織田信長は、なぜ強かったのか? 〜実は「情報力」がカギだった
戦国を勝ち抜くために必要不可欠だった情報収集力
戦国大名にとって、領国の繫栄と衰退は自らの手腕にかかっていた。
戦国時代の繫栄とは、単純に言えば領土を拡大すること。そのためには、敵対するしないに関わらず、他の大名たちの動向を探る情報収集力はとても大切だった。
通信機器やネットを駆使することができる現在と異なり、戦国時代は情報収集手段が限られており、人の力だけが頼りだった。
情報というものは、単に集めて終りというわけではない。それは今も昔も変わらず、情報をいかに解釈して、活用するかが真の情報力といえるのだ。
織田信長は、戦国大名の中でも情報収集力に長けており、その活用力にも優れていたことで知られる。
今回は、信長がどのような方法で情報を収集し活用したのか掘り下げていきたい。
戦略的情報センターとして側室の実家・小折城を活用
織田信長の嫡子・信忠、次男・信雄の生母は、現在の江南市にあった小折城を居城としていた生駒家宗の娘である。
彼女の実名は定かではないが、『武功夜話』には吉乃の名で登場し、その法名を久菴桂昌という信長夫人(側室)として実在した女性だ。
生駒家宗は一城を構える土豪であるとともに、灰や油を商い、馬借を家業する武家商人だったと『武功夜話』には書かれている。
当時の貴重品である灰や油は、莫大な利益を生み出す。そして、馬借は今でいう運送業者で、依頼された荷物を馬に乗せ全国に届けた。
ただ、生駒家の子孫によれば「生駒家が商売をしていたという記録はなく、『武功夜話』による作り話で、尾張徳川家の家老を務めた同家を貶める話しだ」と、現在も反論している。
これについて考えてみると、生駒家宗は娘が信長の側室となった後、織田家臣団に属するのだが知行は2,000石弱である。
ところが小折城は、ナゴヤドーム15個分の敷地を有する広大な平城で、本丸・二の丸・三の丸・西の丸の他、幾つかの曲輪で構成されていた。
2,000石だと、その動員兵力は100人程度となり、ナゴヤドーム15個分もの広い城郭は、その人数では守るに足りない。
また、小折城は敷地こそ広大だが、屋敷とも呼べるような平城であり、籠城して戦うような要害ではなかった。
こうしたことから、同城には戦闘員以外の人々が滞在するための敷地が必要で、それが諸国をめぐる商人たちだったと考えられる。
また城内には、灰・油を貯蔵する倉庫、馬借で運ぶ荷を一時的に保管する蔵などがあったのだろう。
やはり戦国時代の生駒家は、武家でありながら商人として活動していた可能性が高いと思われる。
信長は尾張統一を成し遂げると、頻繁に小折城を訪れるようになった。それには、生駒家の娘との逢瀬の他に重要な理由があったはずだ。
この頃になると信長は、上洛に向け動き出す。
そして、美濃の斎藤龍興の駆逐し、幕府再興と天下統一の意を込めて「天下布武」の印の使用を始めるのだ。
当時、小折城には商いのために日本全国を回り、様々な情報に精通するたくさんの商人が出入りしていた。
また、馬借が扱う積み荷の多くは、京都の公家などから地方の戦国大名への献物、あるいはその逆のパターンもあり、馬借を家業としていた生駒氏のもとには、否が応でも日本各地の大名についての情報がもたらされた。
尾張における物流センターであった小折城は、いわば尾張のおける最大級の情報集中基地でもあった。
信長は、小折城を情報センターとして活用し、諸国から集まる貴重な情報を分析して、来るべき戦いの作戦を練っていたのだろう。
「桶狭間の戦い」を情報戦で制し、最大の危機を情報網で脱する
一躍全国区に登場する契機となった桶狭間の戦いでは、信長は持ちうる限りの情報力をフル活用した情報戦を展開した。
情報活動に参加したのは、小折城の生駒氏親族である川並衆の蜂須賀小六や、その義兄弟・前野将右衛門の一党だった。
ただ彼らは、当時はまだ信長の家臣ではない。木曽川の水運に携わる土豪集団として、営利目的に信長へ協力していたと考えられる。
小六は、三河国へ一党の者たちを散在させ、百姓に扮して今川軍に酒・食料などを献じて油断させ、その動向を随時信長に知らせていた。そして、信長率いる軍勢が桶狭間の今川軍を攻撃し始めると、織田軍に味方し今川軍への攻撃に参加したという。
しかし、この戦いの勲功第一とされたのは、義元本陣の位置を信長に知らせた土豪で信長家臣の梁田政綱だった。
小六や将右衛門はこれを大変不満に思い、これ以降は信長の直参にならず、羽柴秀吉のもとで働くことになる。
それはさておき、このことから、信長は川並衆以外にも多くの者を情報収集のために働かせていたことが分かる。
今川義元本陣への奇襲が成功したのは、情報収集網をめぐらし、集めた情報を正しく分析・活用した信長の能力があったからだった。
また後に信長は、最大の危機を情報力で乗り切っている。
それは、越前の朝倉義景を攻めた際、北近江の浅井長政の裏切りに会い、命からがら逃げのびた金ケ崎撤退戦だ。
この戦いでは、北近江の浅井長政が突如裏切り、信長は絶体絶命の状況に陥った。
『朝倉記』によれば、浅井氏の裏切りをいち早く察知し、信長に報告したのは近江・若狭方面の諜報活動を担っていた松永久秀であったとされる。信長はこの情報を基に即座に撤退を決断し、朽木谷の朽木元綱の協力を得て脱出に成功した。
朝倉氏をあと一歩で滅ぼせるという戦況の中、突如訪れた最大の危機を乗り越えることができたのは、やはり信長が築き上げた情報網の力によるものにほかならない。
方面軍を統率した3名の軍団長は、いずれも情報通だった
本能寺の変直前、織田軍は信長と嫡男・信忠を頂点とし、総勢20万を超える大軍を編成していた。軍は畿内・中国・北陸・関東・四国の五方面に分けられ、それぞれの軍を指揮する師団長が配置されていた。
このうち、畿内の明智光秀、中国の羽柴秀吉、関東の滝川一益という三方面の指揮官は、いずれも信長が天下統一の過程で登用した武将であり、とくに明智・羽柴の二人は後発の家臣であった。
信長は、有能な人材がいると知ると積極的に採用したが、この3人にはある共通点があった。
それは、3人とも詳しい出自が不明で、それ故に織田家に加わる前に諸国を流浪したとされ、情勢に詳しい情報通ということだ。
羽柴秀吉は、農民ともそれ以下の身分出身といわれ、若い頃から針売りをしたり、武家の下働きをしたりして諸国を回っていた。『武功夜話』によると、小折城滞在中に信長夫人の推薦で信長の家臣となったとされる。
秀吉が織田家中で異例の出世を遂げていくのは、実戦での槍働きではなく、諜報・調略に長けていたからだ。
また、滝川一益も信長に仕えるまでの半生は全くの不明である。
甲賀の出身ともされることから、忍びの者との説もあり、秀吉同様、情報収集に基づく調略を得意とし、新兵器の鉄砲の名手でもあったという。
明智光秀の出自は、美濃の名族・土岐氏縁者との説が有名だが、斎藤道三亡き後は、諸国を流浪する生活を送っていた。
その後、しばらくは越前の朝倉義景の庇護下にあり、おろらくそこで知り合った足利将軍家奉行衆の細川藤孝に仕えたようだ。
藤孝のもとで頭角を現した光秀は、足利家との橋渡し的な役割で信長に近づき、やがて信長の重臣となり出世街道のトップに躍り出た。
彼もまた、若い頃からの流浪生活で身に付けた知識・交渉力・諜報力をフルに生かして、信長の信用を獲得していったのである。
おわりに
このように、最盛期の織田軍団を支えた方面軍の指揮官たちは、いずれも諜報や謀略に優れた人物であった。
彼らは、多くの大名やその家臣と関係を築きつつ、情報収集にも長けていた。
しかし、中には信長に知られれば不都合となる情報や関係もあっただろう。場合によっては敵対勢力と共有していたかもしれない。
現代のビジネスにおいては「報連相」、すなわち報告・連絡・相談が不可欠なルールとされるが、陰謀が渦巻く戦国時代においては、すべてを公にすることは命取りになりかねなかった。特に、猜疑心の強い信長のもとでは、慎重な立ち回りが求められたはずだ。
もし定説通り、明智光秀が本能寺の変の首謀者であったとすれば、光秀にとって何らかの不都合な情報が信長の耳に入った可能性も考えられる。
信長は情報を武器に天下統一へと迫ったが、最後にはその情報戦の中で、自らが標的とされる側になったのかもしれない。
参考 :
加来 耕三翻訳 武功夜話 信長編: 現代語訳 新人物往来社
桑田忠親著 信長公記 新訂 新人物往来社
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部