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「蘇我入鹿の眠る場所はここか?」奈良の菖蒲池古墳に行ってみた

草の実堂

画像:菖蒲池古墳の家形石棺(撮影:高野晃彰)

仕事を含め、プライベートでも奈良を訪れることが多い筆者が、奈良の昔と今を歴史を軸に紹介する紀行シリーズ。

今回は蘇我入鹿(そがのいるか)にまつわる旧跡を、2回にわけて綴る。

[前編]は、入鹿の墳墓の可能性がある菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)を中心に紹介しよう。

奈良へ行くのにクルマを使う理由

画像:大神神社拝殿(撮影:高野晃彰)

筆者はここ10数年来、毎年春先になると、奈良の大安寺大神神社でご祈祷を受け、お札と御神符をいただくことを恒例としている。

今年も3月上旬の早朝に、東京をクルマで出発。

途中、名阪国道が工事のため渋滞しており1時間以上時間をロスして、午後2時頃にやっと大神神社に到着した。

画像:大神神社の駐車場(撮影:高野晃彰)

この日は平日だというのに、大鳥居をくぐった先にある駐車場はほぼ満車状態。

「やはり大神神社の人気は凄いなぁ」と感心しつつ周りを見回すと奈良だけでなく、大阪・兵庫・和歌山・三重・愛知など県外ナンバーの車もたくさん並んでいる。

近くのクルマから降りてきた初老の男性が、筆者のナンバーを見て「あなた、まさか東京から車で来たの?」と聞いてくるので「そうです、東京からですよ。」と答えたら「ご苦労でんな。自分、考えられへんわ。」と、半ば呆れた顔で言われてしまった。

たしかに、東京から6時間以上かけてクルマで奈良まで来るのは、尋常なことではないかもしれない。
筆者もコロナ前は新幹線を使っていた。

しかし、コロナ禍でクルマを使うようになってからは、乗り換え時間などを考えると、こと奈良に関しては京都経由で鉄道で来るのとほとんど時間差がないのだ。

そして何より、クルマは機能性に富んでいる。

史跡・遺跡などへ行くのに、余り交通手段が良いとは言えない奈良県内は、本当にクルマが重宝するのである。

大神神社から明日香村の菖蒲池古墳へ

画像:大神神社二の鳥居(撮影:高野晃彰)

大神神社の駐車場から、境内入り口である二の鳥居までは、参道をゆっくり歩いても10分ほどだ。

筆者は、大神神社と隣接する狭井神社をセットで参拝するのを常とする。

そのため参道途中の今西酒造の出店で、大物主大神の化身の白蛇が棲むという巳の神杉と、その荒魂を祀る狭井神社の神前に供える清酒と卵のお神酒セットを、毎回購入してから大神神社に参拝する。

画像:大神神社の巳の神杉(撮影:高野晃彰)

この日は、大安であったのか神前結婚式が行われていたようで、境内では花嫁・花婿と参列者の人たちが記念撮影を行っていた。

それをしり目に、巳の神杉に清酒と卵を供え、祈祷殿にてのご祈祷と拝殿参拝を済まし、今年1年の新たな御神符をいただいた。

大神神社の境内と狭井神社を結ぶ道は2つあり、一つは祈祷殿脇からのくすり道と呼ばれ参道で、薬業関係者が奉納した薬木・薬草が植えられている。そしてもう一つが、参集殿の下をくぐるようにのびる石段の参道だ。

狭井神社まではどちらの道でも徒歩5分ほどだが、途中には、三輪の神様に供える酒を造った高橋活日命をまつる活日(いくひ)神社や、神の鎮まる磐座(いわくら)を神座とする磐座神社が鎮座する。

画像:大神神社から狭井神社への道(撮影:高野晃彰)

大神神社の御神体である三輪山山麓の鬱蒼とした森の中の道は、昼間でも神さびた雰囲気に包まれ、晴れた日には樹々の間から差し込む柔らかな日差しが心地よい。

所々にベンチも置かれているので、のんびりと御山からの御神徳を感じながら過ごしてみたいものだ。

しかし、残念ながら今日はそのような時間がない。時間を確かめると午後3時を過ぎている。

狭井神社の神前にお神酒セットを供えお祈りし、薬井戸の御神水をコップ一杯いただくと、そそくさと駐車場への道を急いだ。

画像:狭井神社。境内右側に三輪山登拝口がある(撮影:高野晃彰)

当初の予定ではこの後、飛鳥駅前でレンタサイクルを借り、明日香村の真弓にあるマルコ山古墳束明神古墳にいくつもりだったが、日没までもう時間がない。

そこで、クルマで30分ほどの明日香村と橿原市の境にある、菖蒲池古墳を訪ねることにした。

菖蒲池古墳の被葬者は、蘇我氏一族か

画像:蘇我入鹿首塚越しに甘樫丘をのぞむ(撮影:高野晃彰)

菖蒲池古墳は、蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅があったという甘樫丘のほぼ南端に位置する、一辺約30mの2段からなる方墳だ。

この古墳は、昔から非常に精巧な造りの2基の家形石棺があることで知られていた。

画像:菖蒲池古墳の家形石棺(撮影:高野晃彰)

築造年代は640年前後と考えられていたが、約10年前に隣接する飛鳥養護学校の一画から、一辺70mという巨大方墳の小山田古墳が発見されたため、小山田が蝦夷の大陵(おおみささぎ)、菖蒲池が入鹿の小陵(こみささぎ)説が唱えられるようになった。

画像:小山田古墳。右側の木立のあたりが墳丘中心部。左側の家屋の後方に菖蒲池古墳がある(撮影:高野晃彰)

だが、小山田古墳をして舒明天皇の初葬墓とする説も有力で、両墳の被葬者論の決着はまだまだ先のことになりそうだ。

画像:菖蒲池古墳(撮影:高野晃彰)

そんな菖蒲池古墳には幾度となく足を運んでいるが、訪れる度に脳裏によぎるのはやはり蘇我一族のことだ。

被葬者は、この地と縁の深い蝦夷入鹿だろうか。

それとも、彼らを滅亡に追い込んだ同じ蘇我氏の倉山田石川麻呂と、その子息・興志であろうか。

この日も墳丘上で、そんなことを考えていた。

夕暮れの墳丘上で入鹿に思いを馳せる

画像:乙巳の変。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』public domain

蘇我本宗家と称される稲目・馬子に継ぐ、蝦夷・入鹿親子が、大化の改新の始まりである「乙巳の変」により滅亡したのは、西暦645年のことだ。

『日本書紀』によれば、皇極天皇の飛鳥板葺宮での中大兄皇子・中臣鎌足らによる入鹿暗殺は、7月10日に行われ、翌日には蝦夷が邸宅に放火し自害して果てた。

その記述によると、入鹿が暗殺された日はしきりに雨が降り、宮廷の庭には水があふれるほどであったという。

首を刎ねられ胴体だけになった入鹿の遺骸は、その中に捨てるように放置され、筵と蔀を被せたとある。

画像:中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺される蘇我入鹿(国立国会図書館蔵)public domain

その後、中大兄皇子の意向で、蝦夷とともに埋葬を許されたという。

しかし、灰燼に帰した邸宅の中から蝦夷の遺骸を発見できたのであろうか。

「両人ともに」というのは、一緒に葬られたと解釈してよいのだろうか。

そうなると、石棺が縦に2つ並ぶ菖蒲池古墳は、二人の墳墓の可能性が出てくる。

画像:菖蒲池古墳。左の覆い屋の下に石室がある(撮影:高野晃彰)

いずれにせよ菖蒲池古墳は、大化の改新前後の歴史を解明するうえで最も重要な遺跡の一つだ。

だから、この古墳を訪れると、いつも時間の経過を忘れて周囲をうろうろしてしまう。
この日もあれこれ考えているうちに時間が過ぎ、北側から延びる丘陵のほぼ南端に位置する古墳が、次第に夕日に照らされ始めた。

もしかすると、入鹿の奥津城(おくつき ※神道のお墓を指す言葉)かもしれない‥‥そんな想いにとらわれながら、筆者は夕暮れに染まる古墳の傍らに立ち尽くしていた。

ふと「明日は予定を変えて、入鹿を祀る神社に参拝しよう」という考えが頭に浮かんだ。

その神社こそ、橿原市の一画・小網町にひっそりと鎮座する「入鹿神社」だ。

早春の3月といえども日が暮れるのは早い。蘇我氏ゆかりの地は、暮れなずむ空に深く染まり始めた。

[後編]に続く。

文・写真/高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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