NHK紅白歌合戦の変遷をたどってみたら、東京宝塚劇場が最後の会場になった昭和47年初出場の石橋正次「夜明けの停車場」が浮かんできた
毎年視聴率がとやかく騒がれ人気に陰りが出てきたとはいえ、2024年の大晦日もNHK紅白歌合戦が一年の締めくくりの風物詩になるのだろう。本欄を書くに当たって、この一大行事の会場の変遷を調べてみたくなった。というのは、1972年(昭和47)第23回NHK紅白歌合戦の会場は有楽町の東京宝塚劇場で、この年が同劇場での開催の最後となった。同年の大ヒット曲「夜明けの停車場」を歌唱した石橋正次にとって初出場を果たした会場だったのである。〈宝塚〉での開催は、第7回(1956年)から、途中、新宿コマ劇場(第9回・1958年)や日本劇場(第11回・1960年)などに変移があるものの都合15回を数えている。翌年は、完成したばかりの渋谷のNHKホールに移っていくが、最後の〈宝塚〉開催の紅白に初出場した歌い手たちにとっては特別な感慨があるのではないだろうか。
因みに第1回(1951年)から第3回までは、内幸町にあったNHK東京放送会館、第4回(1953年)は日本劇場、第5回(1954年)は日比谷公会堂、第6回(1955年)は産経ホールと転々としていた。さて、1973年にNHKホールに移ってから、以後第75回を迎える本年まで(2021年の第72回だけ耐震工事のため〈東京国際フォーラム〉で開催)、実に半世紀を超えて都合51回。余談だが、日本レコード大賞の発表会場が1969年から1984年までやはり大晦日の一大イベントとして丸の内の〈帝国劇場〉で開催されていた。確か〈レコ大〉の発表イベントは夕刻から延々と続き、紅白の出場歌手たちは渋谷のNHKホールに到着する時間がギリギリとなって、スターたちを乗せた車は国道246号をすべて青信号にして突っ走ったという都市伝説さえ生まれた。〈レコ大〉出演の衣装のままで紅白の入場行進に間に合った歌い手たちのホッとした表情が今でも浮かんでくるようだ。
NHK放送センターの建て替えが発表されたが、NHKホールは紅白歌合戦や NHK 交響楽団のコンサートなどを通じて親しまれてきたシンボルだけに建て替えずに修繕を重ねながら維持、運用していくとのことだ。1925年のラジオ放送から数えて100年目の来る2025年を「放送100年企画」と銘打って力が入っているNHKだが、紅白歌合戦の会場は当分NHKホールで開催されてゆくことだろう。
さて、石橋正次と同様に1972年の紅白歌合戦に初出場した歌手と楽曲は、天地真理「ひとりじゃないの」、朱里エイコ「北国行きで」、野口五郎「めぐり逢う青春」、欧陽菲菲「恋の追跡」、上條恒彦「出発の歌」、沢田研二「許されない愛」、青い三角定規「太陽がくれた季節」、ビリー・バンバン「さよならをするために」、平田隆夫とセルスターズ「ハチのムサシは死んだのさ」…7名と3グループ。昭和47年という時代を思い起こすために書き記すと、総合司会は山川静夫(NHK)、紅組司会・佐良直美、白組司会・宮田輝(NHK)、審査員の面々は、池内淳子、中原誠、森英恵、小林桂樹、中村汀女、井上ひさし、中野貴代、神田好武、真木洋子、輪島大士という顔ぶれだ。審査委員はその年の活躍ぶりや話題になった各界人士が揃って、懐かしく思い起こされる。
歌手、石橋正次の名がはっきりとボクの記憶に刻まれたのは、やはり1972年の紅白歌合戦なのである。失礼ながら、それまでテレビ・ドラマの脇役としての顔しか知らなかった。不良少年的感性もあって青春ドラマで人気が出た石橋正次は、大阪出身で高校卒業後、新国劇(島田正吾、辰巳柳太郎が長く劇団の支柱で緒形拳もいた)に入団して舞台俳優を目指した変わり種だった。1970年には、藤田敏八監督に見出され、『非行少年 若者の砦』(日活映画)で主演に抜擢され、劇画「あしたのジョー」の舞台劇や映画にも主演に起用されている。しかし、早くから子役でデビューし、先般惜しまれて亡くなった火野正平とダブっていた時期がボクにはあった。微かな記憶とお門違いの観察だったが、一歳違いでお互い小柄のせいもあり、時代劇などの役柄も似通っていたのではないか。ところが、歌手としての実績も知らなかった石橋正次が歌唱する「夜明けの停車場」(作詞:丹古晴己、作曲:叶玄大)がクラウン・レコードからシングル(1972年1月25日)がリリースされると、またたく間にオリコン・ランキングで3週連続1位、年間売り上げ第11位、50万枚近くの大ヒット曲となったにもかかわらず、当時から浮名を流して週刊誌を騒がせていた火野正平が歌うなら、さもありなん、と一人合点していたのだ。「モテ男」の別れ話の楽曲と思い込んでいたとは、勘違いも甚だしい。
以下、あえて作詞をボクの勝手な意訳、解釈ではこうなる。
―—冷たい雨の降る夜明けの停車場で君に別れを告げるつもりじゃなかったんだ、君にここでさよならを言ってひとり旅に出る俺は悪い奴だよな、いいかい、嫌いじゃないんだよ、別れたくないんだよ、でもなぜか、今のしあわせを捨ててしまう、俺自身が分からない、君に罪はない、罪はないんだからね、雨に濡れていないで、早くお帰りよ、さよなら。——
何か志しがあるように見せて、男が女から逃げてゆく言い訳だけの勝手といえば勝手な詞ではある。一方的で酷(むご)い別れ方である。モテたいと願う世の男たちは、カラオケ・スナックなどで別れを臭わせながら、実は女性を口説くにはぴったりの楽曲だったのではあるまいか。
という次第で、紅白では白組司会のベテラン宮田輝にして、「イシバシ…」と呼んでフルネームを思い出せなかったが、お蔭で「夜明けの停車場」と石橋正次がつながったのだった。当時のクラウン・レコードは、北島三郎、西郷輝彦、小林旭ら男っぽく土臭い男性歌謡で売っていたが、石橋正次はその系統にあったのだろう。男の身勝手さがまかり通った楽曲にもかかわらず、哀愁漂うメロディーが覚えやすく、カラオケの流行と軌を一にした大ヒットだったに違いない。衣装からして王子様のようで中性的なGS(グループ・サウンズ)の反動だったような気もする。
振り返れば、中高校生時代のGSの熱狂が去った後の同世代のボクは、歌謡曲そのものから遠ざかっていた。ポストGSを背負った1970年代の初頭には、森田健作、太川陽介、渋谷鉄平らスポーツ万能的な運動部の明朗男子タイプに始まって、にしきのあきら、野村真樹、本郷直樹、沖雅美、平浩二、桜木健一、あおい輝彦、富田ジョージ…ちょっと趣が違うが三善英史ら男性アイドルが次々と登場していた。間もなく、野口五郎、西城秀樹、郷ひろみの新御三家が女性ファンの心をつかんでいった。反戦フォークソングを知るボクら世代の好みに適わなかった、とでも言っておこう。この時代多くのサラリーマンがそうであったように、夜な夜な歌謡番組を観たり女子たちがキャーキャーと叫ぶ歌謡曲を聴いたりする暇などなかった。ただ、わが昭和歌謡にあえて取り上げたかったのは、石橋正次という歌手のふてぶてしさに魅力を感じ、やたらと愛嬌を振りまくことがなかったからかも知れない。わずか8年間の歌手として19枚のシングルをリリースし、9枚のアルバムを残しているが、後にも先にも「夜明けの停車場」は石橋正次の代表作であることに間違いない。76歳の彼は現在も舞台を中心に活躍していることは伝わっている。
余談中の余談だが、東京宝塚劇場で10年連続して紅組トリ2回、大トリを8回飾っていた美空ひばりが、NHKとの関係が悪化したと伝えられ、皮肉にもNHKホールに会場が移っていった翌年には、出場に選ばれなかった。以後、NHKからの再三のオファーがあったと聞くが、特別出演枠として復活するまで7年を経過している。会場の変遷から辿ってみると歌謡界にも大きな変化があったエポックメーキングの年だったのである。
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫