大学職員から年収1,300万の「ビジネス漫画家」へ。累計40万部も売れる理由とは。
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今回お話を聞いたのは、フリーランスの漫画家として活動している「あんじゅ先生」こと若林杏樹さん。大学職員として5年間はたらいた後、アルバイトやライターを経て、年収1,300万円を稼ぐ「ビジネス漫画家」へと成長しました。「難解なものをわかりやすく面白く」をテーマに、税金や投資などのビジネスパーソン向けの内容をポップなタッチで描いています。
書籍デビュー作の『お金のこと何もわからないままフリーランスになっちゃいましたが税金で損しない方法を教えてください!(サンクチュアリ出版、共著:大河内 薫)』は、約30万部のヒット作に。なんの実績もなかった彼女がなぜ、今では累計書籍40万部を突破する売れっ子漫画家になれたのか。あんじゅ先生にはたらくことに対する価値観と、好きを仕事にするためのヒントを伺いました。
描き続けた子ども時代。大学で見つけた「自分の居場所」
──あんじゅ先生は幼いころから「絵を描くこと」がお好きだったのですよね?
そうですね。幼稚園ではスケッチブックを何冊も使い切るほど絵を描いていて、園長先生に何度も新しいものをもらいに行ったことを覚えています。ほかの園児の5倍は描いていましたね。私にとって絵を描くことは「とにかく夢中になれるもの」でした。
小学校に上がると、自分の絵を人に見せることにも楽しさを感じるようになりました。担任の先生の特徴や癖を描いて、隣の席の子を笑わせてみたり。
漫画と出会ったのも同じころです。おばあちゃんの家で、いとこが持ってきた『Dr.スランプ アラレちゃん(作:鳥山明)』を初めて読んで。「世の中にはこんなに可愛くて、面白いものがあるのか!」と虜になりましたね。
──自分が「漫画家になること」を意識するようになったきっかけはありますか?
小学校高学年の夏に、友人に借りた漫画雑誌『りぼん』で連載されていた『神風怪盗ジャンヌ(作:種村有菜)』を読んだことがきっかけです。はじめて読んだ少女漫画の繊細な作風に一目惚れして、「私もこんな作品を生み出したい」と。小学校の卒業文集には「将来の夢は漫画家」と書きました。
でも、当時の私は夢をかなえるための具体的なアクションは起こしませんでした。ただ絵を描き続けただけ。高校時代には芸術系の大学に進学することも考えましたが、親からの反対もあって、一般の大学に進学しました。
──大学では漫画研究会に入り、漫画制作に打ち込む4年間を過ごしたそうですね。
本当は入会するか迷っていたんですが、漫画研究会の教室をのぞいた時に、先輩たちが『遊☆戯☆王(作:高橋和希)』のおもちゃでバトルしながら楽しそうに叫んでいる姿を見て「ここで4年間を過ごそう」と決めました(笑)。自分のありのままをさらけ出していてかっこいいし、何より愉快で楽しそうな人たちがここには集まっていそうだなと思ったんです。
漫画研究会では、漫画やアニメ、ゲームなどの同人誌即売会「コミケ(コミックマーケット)」に参加したり、校内新聞の4コマ漫画を描いたり、自分の作品を人に見てもらう喜びをあらためて実感しました。本当に充実した日々でしたね。
高校までは、絵を描いている人はクラスに多くて2人くらいだったのに、今は50人が同じ教室で好きな漫画作品について語りながら、絵を描いている。「ここが私の居場所なんだ」と感じました。
ご縁があり、卒業後はそのまま母校の大学で入試広報の仕事に就きました。
「また、あの青春を」大学生活10年目に退職を決意
──新卒で就いた大学の広報では、どのような仕事をしていたのでしょうか?
私が在籍していたのは入試室という部署で、高校へ赴き主に受験生に対して大学の説明を行っていました。話がつまらないと寝てしまう子もいる中で、アカデミックな話をいかにおもしろく、分かりやすく伝えられるか。その工夫にやりがいを感じていましたね。今の漫画家の仕事にも活きているスキルだと思います。
入職当時は人数が少なく、日本全国をなんと4人だけで担当していて……。個々のスキルが活かされる刺激的な環境で、私にとっては青春でした。
──「青春」と呼べるほど充実した仕事を、社会人5年目の終わり、27歳で退職したのはなぜでしょうか?
実は4年目のタイミングで、各高校を回る外勤から内勤に部署内で業務が変更になって、とたんに刺激を感じられなくなってしまったんです。業務変更から2年間は内勤業務をやってみたものの、それは変わりませんでした。
9時出勤・5時退勤のチャイムに合わせた生活で、長期休みも取りやすい。残業代もきちんと出る。今振り返るとはたらきやすい職場ですが……。
学生時代の4年間と合わせると、次年度で10年目の節目を迎えることも退職の後押しとなり、もっと楽しくはたらくために一度大学の外に出てみよう、と。
──「安定」を手放すことに迷いやためらいはなかったのでしょうか?
私としてはいい区切りだと思えていました。でも、親は泣いていましたね。私が「大学の職場の先輩と遊んでくる」と伝えるたびに、「大学に戻してもらえないかお願いしてみて」と言われていたくらい、娘の将来が心配だったんだと思います。
大学の外に出て気付いた「私の『普通』は狭かった」
──退職後はどのような生活を送っていましたか?
実は大学職員時代は、漫画を読んではいたもののまったく描かなくなっていたんです。描く機会を見失っていたというか。でも、退職して時間に余裕ができて、また絵を描き始めたんです。
でも当時は、漫画研究会でプロを目指す子たちを見てきていたので、漫画家になるのは相当厳しいと感じていました。一方で、イラストレーターならコネなしスキルなしでも目指せるかもしれないとふと思ったんです。退職後すぐに職業訓練校に通い、イラストレーターの仕事に欠かせないグラフィック系のソフトを扱うスキルを身につけました。
その後は秋葉原のコンセプトカフェのアルバイトと、未経験OKの募集があったライターの仕事をしながら絵を描く生活を始めました。
──当時ははたらくことに対してどのように感じていましたか?
私がアルバイトしていたカフェには若いフリーターの子もたくさんいたんです。彼女たちも夢を追うためにアルバイトをしているんだと思っていたら、「ただ時給がいいからはたらいているだけ~」と言われて(笑)。
これまでは世の中の大半の人が大学や専門学校に進学して就職して、やりたいことや夢がある人はフリーターでそれを追う。そのどちらかだと思っていたんです。でも、ただ今を生きるためにはたらいている人もいる。「私の『普通』はなんて狭かったんだ」と思い知らされたと同時に、もっと気楽にやってみようと思えました。
とはいえ、退職してから一気にお金がなくなってしまって。当時一人暮らしをしていたので、もっと家賃が安いところに引っ越したいのに不動産の審査が通らない。「大学職員」という肩書きと「安定」がなくなると、こんなにもハードな生活になるのかと。
この生活を経験したからこそ、自分のはたらくことに対する価値観がグッと広がったので後悔はしていませんが。
地道なアピールで、初書籍は約30万部のヒット作に!
──アルバイトとライター業をしながら、描くことを仕事にするためにまず何から始めましたか?
まず、仕事運最強のペンネーム「若林杏樹」で活動をスタート。実績づくりのために連載を始めました。1記事2,000円で受注した恋愛コラム記事に、自分が描いたイラストを無償で載せて、それを10作まとめて、「私、連載を持っているイラストレーターです!」と営業をかけていましたね。自分のブログにもレポート漫画や4コマ漫画を載せ、とにかく描いて発信し続けていました。
単発でのイラストの仕事をポツポツといただけるようになってきたころ、イラストの仕事で知り合った方に声をかけてもらって初めて漫画の仕事をいただいたんです。ビジネス系の電子書籍に載せる4コマ漫画を5万円で60本つくる仕事となかなかハードでしたが、まさか漫画を仕事にできると思っていなかったのでうれしくて!「これはもう漫画家だろう」と鼻高々に「あんじゅ先生」と名乗り始めました。フリーランスの世界は見つけてもらうことが大切なので、駆け出しのうちからアピールを惜しまない姿勢を貫いてきて良かったと感じています。
そこから、少しずつビジネス本の挿し絵や漫画を担当させていただく機会が増え、2018年には初の著書『お金のこと何もわからないままフリーランスになっちゃいましたが税金で損しない方法を教えてください!(サンクチュアリ出版、共著:大河内 薫)』の出版に至りました。共著で税理士の大河内さんが、まだ無名だった私にSNS経由で声をかけてくれたんです。大学を退職して3年半後、30歳の時です。
──あこがれの書籍漫画家デビューを果たした当初の気持ちはいかがでしたか?
お話をいただいた時は、正直不安な気持ちが大きかったです。だって当時の私のフォロワー数は3,000人くらい。書籍は無事に出版されて初めて原稿料や印税をもらえるものなので、3カ月間収入はゼロ。売れなかったらどうしようかと(笑)。
それでも「やる」と決めた以上は描くしかないので、大河内さんの自宅近くにマンスリーマンションを借りて、心身ともにボロボロになりながら完成させました。
──そうして描き上げた初の著書は、最終的に約30万部のヒット作となりましたね!
初版の印税から自腹で30冊くらい購入して、SNSでプレゼントキャンペーンを実施して口コミを書いてもらって……。地道なPRの甲斐あってか、ありがたいことに多くの方に手に取っていただけました!フリーランスなら誰もが通るであろう「税金難しすぎる問題」を、自分自身がリアルに学ぶ過程をそのまま漫画に反映させているので、読みやすくタメになる本になったのではないでしょうか。
実は、出版のお話をいただく少し前にアルバイトを辞めていて。常連のお客さんから「夢を追う街・秋葉原を、夢をかなえて去るなんて。こんなに素敵なことはないよ」と言ってもらっていた中での成功だったので、「漫画家を一生懸命続けていこう」と覚悟が決まりました。
──その後も次々と新刊を出版し、2025年でフリーランス生活10年目を迎えられました。「続けること」に難しさを感じる人も多いですが、あんじゅ先生はこれまで立ち止まりたいと思ったことはありませんでしたか?
もちろん、締め切り前などハードな状況はありますが、大変な時こそ、一周まわって面白くなってくるんです(笑)。今は8人のアシスタントに手伝ってもらっていて、私含めて全員が血眼になって汗をかいている姿がなんだか文化祭前夜みたいだなと。
今、はじめて単著を描いていて、本当に忙しい日々ですが、それ以上に楽しいんです。大学生活10年目で新たな道に踏み出せたように、フリーランス生活10年目も転機となる1年にしたいですね。
中途半端でもいい。得意なことを選んでいけば自然と仕事は楽しくなるはず
──長きに渡って「好きを仕事に」してはたらき続けるために、大切にしていることはありますか?
見た目に気を配ることと、「なんか面白い奴」であり続けることを意識しています。絵がうまい漫画家はこの世に溢れているので、私が同じ土俵で戦っても勝てません。だからこそ、漫画“以外”の得意をもっと伸ばしていきたいんです。
ビジネス系の漫画を描いていると、イベント登壇やこうしたインタビューを受ける機会が多いため、無加工でもかわいいあんじゅ先生であり続けたいと思っています!
漫画を描くだけでなく、売るのも私の大切な仕事。告知の時だけでなく普段からSNSを使って内面をさらけ出したり、イベントに積極的に登壇したり。興味を持ってもらえる切り口はいくつあってもいいと思うので、生き残るためにほかの漫画家が挑戦しないことにも積極的に取り組んでいます。
──スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?
もしやりたいことがあるなら、それを小脇に抱えておくだけでいいと思います。夢や目標って、今の自分から見るとハードルが高く見えがちじゃないですか。でも、何も行動できないからと、あきらめてしまうのはもったいない。すぐに白黒はっきりつけなくても、「いつかこの夢の扉を開けるときが来る」と、ただ持っておくだけで十分だと思うんです。
その上で、自分のちょっと得意なこと・好きなことを選んで続けていけば、自然と「はたらく」が楽しくなってくるのではないでしょうか。
あとは、ぜひ周囲の人を頼ってほしいです。私も活動初期から、たくさんのアシスタントに助けてもらっていました。世の中には、時間に余裕のある人は意外と多くいるので、仲間を募って少しずつ歩みを進めてみてはどうでしょう!
(「スタジオパーソル」編集部/文・写真:水元琴美 編集:いしかわゆき、おのまり)