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『ビカミング・モネ』―印象派の巨匠の代表的な15作品を分かりやすく紹介!

イロハニアート

ルエルの眺め

印象派の画家、と言われてまず第一に思い浮かぶ名前はクロード・モネだろう。 印象派や近代美術をテーマとする展覧会では、必ずモネの作品が展示される。2023年秋の『モネ 連作の情景』に始まり、2024年はモネとアメリカ印象派に着目した『ウスター美術館』展そして彼の代名詞とも言える連作〈睡蓮〉に焦点を当てた『モネ 睡蓮のとき』とモネを大きく扱った展覧会が開催された。 さらに2026年にはアーティゾン美術館でもモネ没後100年を記念した『クロード・モネ 風景への問いかけ』も開催される予定だ。この展覧会も、モネの描く世界の奥深さというものに改めて接する機会となるだろう。 印象派の代表格として、美術史全体の流れから見ても重要な位置を占めるモネだが、もちろん一朝一夕に「巨匠」となったわけではない。様々な人との出会いと別れ。「何が何でも描きたい」と思うモチーフを見出し、試行錯誤する中での成長。そして終の住処となったジヴェルニーでの「庭づくり」という新たな「表現」を得たこと。 必ずしも良いことばかりではなく、失敗や絶望に苦しんだこともあった。が、それら全ての経験が、彼を「巨匠」たらしめた。 この連載『ビカミング・モネ』では、モネが生涯に手がけた作品の中から代表作として15枚の作品を選び、紹介することで、モネが「印象派の巨匠」となって行った理由を立体的に浮かび上がらせてみたいと考えている。

モネ代表作①〈ルエルの眺め〉、1858年、丸沼芸術の森コレクション


〈ルエルの眺め〉1858年, Monet Veduta di Rouelles

, Public domain, via Wikimedia Commons.

風景画家モネの「原点」というべき作品。10代の頃のモネは、カリカチュア風の似顔絵を描いては小遣い稼ぎをしていた。が、ある日、地元ル・アーヴルの画家ウジェーヌ・ブーダンによって、モネは戸外スケッチへと連れ出される。

この時に、ブーダンの指導のもとに描きあげたのが、この〈ルエルの眺め〉である。モネにとって初めての油彩画であり、自然の美しさに開眼するきっかけにもなった。まさに人生を変えた一枚と言える。

モネ代表作②〈カササギ〉、1868~9年、オルセー美術館


〈カササギ〉1868~9年, Claude Monet - The Magpie - Google Art Project

, Public domain, via Wikimedia Commons.

パリに出たモネは、画塾でルノワールやピサロら後に印象派を結成する仲間たちと出会う。1866年頃からモネと仲間たちは、パリのバティニョール通りにあるカフェ・ゲルボアで、先輩画家マネを囲んで芸術論を交わすようになる。同じ志を持つ仲間たちと過ごす時間は、モネにとって大きな刺激となった。

ある日、カフェ・ゲルボアの集まりで、「影に色が存在するか」という話題が出たのをきっかけに、雪に落ちる影の色に興味を持ったモネは、本格的に雪景色の制作に取り組むようになる。〈カササギ〉も、その試みの中から生まれた一枚である。

モネ代表作③〈ラ・グルヌイエール〉、1869年、メトロポリタン美術館


〈ラ・グルヌイエール〉1869年, Claude Monet La Grenouillére

, Public domain, via Wikimedia Commons.

印象派の仲間たちの中でも、若い頃苦楽を共にしたルノワールは、モネにとって特に強い絆で結ばれた親友だった。若い頃、連れだってスケッチに出かけることもしばしばで、〈ラ・グルヌイエール〉もその中で生まれた。

この時、モネは水面のゆらめきをカンヴァスの上に再現すべく、新技法「筆触分割」を編み出した。技法は仲間にも取り入れられ、「印象派」の代名詞ともなっていく。

モネ代表作④〈印象・日の出〉、1872年、マルモッタン美術館


〈印象・日の出〉1872年, Monet - Impression, Sunrise

, Public domain, via Wikimedia Commons.

「印象派」の名称の由来ともなった、モネの代表作。モネが少年時代を過ごした港町ル・アーヴルの朝の風景を、「筆触分割」を用いて描きだしている。

第一回印象派展に出品するも、批評家は「描きかけの壁紙すら、この作品に比べれば完成されている」と酷評。さらに展覧会自体もこの作品のタイトルを文字って「印象派」と命名された。

モネ代表作⑤〈アトリエ舟〉、1874年、クレラー=ミュラー美術館


〈アトリエ舟〉1874年, Claude Monet The Studio Boat

, Public domain, via Wikimedia Commons.

アトリエ舟とは、平底舟の上に小屋を設えたもので、もともとはモネが先達として尊敬していたバルビゾン派の画家フランソワ・ドービニーが発明したものだった。1870年、普仏戦争から逃れてロンドンで、ドービニーと出会った際に、アトリエ舟のことを教えられたモネは、帰国後に自分でも製作し、使うようになる。

この水上アトリエによって、モネは陸からとは異なる視点を獲得し、水面や水辺の風景をモチーフに数多くの作品を生み出していく。まさにモネを「水辺のラファエロ」たらしめたアイテムと言える。

モネ代表作⑥〈散歩、日傘をさす女性〉、1875年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー


〈散歩、日傘をさす女性〉1875年, Claude Monet - Woman with a Parasol - Madame Monet and Her Son - Google Art Project

, Public domain, via Wikimedia Commons.

モネが最初の妻カミーユと出会ったのは、モネが25歳の時だった。以来、カミーユは〈ラ・ジャポネーズ〉など多くの作品でモデルを務めるうちにモネと恋仲になり、1867年には長男ジャンも生まれた。が、カミーユが労働者階級の出身だったために、モネの親族からは反対され、正式に結婚したのは1870年だった。

〈散歩、日傘をさす女性〉は、母子が共に登場する作品の一つ。二人の顔立ちは曖昧で、空を流れる雲や足元の草むらの描写に重きが置かれている。また、カミーユの被るベールは左から右へと吹く風を暗示し、その場に流れる穏やかな空気をも見る者に感じさせる。

モネ代表作⑦〈サン=ラザール駅〉、1877年、オルセー美術館


〈サン=ラザール駅〉1877年, La Gare Saint-Lazare - Claude Monet

, Public domain, via Wikimedia Commons.

サン・ラザール駅は、1837年に開業したパリで最古のターミナル駅である。ロンドン滞在中、モネは美術史上初めて蒸気機関車を描いたターナーの作品〈雨、蒸気、スピードーーグレート・ウェスタン鉄道〉を目にし、大いに感銘を受けていた。

自分もまた汽車を描いてみたい。その思いから生まれたのが、この〈サン・ラザール駅〉をはじめとする作品群である。

このオルセー所蔵の作品では、ガラスと鉄で造られた三角屋根の下で蒸気機関車が発着しようとする様子が描かれている。黒い煙突から吐き出された白い煙はある箇所では薄くなり、またある箇所では陽光を反射して色が変化している。モネがサン・ラザール駅の内外を舞台に描いた作品は、この作品も含め12枚に達した。

モネ代表作⑧〈死の床のカミーユ〉、1879年、オルセー美術館


〈死の床のカミーユ〉1879年, Claude Monet, 1879, Camille sur son lit de mort, oil on canvas, 90 x 68 cm, Musée d'Orsay, Paris

, Public domain, via Wikimedia Commons.

1871年から暮らしたアルジャントゥイユで、モネは上記の<散歩>をはじめ、妻カミーユをモデルにした作品を多く描き、充実した日々を送っていた。

が、1873年のパリの大不況の煽りで、モネは経済的な苦境に陥り、1878年にはアルジャントゥイユを離れ、家賃の安いヴェトゥイユへと引っ越す。同じ頃、印象派のパトロンの一人エルネスト・オシュデが破産し、家族と共にモネ家に転がり込んでくる。

2家族総勢12人による生活は、1878年に次男を産んで以来、体調を崩していたカミーユにとっても大きなストレスとなっただろう。1879年9月5日、32歳で亡くなってしまう。

モネは悲しみに打ちのめされながらも、一方ではカミーユの顔の上で刻々と変化していく青や黄色を観察し、描かずにはいられなかった。そんな自身の画家としての業を象徴するこの作品を、モネは生涯手元に置いていた。

モネ代表作⑨〈戸外の人物習作〉、1886年、オルセー美術館


〈戸外の人物習作〉1886年, Monet.012.sonnenschirm

, Public domain, via Wikimedia Commons.

「風景画のように、戸外の人物画を描きたい」
そのようなモネの思いは、義理の娘シュザンヌをモデルに描いた2枚の<戸外の人物習作(日傘を差す女)>となって結実した。
青空の下、パラソルを手に佇む白いドレスの女、というモチーフや構図は、かつて亡き妻カミーユをモデルに描いた<散歩>とよく似ている。
が、顔の造作を描かないことでシュザンヌの個性は消え、スカーフの動きやドレスの色合いによって、風や後ろからあたる陽光の存在を暗示する、風景の中の一つのパーツと化している。

モネ代表作⑩〈積みわら、夏の終わり〉、1890~91年、シカゴ美術館


〈積みわら、夏の終わり〉1890~91年, Wheatstacks (End of Summer), 1890-91 (190 Kb); Oil on canvas, 60 x 100 cm (23 5-8 x 39 3-8 in), The Art Institute of Chicago

, Public domain, via Wikimedia Commons.

モネの後期の画業を象徴する手法「連作」。これは一つのモチーフを同じ視点から、天候や時間帯など異なる条件の組み合わせのもとに複数枚描くことで、光の色や見え方の違いを浮かび上がらせるものだ。

この「連作」の手法を確立したのが、1890年から描き始めた<積みわら>シリーズである。最初は晴れの日と曇りの日、一枚ずつを描くつもりだったが、実際に描き始めてみると、それでは不十分なことがわかってゆく。

描いている間も変化し続ける光の変化に対応するため、モネは数枚のカンヴァスを同時に並べて描くようになり、最終的には25枚にも達していた。1891年、デュラン=リュエル画廊で公開されると大きな反響を呼び、作品はわずか数日で完売。大成功を収めた。

モネ代表作⑪〈ルーアン大聖堂、西ファサード、陽光〉、1894年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー


〈ルーアン大聖堂、西ファサード、陽光〉1894年, Claude Monet - Rouen Cathedral, West Facade, Sunlight

, Public domain, via Wikimedia Commons.

積みわら、ポプラ並木に続く、連作のモチーフとしてモネが選んだのは、中世に建てられたゴシック式の大聖堂だった。「石の刺繍」とも呼ばれる精緻な装飾が施されたファサードの上に落ちる陽光が刻一刻と変化する様を観察することは、これまでの二つに比べて遥かに難易度が高く、夜には悪夢にうなされたほどだった。

が、難しいからこそ挑戦しがいもあり、何よりモネ自身が「描きたい」と強く願っていたことが大きい。光は金色、影は青色で表されており、発表した時にはルノワールやドガら仲間たちを驚嘆させた。

モネ代表作⑫〈日本の橋〉、1899年、メトロポリタン美術館


〈日本の橋〉1899年, Bridge Over a Pond of Water Lilies, Claude Monet 1899

, Public domain, via Wikimedia Commons.

ジヴェルニーの静かで自然豊かな佇まいを気に入ったモネは、1890年に家を購入し、同地に根を下ろすこととする。終の住処を手に入れた彼は、前々からの念願だった庭作りに着手。特に大きな瓢箪型の池を中心に、竹や柳、藤など日本の植物を配した日本風庭園「水の庭」は、モネが「最高傑作」と自負するほどのものだった。

特に彼がこだわったポイントの一つが、若い頃から好きだった広重の浮世絵に描かれた太鼓橋だ。1899〜1900年にかけて、モネはこの「日本の橋」を題材にした作品を全18枚描いている。
むせ返りそうな緑の空間の中、睡蓮を浮かべた池の水面と、橋の硬質な質感がアクセントとなっている。

また、橋の両端が画面の端で断ち切られていることで、緑の空間が画面外にも続いていることが想像させられる。

モネ代表作⑬〈ウォータールー橋、灰色の天候〉、1903年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー


〈ウォータールー橋、灰色の天候〉1903年, Claude Monet - Waterloo Bridge, Gray Day

, Public domain, via Wikimedia Commons.

1899〜1901年にかけ、モネは留学中の長男ジャンに会いに、度々ロンドンを訪れた。当時のロンドンでは、冬になると石炭を燃やした煤煙の混ざった黄色がかった濃い霧が朝晩に発生していた。この霧の中では、行き交う人々も建造物も、テムズ川を行く小舟も全てが霞んでシルエットのように見えた。

この光景にモネは大いに興趣をそそられ、ロンドン滞在中、泊まっていたホテルの窓から見た国会議事堂やウォータールー橋、チャリング・クロス橋などの名所とテムズ川をモチーフに約100点もの作品を描いた。

この作品でも、霧の中で橋はシルエットと化し、かすかに光る川面と対比をなしている。ここでは建造物は、光や空気感を表現するための触媒として抽象化され、非現実的で神秘的な雰囲気が醸し出されている。

モネ代表作⑭〈睡蓮:朝〉(〈大装飾画〉部分)、1914〜26年、オランジュリー美術館


〈睡蓮:朝〉(〈大装飾画〉部分)1914〜26年, Claude Monet - The Water Lilies - Morning - Google Art Project

, Public domain, via Wikimedia Commons.

現在、モネの代名詞的存在である睡蓮は、モネ自身にとって「究極」のモチーフだったと言える。睡蓮の浮かぶ池の水面には、周囲の木々や空、光の色や風の有無など天候条件も反映される。つまり水面を見つめ、描くことであらゆる自然要素を表現することができる。

そんな睡蓮をモチーフにした作品は300点を超え、モネの全作品の約7分の1を占める。その最高峰であり、モネの画業の集大成とも言うべき作品が、現在オランジュリー美術館に飾られている全8点からなる大作<大装飾画>だ。

1911年に二番目の妻アリス、1914年に長男ジャンと家族を立て続けに亡くしたあと、その悲しみを乗り越えるべくモネは<大装飾画>の制作に打ち込んでいく。最終的に完成した8点の高さは2m、総延長は90mに達した。

モネ代表作⑮〈ジヴェルニーの薔薇の小道〉、1920〜22年、マルモッタン美術館


〈ジヴェルニーの薔薇の小道〉1920〜22年, Monet- Der Rosenweg in Giverny

, Public domain, via Wikimedia Commons.

晩年、白内障の症状に苛まれながらも、大装飾画の制作と並行して、モネは自宅や庭に散らばる橋や柳の木などのモチーフをテーマにした小型の連作の制作も続けていた。

その中には、赤やオレンジなど、これまで使わなかった強烈な色彩の多用や激しい筆致など、新たな表現が見られる。自宅に通じる小道を描いたこの〈ジヴェルニーの薔薇の小道〉もその一つで、道の両側に植った花々や上にかかる薔薇のアーチが渾然一体となり、強いエネルギーの渦となって絵の前に立つ者を奥へ奥へと引き込もうとしている。

それは、視力の低下と孤独に苦しみながらも、尚も生き、描き続けるモネの情念そのものと言えよう。生きることと描くこととがほぼ一体となった、晩年のモネの生き様は、まさに描くことに取り憑かれた「画狂」という言葉がふさわしい。

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