カンボジア奇跡の水道――水道技術者の絆は、国境を越えた【新プロジェクトX 挑戦者たち】
長期の内戦で水道網が荒廃したカンボジアの首都プノンペン。汚染された水が原因で病が蔓延し、生きるための「水汲み」は子どもや女性にとってとてつもない重労働となり、復興を妨げていた。この町にきれいな水を届けるために、現地の技術者と、深刻な環境汚染と闘う中で技術を培った北九州市の水道局員による協同プロジェクトがあったことはほとんど知られていない。
時に命が危ぶまれる思いもしながら水道網を整えた技術者たちの奮闘を描いたノンフィクション『新プロジェクトX 挑戦者たち 4』の第二章「プノンペンの奇跡 希望の水道 国境を越えた絆」より、冒頭を特別公開。
プノンペンの奇跡――希望の水道 国境を越えた絆
カンボジアの復興へ、立ち上がった「水道一家」
内戦で破壊されたプノンペンの水道網
1970年代から内戦が20年以上続いたカンボジア。水道網は破壊し尽くされ、復旧しようにも、熟練の技術者は命を奪われていた。首都・プノンペンでは、7割以上の家庭に水道が届かず、住民たちは、川などからバケツで水を汲み、何度も家との間を往復していた。水汲みを担っていたのは女性や子どもたち。それは、とてつもない重労働であるとともに、子どもの学ぶ機会、女性の働く機会を奪っていた。
カンボジア国民にとって、水道の蛇口から清潔な水を汲める生活は悲願であった。汚れた水が理由で病気が蔓延する事態を打開する技術を求めていた。
この時、国境を越えて立ち上がったのが、福岡県北九州市で、人知れず水道の維持管理にあたってきた水道局の技術者たち。彼らの闘いの日々は、想像を絶する苦難の連続だった。犯罪者たちに貴重な水道を破壊され、プロジェクトのキーマンが命を奪われかける前代未聞の事件まで起きた。しかし、北九州の技術者たちは、諦めなかった。
彼らを支えたのは、公害を乗り越えた北九州のプライド、そして、カンボジアの技術者たちの燃えるような復興への情熱だった。
これは、「プノンペンの奇跡」と世界を驚かせた、日本とカンボジアの水道技術者の国境を越えた絆の物語である。
突然のカンボジアへの派遣依頼
1998(平成10)年12月、北九州市水道局(現・北九州市上下水道局)の給水部長、森一政のもとに、突然、ある依頼が舞い込んだ。
「半年間、カンボジアに水道技術者を派遣して、技術指導をして欲しい」
依頼元は、JICA(独立行政法人国際協力機構)。荒れ果てたカンボジアを立て直すため、内戦終結後、支援に奔走していた。急務だったのは、劣悪な水道環境の改善。
JICAが水道事業の支援を開始したのは、1993(平成5)年。首都・プノンペンの水道普及率はわずか25%だった。電気の供給も不十分で、主要浄水場のプンプレック浄水場も運転時間が限られていた。蛇口から水が出るのは1日10時間だけ。漏水も日常茶飯事だった。JICAは、崩壊した水道事業の立て直しのためのマスタープランを策定。フランス、世界銀行、アジア開発銀行などとともに、配水管網や浄水施設の全面更新を急ピッチで進めていた。
しかし、いくら施設を整備しても、適正に運転・維持管理できる技術者がいなければ意味がない。カンボジアには、優秀な技術者はほとんど育っていなかった。
背景にあったのは、1970年代後半、ポル・ポト政権下で行われた大量虐殺。過激な共産主義を掲げたポル・ポト政権は、都市の市民を農村に強制移住させ、抵抗する人々を殺害。さらに、教師や医師、研究者、技術者などの知識人を敵視し、虐殺の対象とするなど、残虐な統治を行った。優れた技術を持つ水道技術者も命を奪われていた。
世界の支援で作り上げられようとしている水道施設を宝の持ち腐れにしないためには、一刻も早く、技術指導を行う専門家を派遣しなければならない。そんな中、白羽の矢が立ったのは、深刻な環境汚染と闘う中で独自の技術力を培ってきた、福岡県の北九州市水道局だった。
北九州の技術者を育んだ、環境汚染との闘い
JICAの要請を聞いた時、森は劣悪な環境に苦しむカンボジアが、ふるさと・北九州のかつての姿と重なって見えた。
明治時代に官営八幡製鐵所が開設された北九州市は、日本の工業の中心地の一つであった。輸出入に適した港湾と、筑豊炭田で産出される豊富な石炭などを背景に、四大工業地帯の一角を占めていた。それは北九州で生まれ育った森にとって、非常に誇らしいことだった。
しかし、輝かしい経済発展は一方で、深刻な環境汚染をもたらした。「煤煙の空」と呼ばれた北九州地域の大気汚染は国内最悪クラス。工場からの未処理排水や生活排水が流れこんだ洞海湾は、「大腸菌も棲めない死の海」、市の中心を流れる紫川は「どぶ川」と言われるほど水質汚染が進んだ。
こうした状況を危惧した母親たちが「青空が欲しい運動」を展開し、市民と企業、行政は一丸となって汚染と対峙することになった。
「私が水道局に入った1972(昭和47)年は、深刻な環境汚染と闘っている真っ最中でした。汚染された水を浄化しなければ水道水が確保できない。技術の粋を集めて、どんな課題があっても先送りせずに解決していこうという気概で、北九州独自でいろいろなことをやってきました」(森)
技術者として、環境汚染との闘いに心血を注いできた森には、部下を指導する際の口癖がある。
「あごを出さんで、知恵を出せ」
「『屁理屈を考えるヒマがあったら、知恵を出して解決法を探し出せ』ということです。人間は言われたことをするだけだったら、いつまで経っても成長しない。難題を乗り越えるために試行錯誤を繰り返す中で、技術者は知恵をつける。北九州の水道局員たちは、そうやって厳しい環境の中でもがいてきたからこそ、技術が磨かれてきたんです」
「仕事即教育」で人を育てる
市民や企業、研究機関が行政と一体になって対策に取り組んだことで、北九州市の環境は大きく改善された。1980年代には、環境再生を果たした「奇跡のまち」として国内外に紹介されるようになった。
その一方で、森は、技術者が立ち向かうべき難題がなくなりつつあることに危機感を覚えていた。JICAからのカンボジアへの派遣要請が来た1998(平成10)年当時、北九州市は、水源開発などが一段落し、維持管理の時代に移っていた。このまま粛々と維持管理をこなすだけでは、技術者が育たない。森は、カンボジアへの派遣要請は、水道局の人材育成のチャンスだと考えた。
「水道事業を運営・管理するのは人なんです。モノやない。だから、人のレベルを上げていかないけんのです。人を育てるのにいちばん効率的なのは、仕事を通じて覚えていく『仕事即教育』です。日本にいたら人に聞けば教えてくれるようなことも、海外に派遣されたら何もかも自分でやらないといけません。それによって、格段に職員がレベルアップすると思ったのです」
異動願いを出し続けた男
「半年間、カンボジアに行ってくれないか」
森は、期待をかける中堅の技術者に声をかけた。
「カ、カンボジアですか?」
突然カンボジア行きを打診された給水部計画課の久保田和也は、頭が真っ白になった。カンボジアの印象といえば「内戦が何十年も続いた国」「地雷が埋まる国」。しかし、どうにも断れそうな雰囲気ではなかった。
1981(昭和56)年、地元の高校を卒業した久保田は北九州市役所に土木職員として就職。配属された水道局は、まったく志望していない部局だった。
「私が生まれたのは高度経済成長期の真っ只中だった1962(昭和37)年で、新しい幹線道路が次々と建設されて、北九州の街がどんどん賑いを増していました。地図に残るような仕事に憧れを抱いていたので、私は道路建設などを行う建設局を希望していました。しかし、実際に配属されたのは水道局。社会勉強が足りなかったのかもしれませんが、当時は、市役所が水道局をやっているのも知りませんでした。だから、水道局と聞いて正直『えっ?』と思いました」
当時の久保田の水道に対するイメージといえば、「蛇口をひねったら水が出る」ぐらいのものだった。希望する職場ではなかったが、公務員の人生は長いので、「最初だから、まあいいか」と受け入れた。
水道局は、強烈な結束で知られ、「水道一家」の異名をとっていた。水道局職員は、雨が降らなかったり、途中で管が破裂したりして給水にトラブルが起きたら、夜中でも総出で復旧にあたらなければならなかった。苦労が多いのに光が当たらない地味な仕事だと、久保田は感じた。
「地中の水道管を新しく入れたり、入れ替えたりする工事は、かなりの技術力を必要としますし、たまには徹夜で工事をしたりすることもあり、苦労が多いんです。でも、出来上がったら道路の下に埋めておしまい。苦労してやった成果が誰の目にも見えない。それは、『地図に残るような仕事がしたい』という私の夢とは、かけ離れたものでした」
市役所では1年に1回自己申告の機会があり、異動希望を書く欄もあった。久保田は毎年、「建設局で道路行政に携わりたい」と書き続けた。20代までは「いつかは道路に」という希望を持ち続けていた。しかし、異動願いを10年出し続けたが、叶わなかった。いつしか「自分は水道だ」と腹を括り、水道の仕事に邁進するようになった。
そして、物語は先ほどの場面に戻る。水道局で18年目を迎えた1998(平成10 )年、上司の森一政からカンボジア行きを打診された。久保田は「一晩、家族と相談させてください」と答えたが、結局は行くことに決めた。森の目に、「ノー」とは言えないような迫力を感じたからだった。
体育会系で親分肌の森。バンバンと指示を出すが、その分部下へのフォローも怠らなかった。慕う部下は多く、森を「親分」として、北九州の「水道一家」はまとまっていた。
久保田も、森を慕う部下のひとり。「親分」の本気の頼みを断ることなどできなかった。
「森さんは人を惹きつけるのが上手かったですね。無茶なことを言うし、口も荒いですけど、それでも皆が慕ってくる。私もいつかこういう上司になれたらいいなと憧れていました」
一方の森も、内戦後まもない異国の地で、道を切り開いていけるのは、久保田しかいないと思っていた。
「先頭バッターっていうのは、とにかく大変ですからね。久保田のたくましさに賭けたんです。あいつは、なんというか……側溝の水をすすってでも生き延びる人間ですから。向こうに行ってもやっていけそうなバイタリティーがあると感じて、第一号で送り出しました」
マニュアルに載っていないことが起きても、臨機応変に対応できる。久保田にはその力があったので、カンボジアに派遣するのは彼しかいないと森は感じていた。
感化し合う両国の水道技術者たち
赴任初日に受けた「衝撃」
1999(平成11)年4月、久保田はJICAの技術協力の専門家としてカンボジアの首都・プノンペンに渡った。だが、赴任初日、さっそくカンボジアの現実に衝撃を受けた。
「ホテルで蛇口をひねると、お茶の出がらしみたいな色の付いた水が出てきました。これではシャワーを浴びて、目に入ったら結膜炎になりそうな気がしたので、目をつぶって浴びました。口も固く閉じて浴びたので、本当に苦しかったですよ」
久保田のミッションは、プノンペンの水道を管理する水道公社で、職員たちに技術指導を行うことだった。日本人は久保田ひとりだけ。任期は半年だった。
「来たからには、お茶の出がらしのような水道水をきれいな水にしてやろう」
最初は意気込んでいた久保田だったが、長くは続かなかった。久保田には、プノンペン水道公社の中に個室があてがわれていたが、カンボジアの職員たちは、誰も近寄ってはこない。突然やってきた外国人の指導者に対して、どう対応すれば良いのか戸惑っていた。久保田の方から歩み寄ろうにも、お互い英語が流暢とは言えず、コミュニケーションも容易ではない。孤独な日々が1か月も続くと「もういいや。半年間、何もなく任期を終えよう」と投げやりな気持ちになり始めていた。
久保田は、妻と小学生の娘2人を北九州に残し、単身で赴任していた。1日過ぎるたびにカレンダーに×を書き込み、家族と会える日だけを心待ちにする日々が過ぎていった。
久保田の意識を変えたエク・ソンチャン
そんな久保田の意識を変えた男がいた。プノンペン水道公社の総裁、エク・ソンチャンだ。ある日、何の前触れもなく、久保田の部屋を訪ねてきて、唐突に言った。
「久保田、ゴルフを教えてくれないか」
当時、カンボジアはASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟したばかり。外交上、ゴルフは必須のものとなり、政府高官の間に空前のゴルフブームが到来した。エク・ソンチャンもまた、時流に乗り遅れまいとしていたのだ。
それからというもの、エク・ソンチャンは仕事が終わると久保田を誘い、打ちっぱなしの練習場に通った。休日には一緒にコースに出て、プライベートや仕事の話をした。そんな日々の中で、久保田はエク・ソンチャンの水道に対する熱意と、あまりにも壮絶な半生を知ることになった。
エク・ソンチャンの半生と夢
エク・ソンチャンは、カンボジア工科大学で電気工学を学び、大学卒業後は、高校で物理を教えていた。しかし、ポル・ポトが政権を握ると社会が一変。ポル・ポト派によって虐殺の限りが尽くされる中で、父、母、2人の兄、姉が命を奪われた。家族で生き延びたのは、エク・ソンチャンただ一人だった。
「ポル・ポトが政権をとった時、私は25歳で、一人プノンペンにいました。もし、故郷で両親と一緒に暮らしていたら殺されていたでしょう。食べ物はなく、手当たり次第に何でも食べていました。死ぬことはもはや普通で、恐怖すらありませんでした。しかし希望はありました。いつか、私たちは解放され、国を立て直す機会が来ると信じていました」
ポル・ポト政権崩壊後、官僚に転身し、1993年9月、プノンペン市水道局(現・プノンペン水道公社)の局長に就任。この時、彼は43歳。「水汲み労働から女性や子どもたちを解放する」という大きな夢を掲げた。
「子どもの頃、学校に行く前には、朝の4時から6時まで川に水を汲みに行くのが私の仕事でした。そして、学校から戻った後も、夕方の6時から夜の8時まで水を汲みに行っていました。水汲みは、市民にとってあまりにも大きな負担となっていました。もし、市民全員にきれいな水を届けられるようになれば、子どもはもっと学ぶことができるし、女性は子育てや仕事、社会活動に参加する時間が増えます。彼らこそが、将来のカンボジアの発展の源なのです」
「Do or Die」 汚職との闘い
水道の改善によって、この国の未来を切り開こうと燃える、エク・ソンチャン。しかし、局長就任後、彼の前に立ちはだかったのは、横行する職員の汚職と不正の問題だった。
「当時の水道公社の職員数は500人弱でした。きちんと仕事のできる人は、その内の50人程度だけ。さらに50人の内、30人から40人は汚職まみれでした。つまり、能力があって、汚職をしない人は10人ちょっとしかいなかったのです。私は、その10人ちょっとの人たちを集め、『Do or Die』だと訴えました。もし私たちが変革しなければ、この組織は死ぬにちがいない。死にたくないのであれば、やるしかないのだと」
エク・ソンチャンは、汚職の撲滅に力を注ぐとともに、JICAが策定したマスタープランをもとに、水道メーターの設置や料金体系の改定など、様々な改革に着手した。しかし、課題はまだ山積みだった。
中でも大きな課題は三つ。一つ目は、大量の漏水。当時、浄水場から送り出された水の半分近くが漏水で失われ、家庭に届いていなかった。二つ目は、久保田も赴任初日にホテルで味わった、劣悪な水道水の質。そして、三つ目が、水道公社の将来を担う、優秀な技術者をいかに育てるかという課題だった。
国境を越えたプロジェクトの本格始動
エク・ソンチャンの壮絶な半生と、水道にかける思いを知り、投げやりになりかけていた久保田の心は動いた。
「彼の思いに一歩でも二歩でも近付くような行動を起こさねばならない」
久保田は水道技術のイロハから、カンボジアのスタッフに教え始めた。まずは、水道管に棒を当てて、音で漏水の場所を特定する技術。すると、久保田の熱意に呼応するように、職員たちは片言の英語を頼りに、指導に必死に食らい付いてきた。
「怖いと思うぐらいの熱心さを感じました。昔、『巨人の星』という漫画で目の中が燃えている描写がありましたが、あれと同じです。本当に目の中に炎が見えるんです。『覚えたい、わかるようになりたい』という気持ちが伝わってきました。モチベーションの高さは、北九州の職員の比じゃないなと思いました」
カンボジアの職員たちは「こういう場合、どうしたらいいですか?」「今、現場がこういう状況なので、ちょっと見てもらえますか?」と久保田の部屋にひっきりなしにやってきて、教えを乞うた。職員たちの情熱に触れ、久保田は決意した。
「エク・ソンチャンが夢見る『水汲み労働からの解放』を実現したい。そのために、自分が持てる限りの技術を全力で伝えよう」
希望の水を届けるための、国境を越えたプロジェクトが、静かに動き出した。