「白馬の男には近付くな!」異民族から恐れられた公孫瓚、その末路とは
群雄割拠の時代を生きた白馬将軍
三国時代の序盤は、中国各地に群雄が割拠し、それぞれが覇を競っていた。
袁紹や曹操を中心に数多くの英雄が登場したものの、そのほとんどは短期間で歴史の舞台から姿を消していった。
最終的に覇権を争ったのは曹操(魏)、劉備(蜀)、孫権(呉)の三者で、190年代から200年にかけて存在した群雄の大半は、この僅か10年の間に滅びていった。
しかし中には、呂布のように短い期間で存分に暴れ回り、歴史に強烈なインパクトを残した者や、袁術のように2年のみに終わったが国を建国し「ハチミツ皇帝」としてある種の伝説になった者も存在する。
今回は、そうした群雄の中でも「白馬義従」を率いて戦乱の世を駆け抜けた、公孫瓚(こうそんさん)を取り上げる。
『正史』における公孫瓚のイメージ
劉備の同門という事で、公孫瓚の知名度はそれなりに高い印象である。
なお『三国志演義』における、劉備を引き連れて反董卓連合に参加したという公孫瓚の描写はフィクションである。
『正史』における公孫瓚の行動には、部下や周囲に対する冷淡さや、対立を招く姿勢が多く見られる。
異民族から慕われていた州牧・劉虞(りゅうぐ : 公孫瓚より高い地位にあった)と対立し、最終的にはこれを殺害している。
参考記事 : 皇帝になることを拒否した男〜 劉虞 「人望はあったが戦が下手すぎた幻の皇帝候補」※正史三国志
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/68646/
また、田豫(でんよ)が公孫瓚に仕えていた頃、謀反を起こした相手を討伐せず、巧みな議論だけで降伏させるという見事な働きを見せたが、これに対して公孫瓚は評価するどころか冷遇したと伝えられる。
参考記事 : 『三国志』 魏の隠れた名将・田豫とは 「劉備が逃した幻の初期メンバー」
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/92040/
異民族から恐れられた白馬軍団
第三者視点から見た公孫瓚の人物像は厳しいと言わざるを得ないが、『正史』における公孫瓚をメインとした記述ではどのように描かれているだろうか。
地方の豪族の家に生まれた公孫瓚は、生母の地位が低かった事もあり、実家ではあまりいい扱いを受けていなかった。
しかし容姿に優れ、個人としては優秀であったため、太守の侯氏に気に入られて娘婿となり、侯氏の援助を受けて学者の盧植(ろしょく)の元で学ぶ事になる。
この時、盧植と同じ涿郡出身の劉備と出会い、同門という共通点から縁が生まれ、後に劉備が公孫瓚を頼って身を寄せることになる。(なお、『演義』ではこの関係がさらに脚色され、公孫瓚は劉備と親密な好人物として描かれている)
その後、孝廉に推挙され役人になると、巡察中に異民族である鮮卑の一団と出くわす。
この時の公孫瓚の手勢は僅か数十騎で、数百騎の鮮卑に対して多勢に無勢だったが、逃げればさらに被害が出ると判断し、玉砕覚悟で突撃を敢行した。
そして激戦の末、鮮卑を撃退する戦果を挙げた。
公孫瓚は白馬に乗っていたため戦場で非常に目立っており、鮮卑の間で「白馬の男には近付くな」と恐怖の対象となった。
その後、公孫瓚は自身の軍隊を白馬で統一し、騎射に秀でた兵士を選抜して「白馬義従(はくばぎじゅう)」と名付けた精鋭部隊を編成。
この白馬軍団は当代屈指の強さを誇り、戦乱の世でその名を轟かせることとなった。
張純の乱の真実
自慢の白馬軍団でその名を轟かせた公孫瓚だが、次にその戦歴を振り返る。
後漢末期、幽州では張純という人物が烏桓(うがん)族の丘力居(きゅうりききょ)と手を組み、10万を超える反乱軍を率いて蜂起するという大規模な乱が発生した。
この「張純と丘力居の乱」において、公孫瓚は反乱軍と激闘を繰り広げたものの鎮圧することはできなかった。
しかし、公孫瓚は連戦連敗だったわけではない。張純と丘力居の軍勢を何度も撃破し、一定の戦果を挙げている。実際、この功績によって後に公孫瓚は出世している。
公孫瓚はむしろ「勝ちすぎ」で、相手陣営に深入りしすぎたことで包囲されてしまい、最終的に両軍ともに兵糧切れとなり撤退した。
大軍に包囲されても敗戦しない強さは公孫瓚の底力というべきだが、その後、朝廷から派遣された州牧・劉虞が懐柔策を用い、丘力居を降伏させたことで乱は平定された。
このため、最終的な功績は劉虞のものとされ、公孫瓚の影は薄くなった。
劉虞と対立した理由
公孫瓚の人生を大きく変える事になる劉虞との対立だが「手柄を奪われたから憎んだ」などという小さな理由で不仲になったわけではない。
直属の上司となった劉虞に対する不満も色々あっただろうが、発端は「異民族に対する方針の違い」だった。
劉虞は異民族との融和を考えており、事実そのお陰で先述した「張純の乱」も平定できたわけだが
公孫瓚は
「異民族は制御出来ないものであり、融和を前提とした懐柔は一時的な効果はあるかもしれないが、長期的に見ると異民族の増長を誘うだけだ」
と反対していたのだ。
その後、公孫瓚と劉虞の関係はさらに悪化し、対立は深刻化していく。
最終的には、公孫瓚が劉虞を討つという結末を迎えるが、劉虞を支持していた異民族や民衆からの信頼を失い、公孫瓚自身の評判も大きく損なわれた。
公孫瓚の末路
劉虞と対立していた191年頃、袁紹と袁術、孫堅が争っていた。
そして、公孫瓚陣営から袁術の元に派遣された公孫越(こうそんえつ)が、袁紹軍の流れ矢に当たって戦死した。
怒りに燃えた公孫瓚は、袁紹との対決姿勢を強めた。
公孫瓚は黄巾の残党を討伐し、それらを自軍に吸収して戦力を大幅に強化。これにより、公孫瓚の軍事力は当時最大級の規模を誇り、群雄たちにとって脅威となった。
一方で、袁紹は公孫瓚の従弟である公孫範に勃海太守の印綬を送り、和睦を試みたが、公孫範は公孫瓚に味方し、両者の対立は深まるばかりであった。
やがて公孫瓚は袁紹の領地に侵攻し、両軍は界橋で激突。
公孫瓚軍は白馬義従を率いて袁紹軍を圧倒したが、袁紹軍の猛将・麴義(きくぎ)の活躍によって逆転され、大敗を喫した。
それでも公孫瓚は袁紹の追撃を退け、反撃する場面も見せたが、勢いを取り戻すことはできなかった。
その後、公孫瓚は、先述したように劉虞との対立を深め、最終的に劉虞を斬首。この行為は、劉虞を支持していた民衆や異民族からの信頼を失わせ、袁紹に公孫瓚討伐の正当な理由を与える結果となった。
敗北を重ねた公孫瓚は易京城に籠城するが、袁紹軍が地下道を掘って城を陥落させたことで、家族とともに自害した。
最晩年の公孫瓚は、常軌を逸した行動により孤立を深めていたという。
鉄の門を備えた高台に住み、配下を遠ざけ、妾以外の人間と会おうとせず、七歳以上の男子の立ち入りを禁じるほどの極端な生活を送っていた。
連絡や報告は妾を通じて行わせ、文書は縄で吊り上げて受け取り、報告者には数百歩離れた場所から大声で伝達させるという異常な指示を徹底させた。
その振る舞いは将としての威厳を失い、精神的にも追い詰められた状態だったと伝えられている。
おわりに
白馬義従の名を各地に轟かせ、瞬間的には天下人候補と目された公孫瓚。
自慢の白馬軍団を率いて圧倒的な戦力を誇った武将としての公孫瓚は、非常に魅力的な存在である。
しかし、君主としての資質には難があったといえよう。
もし彼が劉虞や袁紹と協力できていれば、強固な国家が築かれた可能性もあっただろう。
参考 : 『正史 三国志』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部