『関ヶ原の戦い』島津家が見せた伝説の敵中突破「島津の退き口」とは
薩摩(現在の鹿児島県)を代表する武士といえば、島津家である。
その武勇と豪胆さは広く知られ、数々の戦いでその名を刻んできた。
特に、関ヶ原の戦いでの壮絶な「敵中突破」は、後世に語り継がれている。
関ヶ原の戦いで、島津家は何をしたのか、そして伝説的な「敵中突破」とはどのようなものだったのか、具体的に見ていこう。
九州平定を目指した島津家
島津家は、鎌倉時代から薩摩・大隈・日向(鹿児島県・宮崎県)にまたがる三州を治めてきた、由緒正しき武家である。
政変や戦乱に巻き込まれ、三州を失い、滅亡の危機に瀕したこともあったが、戦国時代までその家系を守り続けた。
島津家を語るうえで欠かせないのが、島津四兄弟の存在である。
長兄の義久を筆頭に、義弘、歳久、家久の四人は、それぞれが得意分野を生かしながら島津を発展させた。
義久は当主として三州の復帰を目指し、義弘は武勇を発揮して数々の戦場で活躍した。歳久は軍事と外交で義久を補佐し、家久は九州平定に向けた一連の戦いで現場指揮を執り、大きな役割を果たした。
島津家は、大友宗麟や龍造寺隆信といった九州の有力大名たちと戦った。この過程で三州復帰という目標は次第に拡大し、その勢力範囲は次第に九州全域へと広がっていった。
しかし、その前に立ちはだかったのが、天下統一を目指す豊臣秀吉である。
圧倒的な兵力を誇る秀吉の軍勢に対し、島津家は苦戦を強いられることとなる。
疲弊していく島津家
秀吉との戦いが続く中で、島津四兄弟の末弟であり、知恵者とされた家久が、天正15年(1587年)6月、秀長との交渉に当たった後に急死した。その死因については、鴆毒による暗殺説や病死説など諸説が存在する。
その後、秀吉は島津家を弱体化させていった。
次兄・義弘を当主格として扱う一方で、長兄・義久を冷遇し、さらに薩摩や大隈の一部に豊臣直轄領を設置するなど、分裂工作を図った。
さらに、文禄・慶長の役による二度の朝鮮出兵で、島津家は過酷な負担を強いられた。
物的・人的資源の消耗が進む中、梅北国兼による反乱(梅北の乱)が発生し、内政の不安定さも露呈した。それでも義弘は戦場で輝きを放ち、泗川の戦いでは少数の軍勢で明・朝鮮連合軍を撃退し、その武名を天下に知らしめた。
秀吉が没すると、義久は家臣の所領を元に戻すなど、島津の立て直しを図っていく。
しかしこの過程で、かつて宿老として島津家を支えた伊集院幸侃(こうかん)が、秀吉の下で島津家分裂工作に加担していたとして討伐された。
これに伊集院家は激怒し、庄内の乱を引き起こした。この内紛は関ヶ原の戦いの直前に発生し、徳川家康の調停により伊集院家は島津家に従属したが、この争いは島津家の疲弊を深める結果となった。
こうして、島津家は外敵と内紛の双方で消耗し、その勢力は徐々に弱体化していったのである。
関ヶ原本戦までの島津家の動き
関ヶ原の戦いを前に、徳川家康と石田三成を中心にした対立が激化する中、島津家も対応を迫られた。
しかし、度重なる戦乱や内乱による消耗で、十分な兵力を整える余裕はなかった。それでも次兄・義弘は、少数ながらも義勇兵を募り、軍勢を立て直そうと努めた。しかし、その規模は小さく、周囲からはあまり期待されていなかった。
当初、義弘は家康への協力を考え、徳川方に味方する意図で伏見城への入城を試みた。
しかし、城将・鳥居元忠は義弘の動きを事前に知らされておらず、これを拒絶する。
これに怒った義弘は方針を転換し、石田三成率いる西軍に加わる決断を下した。
石田三成との間の亀裂
成り行きで西軍に加わった義弘であったが、「戦う以上、勝利を目指すべきである」と、三成に対していくつもの策を提案したものの、これらは採用されなかった。
島津軍は、西軍内では少数の部隊(約1500人)に過ぎず、三成ら西軍首脳陣からは軽視されていた。
関ヶ原の前哨戦、美濃墨俣での撤退時、三成が大垣城への撤退を優先し、墨俣に布陣していた島津軍を置き去りにしたとする逸話もある。少数部隊ゆえに戦略上軽んじられる状況は、義弘をはじめ島津側の不満を募らせる要因となったと言えるだろう。
また、三成の戦術は信長や秀吉の戦いを模倣したもので、調略を駆使して敵を分断し、大軍勢で圧倒する方法を重視していた。
一方、島津家は少数で敵を誘い込み、包囲して撃破する「釣り野伏せ」と呼ばれる戦術を得意としていた。
こうした戦術観の違いも、島津軍の立場を孤立させる一因となったとも考えられる。
決死の中央突破と捨て奸「島津の退き口」
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、ついに関ヶ原本戦が始まった。
島津勢約1500人は戦場の端で沈黙を貫いた。三成から救援の催促があっても義弘は拒否した。寡兵の島津軍が敵と正面切って戦うのは不利だと判断したからである。また、寡兵だからこそ、三成に見捨てられる可能性もあった。
午後2時頃、小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなった。
三成をはじめとした諸将がバラバラに関ヶ原を離脱していく。しかし義弘は逃げることなく、敵の中央に突撃するという大胆な決断を下した。これは逃げる軍は弱くなるため、いっそのこと攻撃に転じて敵の混乱を誘うという戦術である。
馬に乗っている者は「我こそは義弘である!」と名乗りながら敵を翻弄し、島津軍は槍や鉄砲を振るい、徳川本陣に向かって一直線に突進した。
この戦いで、島津軍は徳川本陣に肉薄し、家康の四男・松平忠吉や井伊直政に重傷を負わせるなど大きな損害を与えた。
しかし徳川軍の追撃も激しく、島津軍は「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる戦法を用いて退路を確保した。
捨て奸とは、追撃してくる敵を足止めするために少人数の部隊を殿(しんがり)として残し、主力部隊が退却する戦法である。
殿の兵士たちは命を落とす覚悟でその役割を果たし、追手を引き付け続けた。この戦法により義弘自身は退却に成功したものの、甥の豊久をはじめとする、多くの将兵が命を落とした。
義弘が薩摩に帰還するまでには、数カ月に及ぶ苦難の道のりが続いた。
戦場を離脱した義弘は、大和三輪山平等寺に避難し、そこで70日間を過ごした後、摂津国住吉で待機していた妻を救出した。
その後、立花宗茂らと合流し、海路を通じて薩摩へ帰還を果たした。
生存者は、わずか80人ほどだったと伝えられる。
この壮絶な撤退劇は「島津の退き口」として知られ、島津家の名を後世にまで轟かせた。
おわりに
薩摩へ帰還した義弘は、徳川家康との和平交渉に臨んだ。
その結果、島津家は慶長7年(1602年)、薩摩・大隈の本領安堵が認められた。西軍に属した大名の中で例外的に領地削減を免れた背景には、家康が徳川体制への不満を持つ外様大名を刺激したくなかった事情もあったと考えられる。
こうして島津家は、西軍に属しながらも領地を守り抜くという極めて稀な成果を成し遂げた。
少数精鋭で周りから侮られようとも、義弘は「島津を守る」という目的をしっかり成し遂げたのである。
参考:『関ヶ原 島津退き口 – 義弘と家康―知られざる秘史』『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部