第44回くらしき未来K塾/学生児島虎次郎からの書簡(2024年7月13日開催)〜 現在まで知られることのなかった児島虎次郎の出世作、代表作の裏側
児島虎次郎(こじま とらじろう)が世に知られるきっかけとなったのは、「なさけの庭」という学生時代の作品です。
しかし、学生児島虎次郎の自己評価は厳しいもので、同時期の代表作でもある「里の水車」、「登校」についても同様でした。
通常、制作者が作品に対する思いや過程を細かく記すことはない、もしくはほとんど残っていないそうです。
しかし、学生時代の児島虎次郎は貸資生(奨学生)として支えてくれた大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)への報告として、数多くの書簡を送っており、そこから制作過程を読み解けます。
「学生児島虎次郎の書簡」を通じた、作品解説を紹介します。
第44回くらしき未来K塾 特別展「大原家に残る書簡の数々〜学生児島虎次郎からの書簡〜」の概要
今回で第44回となる「くらしき未来K塾」は「語らい座 大原本邸」にて定期的に開催されているセミナーで、2024年7月13日(土)午後1時から開催されました。
2024年7月9日(火)〜8月4日(日)に開催された、「特別展 大原家に残る書簡の数々〜学生児島虎次郎からの書簡〜」についての解説講義となります。
講師は公益財団法人有隣会 学芸員の水島博(みずしま ひろし)さん。
講義は1時間ほどで、その後はコーヒータイムや質疑応答が和やかなムードでおこなわれました。
講義内容は以下のとおり。
・児島虎次郎との出会い
・《里の水車》制作過程
・出世作《なさけの庭》制作過程
・《登校》制作過程
児島虎次郎との出会い
児島虎次郎をとりまく人物のなかで、もっとも重要といえるのが大原孫三郎との出会いです。児島虎次郎は大原孫三郎の一つ年下で、生涯親交を持ち続けることになります。
二人の出会いは、東京美術学校(現 東京芸術大学)に在学中の児島虎次郎が、貸資御願(たいしねがい)を提出して貸資生(奨学生)になることがきっかけです。
実業家であった大原孫三郎は貸資制度(奨学金制度)をおこなっていました。
虎次郎は1902年(明治35年)9月3日に学費として月6円の貸資御願を提出します。おそらくこのときが大原孫三郎との初見ではないかとのこと。
貸資が決まって翌月10月8日に大原家に送られる受領通知が虎次郎からの最初の書簡です。
書かれてある内容は至ってシンプルで「受け取りました」くらいのものだそうですが、孫三郎との関係が深くなるにつれ、書簡の内容も充実していくようです。
代表作《里の水車》制作過程
代表作「里の水車」は大原美術館の所蔵です。
外部リンク
大原美術館:里の水車
「里の水車」は1907年に開かれた東京府勧業博覧会に出展されました。
「里の水車」のタイトルのとおり、水車小屋のようすが描かれたもので、赤ん坊を抱いた女性の向かいに若い女性が座っている構図になっています。
描かれた場所は、虎次郎の出身地でもある岡山県の成羽川です。
書簡には成羽川の水車小屋を描くことに決めたこと、帰郷することなどが詳細に書かれています。そして、学生児島虎次郎の書簡で頻繁に登場する人物が「黒田清輝(くろだ せいき)」です。
黒田清輝は虎次郎の恩師で、作品の評価、修正点のほかに展覧会の出展を勧めた人物。
書簡に書かれている、黒田清輝の批評を簡単にまとめると以下のとおり。
・無難に描かれている(高評価である)
・当初石段に描かれていた人物は、とったほうが良い
・描かれている親子の指についての高評価
・母親の顔に雑味があり、それが高評価
・虎次郎が人物画に取り組んだことへの高評価
・翌年(1907年)の博覧会への出展を勧められる
実際の作品を観たところたしかに石段に人物は描かれていませんが、どのような人物が描かれていたのかも気になりますよね。
虎次郎の恩師が評価した点を知ってこの作品を観ると、なぜか「なるほど」と思えてしまうのが不思議です。
黒田清輝は、風景画が多いなかで人物画に取り組んだ虎次郎に対しても評価が高かったようです。
虎次郎は博覧会の出展についてはあまり関心がなく、黒田清輝の高評価には素直に喜んでいるようすが書かれています。
力が足らず、制作は失敗に終わった。全くの失敗に終わった。高き理想から見れば、誠に憐れで、価値のないものと考えている。
制作は、先生の説に従って、直ちに修製します。
解説文 明治39(1906)年10月5日付孫三郎宛虎次郎書簡より抜粋
しかし、自身の評価は非常に低いもので、書簡には「自分の力が足りない」「失敗」「価値のないもの」などと書かれていて、児島虎次郎がより高いところを目指していたことがわかります。
恩師の説(説得・説明などの意)に従いすぐに修正することなども書かれているほか、制作開始当初モデルを探すことに苦労したことや、完成するにあたって額縁の購入依頼などを事細かく報告しています。
しかし、虎次郎が苦悩し「失敗」と評した「里の水車」は、展覧会で高く評価されました。
出世作《なさけの庭》制作過程
出世作「なさけの庭」は皇居三の丸尚蔵館の所蔵です。
外部リンク
皇居三の丸尚蔵館:なさけの庭
この作品も1907年の東京府勧業博覧会において一等賞を受賞。明治天皇買い上げとなったことも相まって、大原孫三郎にヨーロッパ留学を決めさせる作品にもなります。
その後、児島虎次郎は3回にわたってヨーロッパへ渡航し、絵画の勉強から絵画の買い付けへとつながり、それはのちの「大原美術館」につながる重要な作品となるのです。
描かれているのは孤児院のようすで、病気の子どもを看病する女性、心配そうに周りで見守る子どもたちにやわらかい陽光が差し込む構図になっています。
制作場所は「岡山孤児院」。日本で初めての孤児院で、創設者は「石井十次(いしい じゅうじ)」。
この石井十次は虎次郎をとりまく人物たちのなかでは特に重要で、娘の「友(とも)」はのちに児島虎次郎の妻となります。
制作への決意と題材の決定
当時の書簡には、取り組む作品が展覧会に出展することを目的にしていること、すでに完成していた「里の水車」を超える制作へ向けて努力することへの決意表明が書かれています。
虎次郎はかなり悩んで、最終的に「孤児」というもっとも弱い立場の人へのフォーカスを決心しました。きっかけは、地元岡山や学生時代の拠点でもある東京上野で、孤児を見たことでした。
制作開始時の裏側
題材を「孤児」に決めた虎次郎でしたが、どこの孤児院で描くのかも悩んでいました。候補である鎌倉(神奈川県)、上毛(群馬県)、岡山のどこが良いのかを孫三郎に尋ねたうえで最終的に岡山孤児院に決めたようです。
虎次郎にとって孫三郎は、なんでも相談する存在だったようで、制作にかかる経費の相談もしています。
もちろん必要な経費なので相談するのは当然ですが、制作地(滞在費)、構図(モデル費)、画材費など事細かく書簡で送っています。
制作に関する情報がこれほど生々しく残っていることは驚きです。
制作開始前に、すでに子ども6〜7人を構図として着想していて、「モデル費は予算も立たない」と書かれている点からも、制作の準備段階から相当苦労していたようですね。
また、書簡には「私の作品は孫三郎に捧げる」と書いてあるそうで、制作にあたっての情熱、孫三郎に対する信頼の厚さ、愛情の深さを知りました。
制作中の苦悩
児島虎次郎は岡山孤児院に滞在し、いよいよ制作に取りかかるわけですが、やはり思うようにいかず「愚痴」の書簡も送っています。
愚痴のようになるが、今回のような制作は初めてのことであり、思い通りにいかないが全力を注いで制作に励んでいる。
昨日の失敗はしないと誓いつつも来る日も来る日も失敗に終わってしまっている。
しかし、この失敗こそが成功へとつながる階段だと信じつつ己の力不足を深く嘆慨している。
解説文 明治40(1907)年1月25日付孫次郎宛虎次郎書簡より抜粋
この作品が「虎次郎初の展覧会出展目的の制作」で、苦悩やいらだちが書いてあり、それでも失敗が成功につながることを信じて描き続けていたようですね。
別の書簡には、孤児院滞在時に孤児たちがクリスマスに讃美歌を歌っていて、それを2階で聞いていた虎次郎が感動して涙したことなどが書いてあるらしく、孤児たちへの思いや虎次郎の人間性が伝わってきました。
この絵をよく観ると、孤児たちの後ろにキリストの絵が描かれていることに気づきますが、石井十次や大原孫三郎がキリスト教と関係が深かったことも作品や書簡から知ることかできます。
完成時の裏側
「なさけの庭」の完成は、虎次郎が作品を持って上京し、黒田清輝の批評を受けた書簡から読み解くことができるようです。
批評内容は「里の水車」に比べるとほとんど修正点がなかったようで「ガラス窓の外を少しだけ明るくしたほうが良い」といった程度でした。
ところが「なさけの庭」には、誰の名前で出展するかという出展者問題があったそうです。
石井十次から「岡山孤児院の名で出してほしい」と依頼があり、児島虎次郎は「作品が役に立つのであれば、どのような形でもかまわない」と了承したそうですが、黒田清輝の考えは違ったようです。
虎次郎が苦労して書き上げたものだからと「児島虎次郎」での出展を勧めたようで、「受賞すればそれは結果的に岡山孤児院の名前が世に知れ渡ることになる」といった理由も書かれてあります。
どうやら黒田清輝は受賞を確信していたようですね。
一連のやりとりを聞くと、黒田清輝の作品への評価が非常に高いことがわかりました。
虎次郎は石井十次への断りを大原孫三郎に依頼します。
虎次郎自身としては、どうしても岡山孤児院へ断りをすることができないため、甚だ失礼ではあるが、孫三郎から石井氏へお伝えいただければ、幸いである。
このお願いは、虎次郎個人のお願いではなく、全て黒田先生からの依頼であるので悪しからず御了承いただきたい。
出品期限にも間がないので、至急、岡山孤児院への断りの連絡をしていただきたい。
画題は黒田先生から岡山孤児院云々とするようにと指示を受けたこと。
解説文 明治40(1907)年2月28日付孫三郎宛虎次郎書簡より抜粋
児島虎次郎出世作として有名な「なさけの庭」出展にこのようなやりとりがあったことは、誰にも知られていなかった話で、出世作の貴重な裏側を知りました。
作品は明治天皇買い上げとなりますが、買い上げの話は虎次郎の耳にはすぐには届かず、虎次郎自身もそのことに大きな関心はなかったようです。
セミナーでは買い上げ金額の紹介もありました。
書簡には「知り合いからの情報で350円の値がついたそうですが、私のものではないので募金でいいです」という内容が書かれていて、虎次郎がお金に関して頓着しないことも一つのポイントになっています。
なお、上位に書かれている作品や作者は当時すでに著名なかたで、このなかに学生児島虎次郎の名前が連ねられていることは、すごいことだったそうです。
この作品をきっかけに虎次郎は孫三郎からヨーロッパ留学への許可をもらうことになり、のちの海外絵画収集へとつながっていきます。
代表作《登校》制作過程
代表作「登校」は高梁市成羽美術館の所蔵で、前述した東京勧業博覧会 受賞直後に成羽に帰って描いた作品です。
外部リンク
高梁市成羽美術館:登校
「弱き者のために」がテーマだそうですが、通学している二人の少女を描いています。個人的に虎次郎の作品のなかでは一番好きな作品です。
制作開始時の書簡には、二人の少女が学校で授業を終えて帰宅しているようすを描いていること、画中には老人と子どもがいること、あまり裕福ではない家庭の人を選んでいることなどが書かれています。
ここで矛盾がありますよね。題名は「登校」ですが「授業を終えて…」と書かれているので「下校」となるはずですが、矛盾点を知るうえでも貴重な資料のようです。
「老人と子ども」については黒田清輝からの提案で外したそうです。
昨夜、黒田先生を訪ねまして、錦莚をお届けいたしましたところ、厚く謝意を伝えてくれとおっしゃいました。
〜中略〜
二人の子供の内、帽子を被っている年少の方を面白いようだとおっしゃいました。老人とその側の子供は取り去った方が全体の調和がよろしいと語られました。
〜中略〜
そこで、老人と子供をなくして、背景を少し改めることにします。
この季節では夏の強い光を目にすることができず、都合が悪いのですが、とにかく未完成品であるため、とても満足することはできないと思います。
もう一夏をこの作品のために費やすことで、この絵も完制することと思っています。
解説文 明治40年(1907)年11月14日付孫三郎宛虎次郎書簡より一部抜粋
「もう一夏…」という文がありますが、書簡の日付は1907年11月14日。翌年の1月には虎次郎が留学でパリに向かいますのでほぼ完成していたかもしれません。
このあたりの書簡から留学のため、語学勉強についても書かれています。
また「裕福ではない…」と書かれてますが、実際の絵を観るかぎり、少女の服装は裕福な家庭のものとしか思えません。
書簡から制作開始〜完成作品までの矛盾点に、思いをめぐらせることも楽しみかたのひとつだと思いました。
また、完成に至るまではモデルに苦労したようで、「幼いほうのモデルはどうしても来てくれない」「もうひとりのモデルも今日は休みで遊びにふけってやってきてくれない」と書かれているそうです。
今回のセミナーで児島虎次郎はいつもモデルに悩まされていたことがわかりましたが、画家は多かれ少なかれこういった問題をかかえていたのではないかと思います。
制作者の苦労や裏側を知るうえで大変勉強になりました。
受講終了後には、会場となったブックカフェに外国人観光客の姿もみえて、「倉敷」への関心の高さもうかがえました。
おわりに
「学生児島虎次郎の書簡」は今回初めて展示されたもので、この情報のほとんどはまだ知られていなかったものです。
児島虎次郎は47年という短い生涯でしたが、書簡の数々によって貴重な情報を現代の私たちに残してくれました。
「書簡の数々」というと何やら難しく思ってしまいそうですが、虎次郎は筆まめだったんですね。
今回のセミナーでは、「筆まめな児島虎次郎」のおかげで代表作、出世作についての詳細はもとより、時代背景、児島虎次郎の人間性や虎次郎をとりまく人たちの人物像など多くのことを楽しく学べました。
他にもまだまだ知られていないことも多そうです。
このような学びの場を提供してくれる語らい座 大原本邸で開催される「くらしき未来K塾」に一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
次回の開催は2024年8月24日(土)で、越前屋俵太さんの講演です。
受講内容はさまざまで、月1回開催されています。足を運んでみると新たな発見があるかもしれませんよ。
今回のセミナーを受けて、あらためて児島虎次郎の作品を観に行こうと思いました。