【ミリオンヒッツ1995】桑田佳祐&Mr.Children「奇跡の地球」の強烈なカウンターパンチ
リレー連載【ミリオンヒッツ1995】vol.1
奇跡の地球 / 桑田佳祐&Mr.Children
▶ 発売:1995年1月23日
▶ 売上枚数:172万枚
震災からわずか6日後にリリースされた「奇跡の地球」
2025年1月17日、阪神・淡路大震災からちょうど30年が経過した。月日が経つ早さを感じつつ、同時にふと思いだしたのがこの曲だ。
I'm Listening to the radio, all bymyself
変わりゆく街は 明日なき無情の世界
Surrounded by the stereo,
no sound is felt
壊れゆく no, no, no, no, brother
奇跡の地球(ほし)
震災からわずか6日後、1995年1月23日にチャリティーシングルとしてリリースされた桑田佳祐&Mr.Childrenの「奇跡の地球(ほし)」。楽曲が書かれたのは前年なので、あの大災害が直接曲の内容に影響を及ぼしたわけではないが、歌詞があまりにも現実の出来事とリンクしていて、私には震災のことを歌っているような気がしてならなかった。
そしてリリースから約2ヵ月後の3月20日、今度はオウム真理教による未曾有の無差別テロ、地下鉄サリン事件が発生。「♪壊れゆく no, no, no, no, brother」という桑田佳祐と桜井和寿の叫びが、当時よりリアルに響いたのは私だけじゃないはずだ。リリースからちょうど30年、この曲はどんな経緯で生まれ、桑田と桜井はいったい何を訴えようとしていたのか? 改めて考えてみたい。
ミスチル大ブレイクの直後、その時、桑田佳祐は?
リリース時、桑田は38歳。桜井和寿は24歳。ひと回り以上年齢が離れた2人による “奇跡のコラボ” だった。Mr.Children(以下:ミスチル)はこの前年、1994年にシングル「innocent world」がミリオンセラーとなり初のオリコン1位を獲得、暮れにレコード大賞を受賞。大ブレイク直後で、まさに勢いに乗っていた。
一方、桑田はこの頃どんな状況だったかというと、1993年暮れの年越しライブを最後にサザンの活動を一時休止。“自分はこのままでいいんだろうか?” と自問自答したのがきっかけで、1994年からソロ活動に入る。この年9月にアルバム『孤独の太陽』を発表するが、楽曲制作中の2月に母親が急逝。大きなショックを受けたが、それでも締切は待ってくれない。桑田は母の棺の横で何曲か書いたと著書で語っている。
『孤独の太陽』には、いろいろ物議を醸した問題作「すべての歌に懺悔しな!!」が収録された。自分が揶揄されたと憤った長渕剛との間にひと悶着あったのはご存じの通り。桑田自身、内心モヤモヤしたものを抱えていた時期だった。そんなときに、ミスチルとのコラボの話が舞い込んで来たのである。
桑田佳祐が発足当初から深く関わっていたAAAの活動
1993年、サザンの所属事務所・アミューズが中心になって「Act Against AIDS」(以下:AAA)という啓発運動が始まった。HIVウイルス感染によって引き起こされる様々な症状・AIDS(後天性免疫不全症候群)は当時まだ有効な治療法が確立されていなかったこともあり、世界中に拡大した。特に1991年、クイーンのフレディ・マーキュリーがAIDS発症により急逝したことは、音楽ファンだけでなく世間にも大きな衝撃を与えた。
そこで、AIDSについて正しい知識を持ち、予防に努め、HIV感染者への不当な差別をやめようという機運が日本でも起こりAAAの活動がスタート。桑田は発足当初からこの運動に深く関わった。2008年、2013年、2018年と5年おきに3度開催された、桑田が1人で懐かしの歌謡曲をカバーするライブ『ひとり紅白歌合戦』もAAAの一環である。
1993年の世界エイズデー(12月1日)には東京3会場と大阪・名古屋・新潟でチャリティーライブが行われ、桑田は日本武道館に出演。奥田民生(UNICORN 解散直後)、奥居香(プリンセス プリンセス)、宮田和弥(JUN SKY WALKER(S)))の4人で「光の世界」という曲を披露している。桑田はのちにこの曲を民生とレコーディング。桑田のベスト盤『TOP OF THE POPS』(2002年)で聴くことができる。
「光の世界」に続くコラボ曲、「奇跡の地球」
翌1994年の12月1日も、桑田は武道館のチャリティーライブに出演。この年はミスチルも参加した。「光の世界」に続くコラボ曲を、という依頼を受け桑田が書いたのが「奇跡の地球」であり、この時の武道館ライブが本曲の初披露の場となった。途中の英語詞は、サザンの英語補作詞を担当していたトミー・スナイダー(ゴダイゴのドラマー)が手掛けている。
桑田とミスチルをつないだのが、本曲のアレンジャーであり、ミスチルのプロデューサーでもある小林武史だ。小林は、1987年10月にリリースされた桑田のファースト・ソロシングル「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」のアレンジを手伝ったことがきっかけで桑田に高く才能を買われ、1988年からサザンのレコーディングにも参加するようになった。
小林武史がプロデュースに力を注ぎたい新進のバンドだったミスチル
1980年代末から1990年代初頭にかけての桑田とサザンにとって、小林は欠かせない片腕だった。この時期の代表曲「真夏の果実」(1990年7月)、「希望の轍」(1990年9月)、「涙のキッス」(1992年7月)などのアレンジ面における小林の貢献度は大きい。
しかし小林は、1993年11月にリリースされたシングル「クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)」を最後に、サザンの楽曲制作から降りることになった。これは別に、桑田と小林の仲が険悪になったわけではなく、外部の小林にこのまま頼りすぎるのはバンドのあり方として健全ではない。もう一度メンバー全員でアレンジを考える形に戻そう、と桑田が考えたからだ。
一方の小林も、プロデュースに力を注ぎたい新進のバンドを見つけていた。そう、ミスチルである。前述の「クリスマス・ラブ」と同時期の1993年11月、ミスチルは小林がプロデュースしたシングル「CROSS ROAD」をリリース。この曲はオリコン最高6位まで上昇し、ミスチルは初のトップ10入りを果たした。そんな状況を見て桑田も “そろそろ小林君を解放してあげよう” と思ったのではないか。
また小林も、桜井を桑田と組ませることによって、アーティストとしてさらに一段上のレベルへ引き上げたい、という思いがあった。桑田はそんな小林の思いを汲み取り、最高の曲を書き下ろしたのだ。またそれは桑田自身のためでもあった。新しい才能と組むことで、次に進むべき道へのヒントが見つかるかもしれない。桑田、小林、桜井、3者が “win-win” の関係を目指した結果、奇跡的な傑作「奇跡の地球」は生まれたのである。
キレッキレでゴリゴリのロックが完成
楽曲について見ていこう。詞・曲は桑田が手掛けたが、アレンジは小林とミスチルの手に委ねられた。演奏はミスチルに小林がキーボードで加わり、サポートギタリストとして、後にMy Little Loverのメンバーとなる藤井謙二が参加。キレッキレでゴリゴリのロックが完成した。
歌詞は、冒頭の「♪熱い鼓動で涙が止まらない 悲しい友の声は何を憂う」に始まり「♪夢や希望にすがる時代(とき)は過ぎた」など、ダウナーな文言が並ぶ。「♪時代(とき)を駆ける運命(さだめ)は Black」なんて “お先真っ暗” って言い切っちゃってるもんね。歌詞だけ読んでいるとダークサイドに墜ちていきそうだが、でも本曲は決してそうならない。なぜか?
まず、ミスチルのバック3人(田原健一・中川敬輔・鈴木英哉)の演奏力を挙げたい。彼らはふだん桜井が書く楽曲を演奏しているのだから、この曲はいわば “他流試合” だ。しかも歌詞はダーク。にもかかわらず、聴いていて気分がアガるというか、この胸躍る感じはなんなんだろう? 暗いけど明るい、重いけど軽い、みたいな?
その躍動感を後押ししているのは、小林が自ら弾くロックなキーボードに加え、ブラスセクションの3人(山本拓夫・荒木敏男・村田陽一)の力も大きいと思う。この3人はサザンのブラス隊としてもおなじみで、小林とは気心の知れた間柄。小林のバンマスぶりも見事だ。
桑田と桜井の圧倒的な “ボーカルの力”
そして何より、この曲に力強い生命力を与えているのは、桑田と桜井の圧倒的な “ボーカルの力” だ。2人とも “自分モノマネ” してるんじゃないか? というぐらい個性全開で歌っている。わかってるなぁ。だって聴く側は2人の “歌バトル” が聴きたいのだ。持ってる技、全部出してほしいよね? 大先輩に臆せず真っ向勝負を挑んだ桜井と、堂々と受けて立った桑田。どっちも “漢(おとこ)” である。
楽曲のテーマには、もちろん “AIDS” があって、ずらずら並ぶネガティブな文言はAIDSに罹患した人の嘆きとも受け取れるが、ここであらためて思い返してほしいのは、本稿の冒頭に掲げたサビの歌詞である。
I'm Listening to the radio, all bymyself
変わりゆく街は 明日なき無情の世界
Surrounded by the stereo,
no sound is felt
壊れゆく no, no, no, no, brother
奇跡の地球(ほし)
トミー・スナイダーが手掛けた、英語の部分を訳してみよう(拙訳)。
僕はラジオを聴いている たったひとりで
僕の周りにはステレオがあるのに
音はなんにも聴こえない
こんな絶望的な状況があるだろうか? 一緒にラジオを聴く仲間もいなければ、音も一切聞こえない世界。日本語部分で “無情の世界” と歌っているが、まさにその通りだ。だがこれって、AIDS患者だけでなく、自分の力だけでは解決困難な状況に陥った人すべてが感じることでもあり、2人はもちろんもっと広い層に向けて歌っている。だからこの曲は古びず、常に新しいのだ。
そして桑田のダークな歌詞は、最後の最後で180度反転する。ネガティブな「♪壊れゆく」の直後の「♪no, no, no, no, brother」が強烈なカウンターパンチになっていて、締めは 「♪奇跡の地球」。この部分、つまり桑田と桜井が言いたいことは、意訳するとこういうことだ。
君は決してひとりぼっちじゃない
音楽が聴こえないって?
いやいや、そんなことはないよ
ほら、聴こえてきただろう?
僕たちが歌うこの歌が
地球はそう簡単に壊れやしない
だって、奇跡が起こる星なんだから
30年前にリリースされ、172万枚を売り上げた奇跡の1曲
桑田とミスチルは本曲リリース後、4月から5月にかけてジョイントライブを東京・大阪・名古屋で全12公演開催。全編に洋楽カバーを盛り込んだ構成の意欲的なライブで、このライブ自体が戦後のロック史をたどるものでもあった。忘れちゃいけない、1995年は敗戦からちょうど50周年の年でもあった。
ミスチルとの共演でモヤモヤを吹き飛ばした桑田は、5月に満を持して新曲「マンピーのG★スポット」をリリース。サザンの活動を再開させ、7月に復帰第2弾「あなただけを〜Summer Heartbreak〜」を発売。そして8月5、6日には『スーパー・ライブ・イン・横浜 ホタル・カリフォルニア』を横浜みなとみらい21臨港パークで行った。2日間で16万人を動員。ファンを歓喜させ、そしてそこから30年経った今も、サザンは健在である。
ミスチルについては言うまでもないが、その後ビッグヒットを連発できたのは、いろいろ悩んでいた時期の桑田と絡んだことが大きかったように思う。自分は何のために曲を書くのか? そのことを常に自問自答している桑田の姿を目の当たりにしたことで、桜井は自分を見失わずにすんだのではないか。
「奇跡の地球」はオリコン調べで172万枚を売り上げ、収益は全額 “AAA基金” に寄付され、東南アジアをはじめとする各国のAIDS対策などに使われた。30年経った今も、この曲に救われている人は多い。“奇跡の1曲” に感謝。