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「出れば米兵に殺される」恐怖が招いた集団死 〜沖縄チビチリガマの悲劇とは

草の実堂

画像:4月1日沖縄本島に上陸するアメリカ軍海兵隊 public domain

沖縄本島中部に位置する読谷村(よみたんそん)は、座喜味城跡などの歴史遺産や美しいビーチに恵まれ、観光地や移住先としても人気のある地域である。

この地は、17世紀初頭に薩摩の琉球侵攻の上陸地とされた歴史を持ち、1993年の大河ドラマ『琉球の風』の舞台にもなった。

画像:大河ドラマ「琉球の風」の撮影に使われたオープンセット photoAC

一方で、太平洋戦争末期には南西部の渡具知(とぐち)の浜からアメリカ軍が上陸し、沖縄戦において激しい戦闘が展開された場所でもある。

沖縄戦では、軍人のみならず多数の住民が巻き込まれ、民間人だけでも約9万4千人が命を落としたとされる。
この数は、当時の沖縄県の総人口の約4分の1にあたる。

こうした民間人戦没者の中には、銃撃や爆撃によってではなく、アメリカ軍に捕まることを極度に恐れ、自ら命を絶った人々や、家族同士で命を奪い合うという悲劇に巻き込まれた者も少なくなかった。

その数は約1000人にのぼるとされている。

なぜ人々は投降して捕虜となることを拒み、自ら死ぬ道を、さらには大切な家族の命を奪う道を選んでしまったのだろうか。

今回は、戦時下の情報や教育がいかに人々の判断に影響を与えたのかを見つめ直すとともに、読谷村・チビチリガマで起きた集団死の記録から、戦争の残酷さと平和の大切さについて考えていきたい。

天然の防空壕として使用された“ガマ”

画像:鍾乳洞の入り口 沖縄玉泉洞 photoAC

「ガマ」とは、沖縄本島の南部によく見られる天然の洞窟(鍾乳洞)である。

その多くが古くは風葬の場としても用いられていたが、太平洋戦争末期には防空壕や避難壕として、また時には野戦病院として利用されるようになった。

読谷村波平に位置するチビチリガマも、そうしたガマのひとつである。

海岸からおよそ600メートル内陸に入った場所にあり、近くにはさらに規模の大きいシムクガマも存在し、直線距離で約1キロメートルほど離れている。

沖縄戦は、終戦の約5か月前にあたる1945年3月26日、慶良間諸島へのアメリカ軍上陸によって始まり、4月1日には本島中部の読谷村・渡具知の浜からアメリカ軍の本格的な上陸作戦が開始された。

これに先立ち、沖縄本島ではすでに空襲が激化しており、読谷村の住民たちは爆撃のたびにガマへと逃げ込んでいた。

特に3月下旬以降は連日昼夜を問わぬ攻撃が続き、村人たちは自宅を離れ、チビチリガマやシムクガマ、あるいは周辺の小さなガマへと避難し、そこで寝泊まりをしていた。

当時、チビチリガマには約140人、シムクガマには約1000名もの住民が避難しており、ガマの中は戦火の恐怖に震える人々で埋め尽くされていた。

シムクガマよりも海岸から近いチビチリガマには、4月1日の午前9時半から10時頃には、アメリカ軍の兵が到達したといわれている。

4月1日のチビチリガマの状況

画像:4月1日沖縄本島に上陸するアメリカ軍海兵隊 public domain

1945年4月1日午前、チビチリガマに到達したアメリカ兵は、ガマの入り口付近まで降り、日本語で「デテキナサイ、コロシマセン」と呼びかけたという。

当時の日本で推進されていた「軍国教育」は離島の沖縄でも行われており、鬼畜と教え込まれていたアメリカ兵が突然接近してきたことに、住民たちはパニックを起こした。

その場で、1人の若い女性が「恐れるな、竹槍で戦え」と呼びかけたことで、動揺していた住民たちは一時的に落ち着きを取り戻す。

避難していた人々は、アメリカ軍が大規模に上陸していた事実を知らず、少数の落下傘部隊が降りてきたのだろうと誤認していた。
敵の数は限られているはずだと考えた3人(若い女性1人と高齢の男性2人)が竹槍を手に取り、ガマの入口へ向かった。

3人は外にいたアメリカ兵に向かって突撃を試みたが、銃撃を受けて男性2人が重傷を負い、のちに死亡したとされる。

アメリカ軍はチビチリガマ内の避難者の保護を一旦諦めて、投降を促すチラシとともに、缶詰やチョコレート、タバコなどを置いていった。

アメリカ軍がガマの外から去った後、南方から帰還した元日本兵だという高齢の男性が「サイパンでは皆こうして自決した」と言って、持ち込んだ布団を燃やそうとした。

だが、幼い子をつれて避難していた4人の女性が、慌てて火を消したという。

4月2日のチビチリガマの状況

画像:『進め一億火の玉だ』(1942年)の歌詞と楽譜 public domain

翌4月2日の午前8時頃、再びアメリカ兵がチビチリガマにやって来た。

今度は武器を携えず、丸腰のままガマの中に入り、身振りを交えながら住民に投降を促したという。
ガマの入り口には、投降を呼びかける内容のチラシや、缶詰・チョコレート・タバコなどが残された。

しかし、前日に自決を試みた元日本兵とされる男性は、ガマ内で混乱する住民たちに「出れば殺されるぞ」と繰り返し訴え、配布されたチラシを「見てはいけない」と言って回収して回った。

逃げ場をなくした人々で過密状態になっていたチビチリガマの中には、動揺と混乱、そして絶望が広がっていった。

「自決する派」と「投降する派」で、意見の対立が生まれていたとされる。

再び元兵士が「昨日のうちに死んでおくべきだった」と呟きながら、持ち込んでいた布団に火を放とうとしたが、4人の母たちがまたその火を消した。

それでも、「捕まれば乱暴され、殺される」といった恐怖がガマの中に強く根づいており、住民たちのあいだには「ここで命を絶つべきだ」とする空気がじわじわと広がっていった。

当時の人々の判断を、現代の価値観で一概に断じることはできない。

戦時下の教育と情報統制の中で育った人々にとって、投降を拒むという選択は、むしろ「当然」とされる行動でもあったのだ。

チビチリガマの集団死

画像:多くの日本人が自決したサイパン島の通称バンザイクリフ wiki c JERRYE & ROY KLOTZ MD

騒然とするチビチリガマの中では、やがて極限の恐怖と絶望のなかで、悲劇的な行動が相次いだ。

証言によれば、1人の若い女性が母親に感謝の言葉を述べた後、「殺してほしい」と静かに頼んだという。
母親は娘の願いに応え、手にした包丁で娘の首を刺し、さらにその弟にも手をかけたとされている。

また、ある女性は満州で従軍看護婦をしていたが、この時は偶然帰国しており、家族と共にチビチリガマに避難していた。

彼女は、満州で民間人女性がいかに惨い仕打ちを受けたかを語り、手持ちの毒薬を親族や知人に注射して、最後は自らに注射して絶命した。

毒薬を注射されて静かに死んでいく彼女らを見て、注射を打ってもらえなかった周囲の人々は「あんなに楽に死ねるなんて」と羨んだ。

やがてガマ内には、持ち込まれた布団や衣類に石油がまかれ、火が放たれた。
洞内には炎と煙が充満し、避難者たちは逃げ場のない中で次々と命を落としたという。

こうしてチビチリガマに避難していた約140名中、83名が命を落とし、前日に竹やりで突撃後亡くなった2名を加えて、犠牲者は85人となった。

そしてそのうちの半数以上が、まだ18歳以下の子供だった。

一方で、煙に巻かれて苦しみながら死ぬより、外に出てアメリカ兵に殺された方がマシだと考え、ガマの外へ出た者もいた。

彼らはアメリカ軍によって保護され、捕虜収容所へと移送されて生き延びた。

避難者全員が助かったシムクガマ

画像:「降伏を促すビラを手に投降する地元住民」public domain

チビチリガマからおよそ1キロメートル離れた場所にあるシムクガマにも、当時約1000人の読谷村住民が避難していた。

しかし、避難者の命は1人も失われることなく、アメリカ軍に保護されて収容所へと移送されている。

2つのガマの運命を分けたのは、アメリカ軍に対する認識の違いと英語力だった。
アメリカ軍は、4月1日にチビチリガマに投降を呼びかけた後、シムクガマにも投降を呼びかけている。

シムクガマ内でもチビチリガマと同じように「投降せず自決するべき」という空気が広まり、シムクガマの警備にあたっていた少年たちが竹やりを持ってアメリカ兵に突撃しようとしたが、2人の人物がそれを止めたのだ。

その2人とは、ハワイ移民からの帰国者である、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(同63歳)であった。

アメリカ暮らしの経験を持つ彼らは、日本の軍国教育を本土ほどには受けておらず、英語も理解できた。
2人は沖縄の方言で「アメリカ人は民間人を殺さないよ」と避難者を諭し、自ら先にガマの外に出て、アメリカ兵と直接対話した。

彼らが英語で投降の意志を伝えたことで、アメリカ側も敵意がないことを理解し、ガマの中の住民たちは無事に保護された。

その結果、シムクガマに逃げ込んでいた住民は、全員がアメリカ軍に捕虜として救出され、後に読谷村に帰ることができたのである。

戦後、しばらく黙されたチビチリガマの惨劇

画像:チビチリガマ photoAC

沖縄戦では、チビチリガマでの犠牲を含め、兵士と民間人あわせて1000名以上が「集団自決」に追い込まれたとされる。
しかし戦後、読谷村の住民たちは、このガマで起きた悲劇について語ることを避けるようになった。

終戦後、読谷村一帯はアメリカ軍の管理下に置かれ、チビチリガマの存在も次第に人々の記憶から遠のいていった。
ガマの内部には遺骨や遺品が放置されたままとなり、一時は地域のゴミ捨て場として扱われていたとも言われている。

その沈黙を破ったのが、1983年にノンフィクション作家・下嶋哲朗氏によって行われた現地調査である。
この調査を機に、チビチリガマでの集団死の実態が公に知られるようになった。

1987年には、遺族らの手によってガマの入り口に「チビチリガマ 世代を結ぶ平和の像」が建立され、慰霊と記憶の継承を目的とした供養の場が整えられた。
しかし、この像は設置された同年、政治的な動機によって一度破壊されるという事件に見舞われた。

さらに2017年9月には、当時の出来事をよく知らなかった若者4人が、肝試し目的でガマを訪れ、「平和の像」を囲む石垣を壊し、内部の瓶や壺、千羽鶴を荒らすなどの行為に及んだ。

現在チビチリガマは、遺族会の意向により内部への立ち入りは原則として禁止されている。
ただし、入り口付近までは訪れることができ、「平和の像」や慰霊碑などを静かに見守ることが可能である。

この地を訪れる際には、ここが多くの命が失われた場所であることを心に留め、節度を持って慰霊の気持ちをもって接することが求められる。

受け継がれる平和を願う心

画像:読谷の夏 photoAC

現在の読谷村は、美しい自然と貴重な文化財、読谷山焼(ゆんたんじゃやき)や、読谷山花織(ゆんたんざはなうい)などの伝統産業とともに、沖縄上陸戦の入り口となった場所として、平和と命の大切さを語り継ぐ地となっている。

村内でも、実際に戦争を体験した世代は年々少なくなりつつあるが、平和を願う心を祖父母から父母、父母から孫へと、次の世代に伝える努力が絶えず続けられている。

チビチリガマの平和の像を壊した少年たちは、過去の出来事を学んで自分たちの無知を反省し、犠牲者の鎮魂のための野仏を制作するなどして、心を改めたという。

多くの犠牲者を出したチビチリガマと、全員が助かったシムクガマの明暗を分けたのは、より正確な情報と意思の伝達手段を知っている人物が、その場にいたかどうかだった。

80年前とは異なり、今は様々な情報や意見を簡単に知れる時代だが、自らの意思で選択して得ようとしなければ、どんな知識や情報も自分のものにはならないだろう。

「戦争はよくない」という言葉にとどまらず、なぜ戦争が良くないのか、平和な日常を守るためにはどうすればよいのかを考えていくことが、今を生きる私たち一人ひとりにとって大切なのではないだろうか。

参考 :
下嶋 哲朗 (著)『沖縄・チビチリガマの集団自決』
読谷村観光協会公式HP
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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