第28回【私を映画に連れてって!】『青春の殺人者』『太陽を盗んだ男』の長谷川和彦監督との未完の映画企画をめぐる30年
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
これまでぼくが関わり公開された映画について書いてきたが、今回は成立していない映画に関して記してみようと思う。
映画が完成、公開されていないのに書くことは躊躇もあるが、1人の映画監督の執念や美学を自分なりに振り返りながら、未来に希望をつなげたいと……。
長谷川和彦監督作品との出会いは大学に入学して、ほどない頃だっただろうか。タイトルは『青春の殺人者』(1976)。原作:中上健次、主演:水谷豊、原田美枝子。千葉で起きた親殺し事件をベースにした短編小説の映画化だった。両親を殺してしまった青年と恋人の話。ATG作品でキネマ旬報1位。劇場で観た強烈な印象がいまでも甦る。「これこそ映画だ!」と。
二作目は『太陽を盗んだ男』(1979)。主演:沢田研二、菅原文太。中学校の理科教師が自宅で作った原子爆弾を武器に、警察に対してプロ野球のテレビ中継を試合終了まで見せるよう要求。当時の社会背景の中での、主人公の行動に思わず喝采を送ったりした。大好きな映画だ。
この時は、普通の大学生が映画を観ていただけなのだが、2年後にフジテレビに入ることになり、いきなり映画『南極物語』(1983)のスタッフになった。
「いつかは長谷川和彦監督の創った2本の映画のような作品に出合えたら……」
監督との出会いは1994年。岩井俊二監督が「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(1993年フジテレビ放送)で第34回日本映画監督協会新人賞を受賞した時だった。テレビドラマなのに映画監督新人賞は初めてで、その時の監督協会の理事長は大島渚監督、選考委員長(理事)が長谷川和彦監督だった。
大島理事長、長谷川委員長から挨拶があり、山口智子さんが花束贈呈をしたりして、なぜかぼくが挨拶をする番になった。作品にはタッチしていない僕がその場で挨拶をすることになったのは『Love Letter』(1995)という企画を、この秋(1994年)に長編映画デビュー作としてやる予定です……というのが理由だったのであろう。
初めて長谷川監督と会話した。
あれから30年以上・・どれだけの時間を共有し、何本の企画のやりとりをしてきたであろう。
▲1976年公開の長谷川和彦の監督デビュー作『青春の殺人者』。74年に千葉県市原市で起きた親殺し事件を下敷きにした中上健次の短編小説『蛇淫』をもとに、大島渚監督『飼育』、篠田正浩監督『瀬戸内少年野球団』などの田村孟が脚本を執筆。深い理由もなく行きがかりから両親を殺してしまった青年(水谷豊)と、その恋人(原田美枝子)の末路をドライな視線で描いている。17歳の原田美枝子が大胆なヌードシーンを披露し話題になった。後にインタビューの折、そのことに触れると原田は「若かったですね」と笑っていた。音楽を担当したゴダイゴは、サウンドトラックの全曲を英語詞で手がけた。撮影は吉田喜重監督『水で書かれた物語』、黒木和雄監督『祭りの準備』、篠田正浩監督『少年時代』などのベテラン鈴木達夫。水谷の両親役を内田良平と市原悦子、原田の母親役を白川和子が演じたほか、江藤潤、地井武男、桃井かおりも出演。キネマ旬報ベスト・テンの作品賞、監督賞(長谷川)、主演男優賞(水谷)、主演女優賞(原田)を受賞。
最初の企画としては『連合赤軍』だった。これはぼくが会う前から『太陽を盗んだ男』の次作として企画開発中だった。脚本家としても秀逸で『青春の蹉跌』(1974/神代辰巳監督)、テレビドラマでも「悪魔のようなあいつ」(主演:沢田研二/演出:久世光彦/TBS)など傑作の脚本も書いている。脚本家として優秀だったことがその後の映画製作に影響をもたらす一因にもなる。
『連合赤軍』だけでも何十冊の脚本がある。ただ、どうしても6時間以内の尺(長さ)にならなかった。赤軍派らの行動を、彼らの幼少期から描く。実話ベースとは言え、フィクションで、ある意味で「青春映画」だ。監督自体は左翼でもなく、どちらかと言えばノンポリに近い。普通に生まれた子どもが、どこかで左翼になり、あさま山荘事件のリンチにまで至ってしまう。行動よりも内面にせまった素晴らしいストーリーではあった。しかし、ノンポリに、実際の彼らの気持ちに迫るのは難しいことでもある。何度直しても決定稿に届かない。
この企画に関しては30年以上経った今も、終わりを迎えていない。その執念には頭が下がる思いである。20数年前になるだろうか、実際の連合赤軍の行動経路と同じように、数人のスタッフを引き連れて群馬山中へ、最後に軽井沢のあさま山荘まで行き、「この角度から撮影だな……」と言ったあとに、「河井!このあさま山荘(当時は空家)を買っておかなくては……」と軽井沢の不動産屋に値段を聞きにいったこともあった。
▲映画『連合赤軍』の組まれた製作スケジュール表と企画書。長谷川和彦監督の作品にかける執念が実を結ぶことを願わずにはいられない。
台本印刷、主要(予定)キャストと監督の対面での打ち合わせなど、2時間台の脚本になっていたら何回か具現化のチャンスはあった。現在だったら配信ドラマの可能性もあるのだが……。
2つの出来事があり、映画化が厳しくなった。1つは元、同じディレクターズ・カンパニーのメンバーの高橋伴明監督が『光の雨』(2001)を撮りたい! とゴジさん(長谷川監督の渾名)に話に来た時だ。立松和平さんの原作で、連合赤軍事件を描いた小説だが、映画は劇中劇の体裁をとり、「原作」としての表示はない。ただ「連合赤軍側」の映画としてはこれは最初である。長谷川監督はその20年前から「連赤」に拘りやってきたので、あるショックは隠せなかった。ただ、ゴジさんの連赤はオリジナルなので他の人が連合赤軍映画を創るのは自由である。
ディレクターズ・カンパニー(通称ディレカン)は1982年に設立した、長谷川監督を代表に映像作家9人が起こした映画製作集団。石井聰互、井筒和幸、池田敏春、大森一樹、黒沢清、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎ら、30代前半中心の俊英たちである。博報堂を辞めた宮坂進さんが社長になり、映画、テレビ、PVまでビジネスマインドを持ちながら基盤のある映画製作を目指したのだった。
結果、10年後の1992年に倒産してしまう。プロデューサー側の問題も問われた。それでも長谷川監督以外の監督は作品を製作し、『逆噴射家族』(石井聰互/1984)、『台風クラブ』(相米慎二/1985)、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(黒沢清監督/1985)等、面白い映画も数多く誕生した。
そのディレカンのメンバーの高橋伴明監督が『光の雨』を製作した後もゴジさんの意欲は継続していた。規模感で言えば、こちらは製作費も10億円サイズであり、別の映画だ、という認識があった。
もう1本は若松孝二監督の『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』(2007)だ。製作の2年前くらいか、若松監督とゴジさんの話し合いがあった。若松さんは「ゴジが連赤をやるから俺はその後でも、と待ってたけどもう時間切れだ。早くやんないと俺は死んじまう。これやんないで死ねないんだ……」(2012年に76歳で死去)。反体制のスタンスの中で『赤軍―PFLP・世界戦争宣言』(1971)等を製作してきた若松監督にとっては、ある意味で集大成的な映画だった。若松監督から完成披露試写会に招待され、ゴジさんと一緒に新宿に行った。終わったあと、若松監督がいて挨拶の会話はあったが、帰り道、ゴジさんの言葉は少なかった。
それでも、数年前から、再び『連合赤軍』に取り組んでいる。ただ来年の1月には80歳。しかも体調も良くない状態が続く。雪山撮影はハードだ。日本の観客の嗜好や、50年以上前の事件に若者たちが反応してくれるだろうか。それより、この事件を知る人はどんどん減ってきている。それでもやる意義はずっと感じているが、製作費、長さなど結局、解消できないまま今に至っている。自分の不徳の致すところ、力不足が要因でもある。
▲映画『連合赤軍』の台本。下部に「RENGOSEKIGUN」の文字が見てとれる。デザインはすべて種田陽平氏(『スワロウテイル』『キル・ビル』『国宝』)で、軽井沢でのロケハンにも同行している。
『リング』(1998)を製作した時に、3部作の最後の小説は『ループ』(1998年発売)だった。『リング』『らせん』がヒットした時にゴジさんにこの小説の映画化を打診した。珍しく「これはやりようがある!」と黒沢清監督(『太陽を盗んだ男』では制作進行)らゴジ組に参加してもらい、プロットなども作った。ゴジさんが書いたシナリオはほぼ完成したのだが原作の要素があまりに変わってしまい、鈴木光司さんの『ループ』ではなくなっていた。三部作の映画のラストを目指したが、ここでストップしてしまった。翌年『マトリックス』がハリウッドで製作されるが『ループ』の仮想世界のストーリーとは近いものがあった。『リング』『らせん』とは違い、『ループ』の世界観は大きく、規模も数倍だった。これも主役のキャスト陣とゴジさんが会うところまで行っていた。
過去には『吉里吉里人』(原作:井上ひさし)など10前後の企画をシナリオにし、印刷台本にもした。企画、シノプシスだけなら20本以上の開発をしただろうか。
学生時代に観た傑作映画2本。ぼくはその後、70本ぐらいの映画製作をやってきたが、その中に長谷川和彦監督作品が無いのは残念、というかこれもそういう巡り合わせなのだろうか。
何度かチャンスがあった。ただ、たった2本、それでもその2本は、ずば抜けて面白く評価もされた。そのプレッシャーがあって3本目が誕生しなかったわけではないが、自身の満足、あるいは自分の中の100点の映画の自信が持てないと最後の一歩を踏み込めない時があった。それでもすでに「伝説の監督」になっているのだが。
根岸吉太郎監督とたまにお会いすると「なんとかゴジたのむぞ!」とよく言われた。
ぼくの盟友の編集マン、冨田功氏が肺がんで国立がんセンターに入院した時、度々お見舞いに行った。たまたま、相米慎二監督(当時、入院中)と冨田氏の病室で遭遇し、ドアを開けて出ていく時、振り向きざまに「ゴジのことたのむぞ……」と。これが相米監督と交わした最後の言葉になり、それからほどなくしてに鬼籍に入られてしまった。53歳だった。時々会った時に、「ゴジがやる時は俺が助監督でも何でもやるから」とも。冨田氏も翌年2002年10月に亡くなってしまった。ゴジさん映画の編集マンをやってもらうはずだった。45歳だった。
生きているうちになんとか……という思いだけはある。
▲1979年公開の長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』。長谷川はレナード・シュレイダーと共に脚本も手がけている。レナードは、英語でも日本語でも執筆できる貴重な存在で、そのほかの日本映画でも山田洋次監督『男はつらいよ 寅次郎春の夢』の共同脚本、相米慎二監督『ションベン・ライダー』の原案、本作でも原案を担当している。本作の撮影も『青春の殺人者』同様、鈴木達夫が担当している。主演の沢田研二、菅原文太のほか、池上季実子、伊藤雄之助、佐藤慶、北村和夫、神山繫らが出演。長谷川和彦は毎日映画コンクール監督賞に輝き、菅原文太は日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した。また、キネマ旬報の2018年8月上旬号「1970年代日本映画ベスト・テン」では1位に選出されている。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。