激昂した父に「ブドウ」をかけられて。老舗ワイナリーの5代目が挑む、土地と人の個性が息づくものづくり
山形県上山市の老舗、タケダワイナリーで社長を務める岸平典子さん。大学では微生物学の研究を行っていましたが、卒業後はワインづくりを学ぶため単身フランスへと渡ります。帰国後に直面したのは、跡継ぎのはずだった最愛の兄の死。先代の父との衝突も経験しながら、ワイナリーをさらに発展させるための改革を進めます。その過程で常に意識していたのは、100年以上続くタケダワイナリーにしかできない、山形らしさを大切にしたワインづくりでした。
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帰国後は家業のタケダワイナリーに入社し兄を手伝うという条件でフランスに留学した岸平さんでしたが、本場でワインづくりを学ぶことができる毎日は楽しく、「このままフランスに残ってもいいかな」と思ったこともあったといいます。ところが、ある日出会った1本のワインがその後の人生に大きな影響を与えることになります。
「現地で身元引受人になってくれていたフランス人の知人の元に、父から1990年に誕生したタケダワイナリーのトップブランドワイン『シャトー・タケダ』が送られてきたんです。一緒に飲もうと声をかけてもらい、一口飲んでみて衝撃を受けました。朝霧の向こうにそびえる蔵王連峰が浮かぶような、ふるさとの上山の景色を感じるような味わいだったのです」
難題だらけのワインづくり
ワインの世界では、味わいの決め手となる産地の風土や気候などの個性を「テロワール」と呼びます。シャトー・タケダを飲んだ瞬間に感じたのは、まさに上山を感じるテロワールだったといいます。
「荒削りな印象はあったものの、これぞテロワールだなと素直に感じました。そこで、『ワインづくりに一生をかけるのなら、気候条件や土地の特徴についても熟知している上山でやってみたい』と思ったんです」
生まれ育った場所でワインづくりに一生をかけたい。そんな思いを胸に帰国した岸平さんでしたが、タケダワイナリーに入社した当初は「帰ってこなければよかった」と思ってしまったと振り返ります。
その理由のひとつは、日本ならではの気候風土。ヨーロッパと比較すると一年を通じて湿度が高く、ブドウの収穫期には雨の日も多いため、病気になりやすいなど品質管理が大変だったのです。さらに、醸造所内では少しでも気を抜くとワインが腐ってしまうなど、乾燥した気候のフランスではなかった問題に思わず頭を抱えました。
「大学で微生物学を学んでいたこともあり、腐ったワインにうじゃうじゃと菌がわいている姿が見えるような気さえして困り果てました。今でこそ湿度の高さを有利に働かせようと思えますが、当時は『これからどうしていったらいいんだろう』と絶望感でいっぱいでしたね」
父と娘、それぞれの信念にかけて
そして、もうひとつの理由は会社での仕事の進め方と人間関係でした。
微生物学を学んだ過程で身につけた徹底した衛生管理と、フランス仕込みのワイン醸造のテクニック。これらを生かし、タケダワイナリーでのワインづくりの改革を進めようと思ったものの、社長を務める父親たちはなかなか首を縦に振りません。
醸造担当者からも、「社長からは何も言われていないのに、フランスに行っただけのお嬢ちゃんになんで口出しされなきゃいけないんだ」と一蹴されてしまいます。
父親をはじめ、タケダワイナリーのスタッフたちからは猛反発を受けましたが、唯一味方になってくれたのは兄の伸一さんでした。同じくフランスでワインづくりを学んでいた伸一さんは、岸平さんの思いも理解してくれていたといいます。
「当時は私も若く、生意気だったことも原因だと思います。それでも、『私はフランスでワインづくりを学んできたのよ。やり方を変えたらもっと良いワインができるのに』という思いが強く、ついきついい方をしてしまっていたのかもしれません」
父親との間に立ち、さながら防波堤のような存在となってくれていた兄。ところが、そんな伸一さんが1999年に急逝したことで状況はさらに悪化。父親との軋轢も日に日に高まっていきました。
ある日、より良いブドウを使ってワインをつくるため、状態が悪いものを捨てるために選果をしていたところ、父親に見つかってしまいます。
「父からは『大切に育ててもらったブドウを捨てるとは何事だ、今までのやり方を変えるな』と怒られてしまって。私も負けじと『良いワインをつくらなければ、これからのタケダワイナリーの発展はない』と言い返しました。すると、そのブドウを全て頭からかけられて…」
父親に「お前はもう帰れ、ここの社長はオレだ。二度と来るな」と怒鳴られてしまった岸平さん。そして、もう間を取り持ってくれる兄の伸一さんもいません。それでも、ひたすらワインづくりを学んできた岸平さんに、他に行くあてはありませんでした。
従来のやり方を貫きワインづくりを続ける父親たちを横目に、これまで通り出勤を続けながら、自らが信じた方法で仕込んだワインづくりを始めます。こうしてできた自信作の1本は、これまでのタケダワイナリーのワインとは全く違う出来だったといいます。
「夕食を食べていた父の前にどんと置いて、『黙って飲んで』と。ワインを口にした父の顔色が変わったのを見て『勝ったな』と思いました」
出来のいいワインという結果を出しながら少しずつ改革を進めていき、2005年には家業を継ぐことができなかった兄に代わり5代目の社長に就任。国内初の女性栽培・醸造責任者としての歩みを進めます。
もし兄が生きていれば、タケダワイナリーでのワインづくりに栽培と醸造の技術者として専念できた可能性もありました。岸平さんは「それはそれで幸せだったかもしれない」と話す一方で、それ以外の視野は得られていなかっただろうと振り返ります。
人がいてこそのテロワール
「経営者としてワインづくりに携わると、お客様に買ってもらうための方法や、 経営においては利益を出すための売り方、社内外との円滑なコミュニケーションについても考えなくてはいけません。そういったことを考え始めると、さまざまなことが急に見えてきたんです」
それは「自分は良いワインをつくる技術者だ」という自己中心的な意識だけだったころには見えていなかった景色でした。そして何より感じられたのは、兄が背負っていただろう重圧や責任。「もし兄が生きていたら、傲慢で独りよがりな技術者のままだったかもしれない」と語るほど、経営に携わるという経験は岸平さんにとって大きな転機となったのです。
2008年に開催された洞爺湖サミットでは、昼食会で各国の首脳にスパークリングワインの「ドメイヌ・タケダ《キュベ・ヨシコ》2003」が振る舞われるなど、タケダワイナリーのワインは国内外で高い評価を受けています。
世界中の愛好家をも唸らせるワインが生まれる背景には、ブドウの味わいを最大限に引き出すテロワールにあると岸平さんは考えます。
「上山は元々昼夜の寒暖の差も大きく、ブドウの栽培には適した気候なんです。栽培しているブドウも、デラウェアやマスカットベーリーAといった日本で長く栽培されている品種。また、農薬や化学肥料を使わない土を、健全な状態で管理した栽培環境を保ち続けてきているので、そうした地道な成果も味に出てきていると思います」
テロワールを構成するのは、土地と気候、風土、そして「人」。父親と兄も「この地に根を張り、ブドウをつくり、ワインを醸す。それがワイナリーなんだ。間違っても、原料や醸造を他の土地に依存する”ワイン屋”にはなるな」とよく口にしていたといいます。
良いワインをつくるために尽力している人々がいるということも、タケダワイナリーのワインが持つ唯一無二のテロワールだと岸平さんは話します。
良いワインをつくるための改革を続けながらも、100年以上前にワインづくりを始めた土地が持つ個性も蔑ろにしない。今は亡き兄が口にしていた言葉を、岸平さんは今でも大切にしています。
「兄は生前『自分たちはワイナリーの歴史の礎なのだから、その石のひとつにならなければいけない』と語っていました。同じ品種のブドウを栽培しワインをつくっても、その年によって気候などが違うため、毎年の課題も変わります。課題を地道につぶしていくことで、この土地らしいワインの姿もブラッシュアップされていく。繰り返すことを厭わない、それこそがタケダワイナリーが目指すワインづくりの真髄なのです」