没後に人気沸騰、田中一村展の決定版 ― 東京都美術館(レポート)
南国の自然や風景を緻密で色彩豊かに描いた作品で知られる、日本画家の田中一村(1908-1977)。存命中に高い評価を得ることはできませんでしたが、没後に開かれた小さな回顧展から、大きな注目を集めるようになりました。
幼年期から最晩年の作品まで絵画作品を中心に、スケッチ・工芸品・資料を含めた250件を超える作品で一村の画業を俯瞰する大規模な展覧会が、東京都美術館で開催中です。
東京都美術館「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」会場入口
田中一村(本名:孝)は、明治41年(1908)現在の栃木県栃木市生まれ。彫刻師の父から書画を学び、その実力は神童と称さるほどでした。「米邨」(べいそん)の画号で、8歳(数え年)の作品も残されています。
「池亭聞蛙」は14歳の時に描いた作品で、本展で初公開。この時期に、すでに山水画の基本を修得していたことがわかります。
(手前)「池亭聞蛙」大正11年(1922)7月
中学を卒業後、ストレートで東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学。東山魁夷と同期でしたが、2カ月後に「家事都合」で退学してしまいます。
ただ退学後も、多くの発起人が名を連ねて画会(頒布会)「田中米邨画伯賛奨会」が開かれるなど、早くも画家として身を立てています。両面に描かれた《蘭竹図/「富貴図」衝立》も、同賛奨会の賛助員の旧蔵品です。
《蘭竹図/「富貴図」衝立》昭和4年(1929)2月/昭和4年(1929)3月
昭和13年(1938)、29歳の時に千葉市千葉寺町に転居。この地で約20年間、畑で野菜を育て、鳥を飼い、内職もこなしながら、制作を続けました。
昭和22年(1947)には画号を「柳一村」と改め、川端龍子が主宰する青龍展で《白い花》が初入選。翌年からは田中一村と名乗りはじめました。
「秋晴」昭和23年(1948)9月 田中一村記念美術館 / 「白い花」昭和22年(1947)9月 田中一村記念美術館
障壁画のような大きな仕事も手がけていった一村。精力的な活動を続けましたが、40代半ばをすぎてからの日展や院展ではすべて落選。全国的な知名度を得るには至りませんでした。
昭和33年(1958)、50歳の一村は家を売り払い、当時日本最南端だった奄美群島へと向かいます。
《白梅図》(裏面:四季花譜図)昭和33年(1958)
単身で奄美に渡った一村は、当初は与論島や沖永良部島など各所を取材。南国の風土から刺激を受け、新たな創作に進んでいきました。
奄美から一時的に戻った千葉で描いた 《奄美の海に蘇鐵とアダン》は、奄美滞在の成果が全面に現れた力作です。中央遠くの海上に、神が降り立つ「立神(たちがみ)」という奄美の信仰の象徴が描かれています。
(左から)《赤髭》昭和34年(1959)5月頃 田中一村記念美術館 / 《奄美の海に蘇鐵とアダン》昭和36年(1961)1月 田中一村記念美術館
金銭的に行き詰まると、紬工場で染色工として働き、制作費を蓄えたら絵画に専念するという計画を立てて、切り詰めた生活を実践。絵具などの材料も綿密に計算し、東京の専門店から調達しました。
昭和42年(1967)には5年間勤めた工場を辞め、3年間制作に没頭。《アダンの海辺》をはじめ、主要な作品はこの時期に描かれたものです。
(左)《アダンの海辺》昭和44年(1969) / (右)《不喰芋と蘇轍》昭和48年(1973)以前
昭和52年(1977)9月11日、心不全のため一村は69歳で急死しますが、その作品は時を越えて人々の心を掴んでいくことになりました。
きっかけになったのが、三回忌となる昭和54年(1979)に、知人たちが開催した「田中一村画伯遺作展」。公民館の2階で開かれた3日間だけの展覧会でしたが、NHKの目にとまり、翌1980年にNHK鹿児島の番組で紹介。さらに昭和59年(1984)の日曜美術館で全国放映されると、その作品は大きく注目され、各地で回顧展が開催されるようになりました。
会場には未完の作品も展示されています。
(左から)《白花と瑠璃懸巣》(未完)田中一村記念美術館 / 《枇榔樹の森に赤翡翠》(未完)田中一村記念美術館
奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅した決定版といえる展覧会。画面の端から端まで綿密に描いた作品からは、絵に向かう一村の情熱があふれ出ているようです。
展覧会の公式ナビゲーターを務める小泉孝太郎さんは、なんと曾祖父で政治家の小泉又次郎が田中一村の後援会長を務めていたという奇縁も。小泉さんは音声ガイドも担当しています。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年9月18日 ]