貧乏神、ズルィードニなんか怖くない――【連載】奈倉有里「猫が導く妖しい世界」#3
この連載では、スラヴの昔話からやって来た物知り猫“バユーン”が、ロシア文学研究者・奈倉有里さんとともに皆さんを民間伝承の世界へとご案内します。
今回はどんな不思議に出会えるでしょうか?
※2025年度『まいにちロシア語』テキスト6月号より抜粋
(スラヴ:ロシアやウクライナ、ポーランド、ブルガリアなど、ヨーロッパ東部から北アジアに広く分布する、スラヴ系諸語を話す人々の暮らす文化圏)
第三回 貧乏神の撃退法
雨の日の来客
日本海が近いこの町には、定期的に海からの強風が吹きつけてくる。そうなると、大好きな自転車に乗って海のほうへ向かおうとしても、びっくりするほど進まない。ペダルを踏む脚は重く、髪がぜんぶ風に持っていかれそうになる。さらに雨でも降ろうものなら、自転車での外出はほぼ不可能だ。そんな日は、家で翻訳でもしているに限る。風に吹かれて屋根や戸が音をたてるのを聞きながら作業をするのも、なかなか悪くない。
人間にはさまざまな感覚器官があるが、私は聴覚に頼るほうである。ロシア語を学びはじめたばかりのころは、とにかくラジオや朗読CDを繰り返し聴いて丸暗記した。いまでも朗読音声を聴くのは好きだ。耳に聴こえる音が心地いいと、それだけで幸せな気持ちになる。
意外なことに耳は、家を選ぶときにも役にたつ。引っ越しをするとき、間取りや建築素材や築年数などはデータで知ることができるが、その家でどんな音が聴こえるかは、行ってみないとわからない。実際に足を踏み入れてわかったのは、この家が「鳴る」家だということだ。床を踏めば軋み、歩けば家じゅうの障子がパタパタと音をたてて応える。朝起きると、外が晴れているのか雨なのか、風があるのかないのか、まず音でわかる。雪の日は静寂に家ごと吞み込まれる。天気も人もすべての気配が開けっぴろげで、閉塞感がない。そこがいちばん気に入った。
そしてこういう家では、座敷童のドモヴォイが訪れればカタカタと心地いい音がするし、悪い妖怪がくればそれなりの、悪い音がするものらしい。
あるどんよりとした雨の夜のこと。戸口のほうからゴゴゴ、ガタリ、と、不気味な音がした。台所で夕食の支度をする私のそばでまどろんでいた猫のバユーンが飛び起きてちいさくフーッとうなり、尻尾をふくらませる。どうやら望ましくない客人のようだ。
束になってやってくる
続いて土間のほうから、ゴト、ゴトゴト、とたくさんの足音がする。ドモヴォイも本棚の陰からひょいと頭を現して、心配そうに音のするほうを見つめている。ははあ、わかったぞ。これはひょっとして、あいつらだな。
妖の世界には、猫のバユーンや座敷童のドモヴォイのような愛すべき存在もいるが、もちろんちょっと、いや、だいぶ迷惑なやつらもいる。
なかでもやっかいで有名なのが、日本でいう「貧乏神」――そう、居つかれた家が貧乏になってしまうという、あれだ。貧乏神には世界じゅうにいろいろな類型があって、スラヴにはズルィードニというやつらがいる。「やつら」と書いたのは、ふつうは複数(三匹以上)で棲みつくと考えられているからだ。だから言葉としても単数形の「ズルィーヂェニ(злыдень)」ではなく、主に複数形の「ズルィードニ(злыдни)」を用いる。
ズルィードニはどんな姿をしているのか。もとを辿ればベラルーシやウクライナの言い伝えに行き当たるが、見た目についてはばらばらで、背中の曲がった半犬半人のようだという話もあるし、蛇と女の中間の姿をしていると言われることもあれば、もっとよくわからない、黒くてざわざわと動く得体のしれないものとして語られることもある。ただ、たいていの場合に共通しているのは、ちいさくて何匹もいる、ということだ。何匹もいるのには理由がある。一匹一匹はさして大きな妖力を持たないため、たとえば一匹が家にある食べものを腐らせたりカビさせたりしているあいだに、もう一匹は畑を荒らして作物を枯らし、さらにもう一匹は農工具を壊す、という具合に、手分けして同時にたくさんの嫌がらせをするのだ。ずるぃーぞ、ズルィードニだけに。……というのは冗談だが、当たらずとも遠からずというべきか、ロシア語のズルィードニは「害悪(зло)」と同語源で(そのため俗に「悪党」という意味でも用いられる)、ウクライナ語ではこれがそのまま「貧困」の意味につながる。
そんなわけで、「なんだか突然、困ったことばかり起きる」「泣きっ面に蜂だ」「ふんだりけったりだ」、という状況になったら、それはズルィードニの仕業かも知れない。ロシア語の有名な諺に「不幸は単体ではやってこない(束になってやってくる)(Беда не приходит одна)」という言葉があるように、ひとつなら単なる不運で済ませられるものを、人が対応できなくなるくらいたてつづけに引き起こすのが、やつら、ズルィードニなのである。
手に負えなくなる前に
じゃあもし、身近にズルィードニの気配を感じたら、どうしたらいいのだろう。いちばん広く知られているズルィードニの撃退法は、あらかじめ、やつらの天敵であるドモヴォイと仲良く暮らしておくことだ。心地いい空間をつくる妖怪ドモヴォイがしっかり家になじんでいれば、そもそもズルィードニは寄ってこない。でも、ドモヴォイが弱っていたり留守にしていたりするときは、隙ができていて危ない。ここみたいに引っ越してきたばかりの家にも、隙があるのかもしれない。
ほかに、ズルィードニに限らずほとんどの悪い妖怪に対してい効果があるとされるのは、「箒で床を掃くとき、必ず戸口の方向に向かって掃く」という方法だ。日々の掃き掃除のついでに、悪い妖気を少しずつ外に追い出していくイメージだろう。まあ、箒をあっちこっちに向けて掃いたら妖怪退治以前に掃除もうまくいかないので、これは掃除の基礎を教える目的を兼ねているような言い伝えである。
けれどもいちばん重要なのはやはり、くじけないことだ。ズルィードニは人の心の弱さに入り込む。「ああ不幸だ、なんで自分ばかりこんな目に遭うんだ」と悲嘆に暮れているとズルィードニは喜んで小躍りし、さらに、人間がやけになって運まかせの博打に出たり、強欲なくわだてをたくらんだりすれば、ズルィードニはここぞとばかりに大活躍をはじめる。そうなってしまってはもう手に負えない。逆に、仕事を楽しむ人間は嫌がられる。だから不運の連続にもめげず、お金がなくとも少しでも楽しい仕事をみつけ、やりたいことをやろうとし続けると、ズルィードニはしまいに面白くなくなって、もっと欲深で他人を貶めることばかり考えているような人間を探し、その家に移り住んでいく。
スラヴの昔話では、「はじめは働き者の家に住みついたズルィードニが悪さをしてその家を貧乏にしてしまうが、結局は根負けし、その不幸を喜んで見ていた欲深い者の家に移っていく」という筋書きもみられる。「それなら最初からちゃんと人を選んで棲みついてくれよ」と言いたくなるが、ズルィードニは一説によると目が悪く勘も鋭いので、まずはあてずっぽうに棲みついてから、居心地のよさを確かめているらしい。
なんだか不幸なことが重なるなあ、と落ち込んでしまいがちなとき、ズルィードニは物陰からこっそりと、活躍の機会をうかがっているのかもしれない。そんなとき「いや、やつらの思う通りになんかなってたまるか」と決意することができたら、しめたものだ。
土間のズルィードニたちが、落ち着かなそうにもぞもぞ、ごそごそしている音が聞こえる。そういえばこの家には富と呼べるようなものがなく、これ以上「貧乏にする」という目的をどうしたら果たせるのか、私にもわからない、ズルィードニが飽きて出ていくのも、時間の問題かもしれない。
奈倉 有里
1982年生。ロシア文学研究者。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』『アレクサンドル・ブローク詩学と生涯』『ことばの白地図を歩く』『ロシア文学の教室』『文化の脱走兵』、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』など。
イラスト 山田 緑