、館林にて死去した。享年59。

井伊の赤鬼 井伊直政

画像:井伊直政 public domain

井伊直政は、井伊家の正当な後継者であり、徳川四天王の中で最も若い武将であった。

鮮やかな赤い鎧をまとった「赤備え」で戦場を駆け巡り、「井伊の赤鬼」「人斬り兵部」と恐れられた。また、端正な容姿を持ち、家康の寵童であったとの逸話も残されている。

永禄4年(1561年)、今川家の家臣・井伊直親の嫡男として誕生。幼名は虎松。父・直親は桶狭間の戦い後に誅殺され、虎松も命の危機にさらされたが、井伊家の庇護を受けて成長した。
その後、15歳で家康の小姓となり、一時は松下氏の養子となったが、のちに家康の許しを得て井伊家の名跡を継ぎ、「井伊万千代」と称した。

高天神城の戦いなどに従軍し、22歳でようやく元服して井伊直政と名乗る。

本能寺の変後の「神君伊賀越え」にも同行し、家康の帰還に尽力した。

天正壬午の乱では、北条氏との講和交渉に使者として派遣され、家康が甲斐・信濃を獲得すると、武田遺臣117名を配下に迎えた。
この際、武田軍の装備に倣い、自軍を赤備えとした。彼らは小牧・長久手の戦いで顕著な戦功を挙げ、その名を轟かせることとなる。

直政は戦略・政略にも長け、豊臣秀吉からも高く評価された。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、徳川家臣の中で唯一夜襲を敢行し、戦功を挙げたことで上野国箕輪12万石を与えられた。

関ヶ原の戦いでは、家康の四男・松平忠吉と共に先陣を務め、敵中突破してきた島津軍を追撃。この戦いで重傷を負うが生還し、その後の戦後処理でも活躍した。戦功により、近江国佐和山18万石を拝領する。

しかし、関ヶ原で受けた傷が悪化し、慶長7年(1602年)に死去。享年42。直政の子孫は井伊家として存続し、江戸幕府の筆頭譜代大名として権勢を誇った。幕末には井伊直弼が登場し、歴史の舞台に名を刻むこととなる。

おわりに

徳川四天王は、いずれも家康を支えた武将であり、その忠誠と武勇によって徳川政権の礎を築いた。

彼らは徳川十六神将に数えられ、酒井忠次を除く本多忠勝、榊原康政、井伊直政の三人は「徳川三傑」とも称される。

彼らの活躍なくして、家康の天下取りは成し得なかったといえるだろう。

参考 : 『徳川実紀』『常山紀談』他
文 / 草の実堂編集部

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