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「いい写真、撮ってくれたかい?」:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#27

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この連載では、私以外の個人に焦点を当てることは避けるようにしてきたが、今日はその足枷を外してみた。
 
インターネット配信で三船敏郎さんが主演する映画を観たことが、これを書く動機になったからだ。配信で観たあと、三船さんが出演した映画である『Grand Prix』のDVDを書架から取り出して、立て続けに観た。個人的には、モータースポーツを扱った映画の中では、秀逸だと考える作品が、ジョン・フランケンハイマー監督、ジェームズ・ガーナ主演の『Grand Prix』であり、私にはめずらしくDVDを買って、何度か観たことがあった。この映画は、ご承知のとおり、日本の新興自動車メーカーの“ヤムラ”がF1に出場するというストーリーだが、そのヤムラ社の創業社長を演じたのが三船さんだった。

それはともかくとして、そういえば三船さんがクルマに乗っている姿を撮影して、データ化してあったことを思い出し、すぐさまパソコンの画面に投影した(パソコンでは適切な用語ではないだろうが、この場合には最適だと思う)。
 
撮影したのは、1970年4月に東京プリンスホテルの駐車場で開催された、CCCJ(日本クラシックカー・クラブ)の公開イベントでのことだ。アイボリーホワイト(薄いイエロー?)にペイントされたMG TDが走ってくると同時に、私の周囲にいた大人たちが一歩前に出て、一斉にシャッターを切りはじめた。高校生の私たちはその様子に圧倒され、たじろいだ。中にはプロのカメラマンや雑誌記者もおられたのだろう、かなりの“圧”を感じたからだった。

さすがの私も、TDが私の真ん前に来たときにドライバーが三船さんであることはわかった。映画館で『Grand Prix』を観ていたからだろう。
 
そうした喧噪(?)の中で私と三船さんの目が合った。ちょうど私がファインダーから目を上げた時だったと思う。細かいことは忘却の彼方だが、これ以降は鮮明に覚えている。
 
世界的大スターは映画と同じ声で、私に向かって「写真は撮れたかい?」と口にした。「これからです」と私。それまで大人たちの気迫に負けて後方に追いやられていた私は、この言葉を切っ掛けに、最前列に“にじり出て”いた。
 
すると、私たちのためだけに(おそらく)、体を車内から外に乗り出して前方を見据えるかのようなポーズをとってくれた。大人たちにも取っていたポーズの再現だった。
 
私がシャッターを切ったころに、「いい写真、撮ってくれたかい?」とほほえみ、快調そうに走り去っていった。

シャッターチャンスに出遅れた高校生の写真小僧のために自ら写真撮影のためにポーズを取ってくれた。「いい写真、撮ってくれたかい?」と。(Mobi-curators Labo.)

一瞬のことでもあり、こんな好機にもかかわらず2枚しか撮影していなかったが、私にとっては会心の作になった。あとでこの光景を掲載した刊行物に同じようなカットが掲載されていたが、それを見て、私のほうがいいのではと根拠のない自画自賛をした記憶がある。いま見るとそれほどの出来はないが、自分でもほっこりする好きな写真だ。

「いい写真、撮ってくれたかい?」、「ハイ」と私たち。(Mobi-curators Labo.)

私的MG TDミジェットのことなど

私がクルマのことに気を留めるようになったのは、1964年の東京オリンピック頃だったと思う。クルマならトラックでもバスでもなんでも興味はあったが、身近だったのはタクシーだった。中でも乗車機会が多かったのは、最も初乗り料金が安価だった日野ルノーだった。母はガソリン臭いし、運転が荒いと眉をひそめたが、主婦の立場に立って、家計を優先してルノーを停めがちで、そのルノーの雰囲気が好きだった私は喜んだ。もっとも、庶民がタクシーに乗るのは雨の日に限られていたので、機会はそう多くはなく、私の周囲ではカーウォッチングが子供の遊びとして定着していた。

もちろんスポーツカーにも興味はあったが、横浜市内でも日本製スポーツカーに遭遇することは希有であり、見かけたら幸運を引き寄せた気分になった。対して欧州の小型スポーツカーを見かける機会は多い感じだった。その代表格はなんといってもMGであり、MGがスポーツカーの代名詞と化していた。日本映画でヒーローが乗るクルマはMGのTDかAと決まっていたかのようだった。
 
週末に駐留軍の住宅がある本牧や山手周辺、あるいは山下公園や元町あたりに行けば、スポーツカー・ウォッチングができたが、雑誌で見た真新しいMGBは希有で、むしろ曲線美のMGAが目立った。TDミジェットやその後継型であるTFミジェットもけっこうな数が走り、それらの古風なスタイリングがやけに印象に残っている。親戚の家の近くには、よく黒色のボディのTDが路上駐車していて、それを見つけると、飽きもせずに何度も見に行った記憶がある。撮影の機会はなかったのが、今となっては悔やまれる。
 
現在でもMGの名を聞くと、反射的に心が疼くのは、小学校から高校生時代に路上で見た、MGの姿と排気音が心にプログラムされているからかも知れない。

もうひとつ、TDには忘れ得ぬエピソードがある。1987年夏、マレーシア・シンガポール・ヴィンテージカー登録協会(MSVCR)が主催した“ディクソン・ヴィンテージ・エクエーター・ラン”に、TDのコ・ドライバーとして参加したことがあった。MGCC日本センターの熱心な会員がTDとYAサルーンの2台で参加することになり、旧知のSさんがエントリーしたTDのクルーとして誘われたのだった。

1987年夏、マレーシアとシンガポールを舞台に開催された、“ディクソン・ヴィンテージ・エクエーター・ラン”に、TDのコ・ドライバーとして参加した。TDの扱いを熟知したSさんのドライブで、TDを満喫し、TDのファンになった。このカットはゴール後に現地のカメラマンにプレゼントされたものだ。場所はゴム栽培の広大なプランテーション内の特設コースだと記憶している。

マレーシア国内ばかりでなく、橋を渡ってシンガポールにも及ぶコースが設定され、舗装路面だけでなく、ゴム栽培のプランテーション内を碁盤の目のように張り巡らされた狭い作業路を使う、迷路のような特設コースも存在した。気温も湿度も高めだったと記憶しているが、2台のMGは車齢も感じさせずに故障もなく完走を果たし、私はTDのタフネスぶりと快適さに感銘を受けた。参加時のメモを見ると、けっこうなハイアベレージのラリーであった。

このヒストリックカー・ラリー・イベントには、ヴィンテージカーのコレクションを所有するという、マレーシア・スランゴール州のスルタン(州の君主)である、シャラフディン・イドリス・シャー殿下が、自らのコレクションの中からMG J2ミジェットを選んで出走されていた。そのためなのか2台のMGで参加した日本チームは厚遇された感があり、スルタン主催の庭園晩餐会では上席が用意され、謁見の機会では皆より長めの言葉をかけてくださった。返礼に私が所属していた雑誌を献上すると、自ら手に取られて小脇に抱えられたのが印象的であった。他の参加者からの土産物は脇に立つ従者が受け取っていたのだった。
 
MGが取り持ったスルタン陛下との縁だったのかもしれない。

これは当時の高輪プリンスホテル内にあった古希殿を会場にしたMGデイの様子。MGデイには何度か誘っていただき見学に行った記憶がある。古希殿はヒストリックカーのクラブイベント開催には好都合な会場だった。(Mobi-curators Labo.)

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