ガレージの中の勇者:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#20 ポルシェ904カレラGTS
輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し“の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。
私が高校生だったころに友人が撮影してきた写真だ。このカラープリントが1枚しか残っていない。1960年代後半から70年代初めのころ、私は教室でこれを見せられて声を出すほど驚いた、今でも大切な写真だ。
本題に入る前に長めの余談にお付き合いいただきたい。この連載は古希の記念にと2023年8月の誕生日にはじめた。1月あたり2本の掲載と心には決めてはいるが、果たされていないことが我ながら情けない。
自分で撮りためてきた写真を整理しているとき、それに添えたメモや、写真を見ていて思い出したことなどをベースにして、私的な独り言でも書いてみようと考えて書き始め、紙焼き写真やネガのデータ化も同時に進行していった。いずれ詳しく話すが、データ化にするためにiPhoneを使った簡易フィルムスキャナーを自作したほどだ。
当初はヒマつぶしの自分用データベース作りが目的だったから、公開の予定はなかった。写真を見ていると文章は浮かぶが、添える写真が1枚しかないなら子供のころから集めはじめたカタログを添えてみるものいいか、どちらもなければ仲間から借りるか……いやネットオークションで買ってしまうか……と、だんだん欲張りになって現在に至っている。
自宅のカメラ(オリンパス・ペン)は小学生の高学年から使い始めたが、中学に入ってから周囲の影響から自分のカメラが猛烈にほしくなった。貯金通帳を睨みつつ先輩にアドバイスを受けて、アサヒペンタックスSVと標準のタクマーレンズを入手してからクルマの写真が飛躍的に増えた。一眼レフがほしかった理由は、望遠と広角の交換レンズを揃えてクルマの写真をさまざまなシーンで撮り、自分でDPEしたかったからに他ならない。気に入ったカットは暗室に籠もって大きく引き延ばしてパネル貼りにし、アルバムにも貼った。暗室作業が自分でできるモノクロが主体だ。カラーはフィルムもプリントも高価であり、当初はごく少なかった。
本題に戻る。掲載した紙焼き写真は、このガレージの所在から近い私鉄駅に引っ越した友人のS君が、近くに「こんなポルシェがあった」と見せてくれた1枚だ。彼はそうクルマに詳しくなかったので、最初に「こんなかたちの、こんなポルシェ……」との目撃談を聞いたときには半信半疑だった。街の中で「ポルシェ904カレラGTS」に出会うなんで、あるはずがないと思ったからだ。親切なS君は、「個人のガレージだろうと思うから、本当は許されないだろうけど、道路側から撮影してくるよ」と言ってくれ、これだよと見せてくれた。
後日、彼に連れられて、カメラを携えて見に行った記憶がおぼろげにあるが、プリントもネガもまだ見つからない。記憶を辿れば、限られた小遣いで買う貴重なカラーフィルムだから、ハーフサイズのオリンパス・ペンを持っていったはずだが、あるいは904は置かれていなかったのかもしれない。
町歩きの時には使い慣れたハーフサイズのオリンパス・ペンをよく使った。ハーフサイズなら12枚撮りフィルムでもやり繰りすれば26枚は撮れるから、カラーはよほどのこと(大事なイベントなど)がない限り、ハーフサイズで使っていた。ハーフサイズのことは若い人は知らないだろうが、フィルムカメラの時代、通常ならライカ版1枚分の面積で、2枚が撮影できたことで、フィルム代金が半分になるのが大助かりだった。
このポルシェ904GTSはそのナンバーから持ち主が想像できた。1964年5月の第2回日本グランプリで優勝したオーナードライバーのS氏がまだ所有していることが想像できた。近くにポルシェのディーラーがあったから、その関係で駐車していたのだと想像してみた。
撮影場所と聞いた某駅周辺は、今やまったく風景が変わっているし、再訪してみてもわかるわけはない。雑誌の記者となってから、S氏と何度かお会いする機会があったが、いつもほかの話題で時間を使い切ってしまい、あの904についての質問をしないままに散会となって、やがて氏は旅立たれたことが悔やまれる。このクルマは、現在も国内にすみ続け、ポルシェ愛好家の元で大切にされているが、あれから一度も対面していない。再会の時を待ちましょう。いろいろな想い出が詰まった、大切な1枚の写真だ。
言い忘れたが、タイトルに使った写真は、904や911のデザインを手掛け、後にインダストリアル・デザイナーに転じたブッツィ・ポルシェだ。